「五千人の給食の奇跡物語」は、ルカだけではなく全ての福音書に収められています。それだけに重要だということです。ルカ福音書にしか無い特徴、つまりルカの力点を重んじながら、この物語を読み解いていきたいと思います。
一つはサンドイッチ構造です。ルカは、「イエスとは誰か」という問いの間に、五千人の給食を挟みました。7-8節の人々の言葉と、19節で繰り返されます。人びとはイエスのことを「洗礼者ヨハネ」「エリヤ」「誰か昔の預言者が生き返った」と言っています。それに対して、ヘロデは「彼は何者だろう」と首をかしげ(9節)、ペトロは「あなたは神からのメシア(キリスト)です」と答えます(20節)。
こんなに近くにヘロデの問いとペトロの答えがあるのはルカ福音書だけです。通例、ルカはマルコの物語を大幅に省くことをしません。しかしルカは例外的に、マルコ福音書6章45節から8章26節までという広い範囲を、なぜかごっそりと省略しました。新約聖書学者たちが「大割落」と呼ぶ現象です。省略の一つの意図は、五千人の給食を、ヘロデの問いとペトロの答えで直接挟むためです。「人々がいろいろに噂するイエスとは誰か」、「神からのキリストだ」、「そしてそれを証明する根拠が五千人の給食なのだ」というわけです。
イエスはヨハネなのでしょうか。そのことはヘロデが明確に否定しています。「ヨハネなら、わたしが首をはねた」(9節)。それを補強して言えば、ヨハネは奇跡を行う人ではありませんでした。五千人の給食という奇跡を行う以上、イエスはヨハネの再来ではありません。
ではイエスはエリヤなのでしょうか。ルカ福音書はすでに、「来るべきメシアの露払いとしてのエリヤはヨハネである」と明記してきました(1章17節、7章27節)。つまり、イエスはエリヤではありません。むしろメシアなのです。ただし、イエス自身がエリヤに言及しているので、誤解されやすい状況ではありました(4章26節)。
残るはイエスが昔の預言者の再来であるという問いだけです。いったい誰の再来かと誤解されていたのでしょうか。最も可能性があるのは、預言者エリシャです。これまた自分自身でエリシャに言及しています(4章27節)。それだけではありません。五千人の給食と似たような奇跡をエリシャも行っているのです。
列王記下4章42-44節をお開きください(旧約583ページ)。よく似た「百人の給食の奇跡物語」が記載されています。そして、同43節が、ルカ9章13節に似ていることにも気づくでしょう。つまり五千人の給食は、「イエスはエリシャの再来かもしれない」と読者を揺さぶるためにあります。しかし、直後に揺り戻しがあり、「イエスはエリシャでもなくメシアである」という結論を急転直下持ってきます。こうした思わせぶりな急激な変化によって、イエスがメシアであるという信仰告白がより一層際立つようになるのです。
ルカ福音書の五千人の給食は、最後の晩餐(22章)、エマオの晩餐(24章)と単語レベルで関連しています。「日が傾く」(9章12節・24章29節)、「賛美の祈りを唱える」(9章16節・24章30節)、「パンを取る」「裂く」「渡す/与える」(9章16節・22章19節・24章30節)は、まったく同じ表現です。ここには同じ本質を持つ三つの晩餐があります。実際、五つのパンと二匹の魚は、主の晩餐のシンボルとして古代教会で用いられていたことが知られています。
同じ本質とは、まず「主イエス・キリストの主催する晩餐」であるということです。食卓の主はイエスです。家長役が代表の祈りをすることになっているからです。
同じ本質の二つ目は、弟子たちが給仕役をするということです。「主の僕の給仕」とでも呼ぶことができるでしょうか。ヨハネ福音書の五千人の給食においては、イエスがすべての人にパンを与えているように読めます(ヨハネ6章11節)。しかし、ルカ福音書は給仕役の重要性を強調しています(22章24-30節、使徒言行録6章1-6節も参照)。イエスの弟子がイエスに倣って低い姿勢で給仕をしなくてはいけません。
同じ本質の三つ目は、すべての人が食べて満腹し、余るものが出るということです(17節)。「すべての者のための恵みの配給」です。最後の晩餐においても、わたしたちの主の晩餐式と同じく余ったパンがあったことでしょう。エマオの晩餐においては、イエスも二人の弟子も結局何も食べずに余っています。このことが示唆することは、晩餐の恵みを受けて満たされたものは、満たされていない人々に食べ物を配ることへと遣わされるということです。十二籠は、十二使徒が遣わされるための数です(10・12・17節)。
五千人の給食は主があえて設定し、主が主催してすべての人を招き、主が取り仕切る「主の晩餐」です。そこで弟子たちが仕えるということを学ぶ「主の晩餐」です。そこで人々が「あれは主だ、イエスは主だ、神からのメシアだ」と告白をする「主の晩餐」です。そこで、すべての人が満腹する「主の晩餐」です。そこから、いただいた恵みを再配分するためにパンを食べた者たちが世界に遣わされる「主の晩餐」です。
これこそが神の国の現実であり、これこそ人々が必要としている癒しなのです。普段は威張りたがる者たちが、腰を屈めて仕え合うというあべこべな世界です。そこでは世界で小さくされている者が大きく尊重されます。少しの食べ物が、大量の食べ物に変わるというあべこべな世界です。そこでは食べ飽きている者が空腹を経験し、空腹の者が満腹を経験します。
ルカが医者であるからかもしれませんが、「癒し」はルカ福音書で繰り返し語られている鍵語です。マルコ版には、11節にあるような「治療の必要な人々をいやしておられた」という場面はありません。ルカの主張は、真の癒しが神の国の現実にあるということです。真の癒しとは、あべこべな世界の中でわたしたちが芯から満たされるということです。
さて群衆はどのようにしてこのあべこべな世界に飛び込んだのでしょうか。その点でもルカの描きぶりが光っています。
十二使徒は、ガリラヤ中の町や村を訪れ、神の国を宣べ伝え・病気をいやし、カファルナウムに居るイエスのもとに戻ってきて報告をしました(1-6節)。一方イエスの噂を聞きつけたガリラヤの領主ヘロデがイエスを殺すための監視を強めました(7-9節)。そこで、イエスは弟子たちを連れてベトサイダという町に「退かれた」(10節)。これは緊急避難です。なぜなら、ベトサイダはカファルナウムと近いけれども、ヘロデの支配するガリラヤ地方ではなくトラコン地方の町だからです(10節)。ベトサイダという場所を五千人の給食の場面とするのはルカだけです。その理由は、先ほどのサンドイッチ構造の関係かもしれません。五千人の給食を、領主ヘロデの独り言と密接に関係付けたいということもありえます。しかしそれだけでもありません。
ヨハネ福音書によれば、ベトサイダはペトロ、アンデレ、フィリポという三人の弟子の故郷です(ヨハネ1章44節)。そしてヨハネ版五千人の給食で、フィリポとアンデレが登場します。このことを考え合わせると、五千人の給食物語は実際ベトサイダでの奇跡であり、土地勘のあったペトロ、アンデレ、フィリポが導く避難旅行の最中にあった出来事だったのだと思います。ヨハネ福音書の細かい歴史記述は、全般に正確である可能性が高いからです。
死の危険を覚悟しながら逃げるイエス一行に群衆はついて行ったのです。「後を追った」(11節)という言葉は、「従った」という意味です。人がイエスの弟子となるときに用います。危険な世界にあえて飛び込んで行った、正にその時に真の癒しが起こるのです。ここにもあべこべの世界があります。治療が必要な人は自分の家から遠くに旅をしてはいけません。心の平穏が欲しい人は、わざわざ危険な場所に行ってはいけません。落ち着く場所で安静にしておくべきです。いわゆる「癒し」が必要ならば、ゆるやかな時間の中で、ゆるキャラを眺めて「癒された」と言っていれば良いわけです。
しかしどうなのでしょう。自分の殻に閉じこもるだけで本当に人は癒されるのでしょうか。あえて飛び込んでいくことによって、かえって癒されていくことがあるように思えます。適度な運動が体をすっきりさせるのと同じです。普通運動は体を疲労させるのですから、これもあべこべな世界です。群衆はそのような癒しを求め、イエスに従って弟子となっていったのです。
同じような「殻破り」が、十二使徒にも求められます。新たに従ってきた群衆を解散させようとするからです(12節)。彼らは自分たちの内輪で十分でした。これ以上仲間が増えて手間暇をかけること、仕えるということが嫌だったのでしょう。また、ペトロ、アンデレ、フィリポはイエスの身柄も心配しています。領主ヘロデに逮捕されないように、目立たないところに宿を取りたいのです。だからイエスへの善意で群衆たちを遠ざけようとしたのです。
十二弟子たちも真の癒しを必要としています。あべこべにならないといけません。自分たちの仕事ぶりを威張って報告をし、イエスのために仕えている弟子たちが、支配欲を増長させてしまう場合があります。その結果として、新しい仲間に仕えないのは良くない。だから直さなくてはいけないのです。この葛藤は使徒言行録6章と似ています。
普通は買い物に行かせます(13節)。しかし金銀は彼らにありません。金銀が通用するのは普通の世界ですが、神の国の現実は普通とはあべこべです。逆に、もし弟子たちが金銀でこの事態を解決したら、真の癒しは起こらないのです。金の力で解決されたというだけの話です。
真の癒しは、キリストから渡されたものを、人々に分けていくときに起こります。普通は分けると減るのに、分けたら増えたということを経験する時に、わたしたちの固定観念という病が治されます。なぜあべこべの世界が必要かと言えば、わたしたちに「普通はこうだ」という固定観念があるからです。社会がつくった固定観念(ジェンダー意識など)もあれば、個人が持つ固定観念(差別や偏見)もあります。固定観念もまた「罪」の一つです。
五千人の給食はあえてイエスに従った群衆の癒しでもあり、すでに従っていた弟子たちの癒しでもあります。そこに集うすべての人は、あべこべの世界・神の国の現実に参与して、固定観念という罪から解放されたからです。常ならざることの連続によって、人は真に癒されていくのです。
今日の小さな生き方の提案は、晩餐の交わりに飛び込むこと、そしてキリストからいただいたものを誰かに分けることです。その象徴はパンとぶどう酒です。その人にとって意味が異なるかもしれません。ある人にとっては実際の食べ物、別の人にとっては神の国の福音、親切な行為、社会不正への抗議などさまざまな可能性がありえます。余ったパンと杯は可能性の豊かさも示します。分けたら増える。ここで癒され、人々への癒しに遣わされましょう。