キリスト者になるということは、キリストの背中を見ながら、その真似をするということです。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示した」(15節)とある通りです。
今日の聖句は、三つの具体例をもってキリストの姿勢を教えています。一つは膝をかがめて隣人に仕えるという姿勢、二つ目は胸を張って毅然とした姿勢、三つ目は身軽で自由な姿勢です。わたしたちには、キリストの後ろを歩きながらキリストのように生きることが求められています。
第一に膝をかがめて隣人に仕えるという姿勢です。先週の箇所で、イエスは世にいるすべての弟子たちの足を洗いました(1-11節)。足を洗う行為は、奴隷の仕事とされていました。主人であり、教師であるイエスが、弟子たちの足を洗うことはこの世の秩序の逆転であり反転です。威張りたい者は、誰よりも腰を低くしなくてはいけません。そうすればすべての人は支配欲に打ち勝つことができるからです。間違っても、隣人を支配するために見かけだけ隣人に仕えるふりをしてはいけません。そもそもの趣旨は、威張る人を追放することにあるからです。
跪き腰を曲げて足を洗う姿は「祝福」ということと関係があります。ヘブライ語の「祝福する(brk)」という単語は、「跪く」という意味も持ちます。聖書の世界における祝福は、「上から下へ」というだけではなく、「下から上へ」という方向もあります。たとえば「神を祝福する」という表現があるぐらいです。通例、「神を誉めたたえる/ことほぐ」と訳されます。イエスが子どもを下から抱き上げて祝福したことは、この意味で示唆に富みます。新約聖書はギリシャ語で書かれましたが、イエス本人はヘブライ語・アラム語(セム語族)を第一言語としていたことを覚えなくてはいけません。
一人の人がその他大勢の人に向かって「上から下へ」祝福の祈りをするということは、やはり権威主義的な見た目を持っています。イエスは、下から上へ祝福し、弟子の下に跪いて足を洗い、互いに足を洗い合いなさいと命じています。その言葉に忠実な「祝祷」の可能性を模索することは良いことです。今年度始まった「祝福と派遣の聖句交読」には、「下から上へ」「互いに足を洗い合う」という趣旨が生きています。また、子どもが聖句を読むことも、「下から」であるし、「執事のみ」という権威主義に対する大いなる逆転劇でもあります。
英語でもunder-standという綴り(「下に立つ」の意)によって、「理解する」という意味をなすように、隣人の下に立つときにはじめて相手のことを理解することができます。下から祝福するときにはじめて相手を尊重することができます。それを互いに行うならば、すべての威張る人が追い出されていくのです。高いところを削って平らにする努力と言っても良いでしょう。高ぶる傲慢はいけません。
二つ目は一つ目とは正反対に思えるような姿勢です。胸を張って堂々とする姿勢だからです。以前から申し上げている「わたしはある」という態度です。
19節に「事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるため」とあります。このイエスの発言の「事が起こったとき」が何を指すのか、何事が起こった時点を指して言っているのか、議論があるところです。新共同訳とは違う意見だと思いますが、わたしは「イエスの逮捕の時点」と考えます。それは18章に描かれている場面です(203頁)。18:5、18:6、18:8の「わたしである(エゴー・エイミ)」を、旧約聖書学者の木田献一と共に、「わたしはある」と訳すと、今日の箇所とうまく対応します。
木田はここにユダに対するイエスの優しさを読み込んでいきます。18:4で、自分の身に起こる不利益を何もかも知りながら、自ら進み出て堂々と逮捕されていくイエスの背中こそ、「わたしはある」という態度なのだと考えます。ユダがイエスを官憲に引き渡すことをも知っていて(5節)、それを黙認し赦しているからです。わたしたちは普通、自分に不利益を起こす人を前にどきどきします。動揺します。「目の前にいる人が自分を冤罪によって警察に引き渡す」と知っていて平然といられるはずがありません。
細かい話ですが、「裏切る」(11節・21節)という訳語よりも「引き渡す」の方が正確です。この時代にパラディドミという動詞に、裏切るという意味は無いからです。「裏切る」という訳語は、ユダ一人を悪役にしようという意図をもって定着させられたものです。実態に沿って、「(官憲に)引き渡す」という翻訳の方が良いでしょう(Ⅰコリ11:23)。実際、イエスはユダが数時間後にイエスを引き渡すことを知っています。被害者イエスが見抜いている限りにおいて、加害者ユダは「裏」ではなく「表」でイエスを切っているのです。
ともかく逮捕の数時間前にあってもイエスは平然といつものようにユダと共に食事をしています(18節)。最後の晩餐でも、今までと同じように「わたしはある」という態度をとっています(6:20「わたしだ」)。その穏やかで毅然とした態度は逮捕の現場においても、十字架上においても一貫しています。ユダを含めて逮捕しようとした人々は、「わたしはある」という態度の前に後ずさりをします。人々は十字架でイエスを殺しているまさにその時に、イエスの態度を見て「わたしはある」ということを知ります(8:28)。それはルカによる福音書23:34に付加されている(亀甲かっこでくくられている)有名な聖句、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と共通している態度です。
こういった逮捕や処刑の現場におけるイエスの態度がわたしたちの模範です。イエスは、内心おそらく動揺し混乱していたとしても(21節)外には出さないで、「わたしはある」という姿勢を貫きました。これこそ「敵を愛する」ということです。自分自身の品位を保っている姿勢です。また、隣人の存在・隣人の自由意思・隣人の自由な振る舞いを赦している姿勢です。もちろんどんな人も隣人に陥れられることは嫌です。しかし、本当の意味で信頼関係を作るためには隣人に裏切る自由さえも保証しなくてはいけません。「何をされても『わたしはある』、だから、たとえあなたが信頼を破壊しても構わない」という姿勢が必要です。裏切る自由がない信頼というものは信頼の名に値しないからです。
嵐の中でも、不条理の苦しみにあっても、人間関係の破れの中にあっても、「わたしはある」という穏やかで毅然とした態度・胸を張った姿勢を保ちたいと願います。それが十字架のイエスの後姿を真似するということです。低いところを盛って平らにする努力と言っても良いでしょう。不要の卑下はいけません。
三つめは身軽で自由な姿勢です。神からの全権委任を受けてお使いに出されている状態のことです。16節には、イエスが弟子たちを遣わしていることが書かれています。さらに20節には、神がイエスを遣わし、イエスが弟子たちを遣わしていることが書かれています。イエスのように振る舞うときに、神・イエス・弟子の三者は一体です。弟子を受け入れる人は神を受け入れるのと同じであると言われているからです(マタ10:40、ルカ10:16参照)。
ヨハネ福音書の著者は一貫して「十二弟子(後の十二使徒)」を批判しています。その主張が今日の箇所にも現れています。16節の「遣わされた者(アポストロス)」は通例、「使徒」と訳される言葉だからです(「遣わした者」は別動詞)。ここでは、「十二使徒」が虎の威を借る狐のように、「生前のイエスを見た直弟子」としての権威を盾にして威張っていることを批判しています。そのふんぞり返った姿は足を洗う主の姿と正反対です。使徒はイエスに優るものではないし、似てもいないと著者は釘を刺しています。権威主義を上着にまとって威張っている使徒たちは、決して身軽で自由ではありません。その姿はイエスの後姿を真似しているものでもありません。イエスの真似ができていないならば、神から遣わされていません。「使徒」の名前倒れが指摘されています。
最後の晩餐において、イエスは身軽で自由でした。晩餐の席から途中、何を思ったか突然立ち上がって、上着を脱いで、手拭いをとって、腰にひっかけます(4節)。たらいに水を汲んできて、おそらく腕まくりをし、食事中の弟子たちの足を一人ずつ洗って、手拭いでふいていきます(5節)。そうかと思ったらまた上着を着て、食事を再開いたします(12節)。とても行儀が悪いです。神が親ならば、イエスをしつけなくてはいけない場面です。しかし神はこの場面に介入しません。イエスに全権委任をしているからです。
この地上で愛を行うこと、これが神から神の子へのお使いの内容です。その詳しい中身については、イエスに任されています。この世の常識に沿っている場合も、反している場合もありえることでしょう。食事中のお行儀が悪くても、愛を行うことが実践できれば、それで良いのです。神はイエスを信頼して派遣しています。その全幅の信頼を受けて、イエスは身軽に自由に、愛を行います。威張って「主賓面」をしても良い場面で弟子の足を洗い、動揺し取り乱しても良い場面で穏やかに毅然とした態度を貫くのです。膝をかがめる姿勢と胸を張る姿勢はどちらも真に神から遣わされた者としての姿勢です。誰かから信頼され任されているときに初めてわたしたちは身軽に自由に生きることができるものなのです。その「誰か」なる者を復活のイエス・キリストと観念する人々をキリスト者と呼びます。
神がイエスを遣わしたのと同じように、イエスはわたしたちを遣わしています。傲慢になり隣人に害悪を垂れ流すこともあるわたしたち。不必要に自分を卑下し卑屈になりがちなわたしたち。気に入らない隣人を売り渡すこともあるわたしたち。自己保身のために隣人を見捨てることもあるわたしたち。イエスは、そのわたしたちをお使いに用いて、裏切る自由を含め全幅の信頼を寄せて、「この地上に愛を行うこと」を命令しています。
キリスト者になるということは「話の分かる上司をもって伸び伸びと働くこと」に似ています。部下に対する不信感を基にこまごまと指図をして、ねちねちと査定する上司のもとでは、部下は委縮してしまうでしょう。全幅の信頼を受けて、大まかな方向だけを示され、詳細の全権を任されたときに、部下は伸び伸びと働くことができます。「最終責任は自分が負うので思い切って働いてくれ」と上司に言われると、部下は奮い立つものでしょう。そして、任されているのに過ぎないので適度に謙虚になります。大きく任されているので適度に毅然として振る舞えます。身軽に自由に生きることができます。
今日の小さな生き方の提案はキリスト者になるということです。自分の人生を生きるということは、神から任された仕事だと考えることです。任された人生をイエスのように身軽に自由に生きることです。高いところを削り、低いところを盛り、平らになって、身の丈の人生を伸び伸びと過ごすことです。大まかな方向性は、「この地上で愛を行うこと」です。詳細は任意・自由です。わからなくなったら聖書のイエスを読み直せば模範が書いてあります。イエスの通りに実行するなら幸いです(17節)。ここにおおらかな生き方・豊かな人生・永遠のいのちがあります。