クリスマスおめでとうございます。幼稚園のクリスマスにおいてもクリスマスの何が目出度いのかについて、また、わたしたちがなぜ喜んでお祝いするのかについて、各クラスそれぞれにお話をしました。「赤ちゃんを見て素直に喜ぶことができるので目出度い」「贈るという行為そのものが目出度い」「イエスの誕生によってすべての人に良心が与えられたことが目出度い」など、説明をしました。改めて、今日の箇所に沿って、わたしたちがクリスマスを喜んでお祝いする意味について考えてみたいと思います。
それは「人の子が来たことの意味」について深掘りして考えることです(34節)。アドベントは「到来」という意味のラテン語です。クリスマスは、イエス・キリストがこの世界に来たという出来事です。「降」誕と呼ぶ所以がそこにあります。天から地へ、神の子が人の子となって到来した。人の子イエスが来た意義について申し上げ、分かち合いたいと思います。
赤ん坊として生まれたイエスは、その後成長して少年となり(2章41-52節)、さらに大人になり、「およそ三十歳」(3章23節)の時に活動を始めます。非常に単純な話ですが、赤ん坊のイエスは何も語らず何もなせません。赤ん坊だからです。彼の独自の活動は大人になってから始まります。大人になってからイエスが何を語り・何をなしたのか、その活動についてクリスマス物語ではほとんど顧みられません。ルカ福音書を7章まで読み進んできたわたしたちは、あえて逆に、イエスの大人になってからの言動からイエス誕生の意味について振り返って考えてみたいと思います。イエスの言動を「知恵」(35節)と言います。つまり、今日のイエスの発言から、今クリスマス礼拝を捧げているわたしたちに向けた知恵を受け取りたいのです。それがわたしたちの生きる道を示すことでしょう。
なお、ほとんど同じ話がマタイ福音書11章16-19節にも載っています。両者に共通の元文書があったからです。一々断りませんが、今日の話は両者の比較検討を踏まえたものです。
「今の時代の人たちは何にたとえたらよいか。彼らは何に似ているか」(31節)。イエスは広場に座っている子どもたちが歌う、当時の流行歌を引用して説明します。「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、泣いてくれなかった」(32節)。笛を吹き踊るというのは、結婚式の情景です。そして葬式の歌をうたうのは、もちろん葬式の情景です。子どもたちは「ごっこ遊び」をしているのです。この結婚式ごっこと葬式ごっこにまったく加わろうとせずに、ただ第三者となって冷笑し嘲笑う子どもたちを引き合いにして、同じような大人社会をイエスは批判しています。
バプテスマのヨハネの活動はここで葬式ごっこに例えられています(33節)。ヨハネの宗団は「パンも食べずぶどう酒も飲まず」という断食を含む厳しい修行をしていました。断食をする人々の表情は自然と暗くなり、口も重くなります。それが葬儀の情景に似ているというのです。なお、ヨハネのバプテスマは、人々から忌み嫌われ、宗教的に汚れているとされた徴税人も受けることができました(3章12節、29節)。
葬式になぞらえるヨハネの活動の反射として、イエスの活動は結婚式ごっこに例えられています(34節)。そこには「飲み食い」があります。結婚式の披露宴は飲み食いの典型例です(5章33-34節。ヨハネ福音書2章1-11節も参照)。当時のパレスチナの人々はおよそ一週間飲み食いをして喜び祝ったと言われます。イエスの活動を、「食卓運動」と呼ぶ学者もいます。パンとぶどう酒の楽しい食卓を囲む人々の只中に神の国があるとイエスは確信していました。仮に出される料理がそんなに多くなくとも、つまり普段の食事であっても、イエスにとってその食卓は結婚式の披露宴や大宴会と同じ重みと華やかさを持っていました(3章27-32節、14章15-24節)。特に、普通のユダヤ人たちが決して食卓を共にしなかった「徴税人」を含む「罪人」と呼ばれる人々と、イエスたちが積極的に交わったことが、イエスの食卓運動の大きな特色です。「罪人」とは、当時の宗教上の戒律である律法をどうしても守ることができない人々のことをまとめて指す言葉です。逆に戒律を守ることができている人を「正しい人」と呼びます。
ヨハネとイエスの同時代・同地域の人々、つまり「かつて・あそこで」生きていた人々の反応はそれぞれに対して冷ややかでした。厳しい修行をするヨハネたちに向かっては、「悪霊に取りつかれている」(33節)と冷ややかに嘲笑い突き放しました。それは、「自分たち普通の人々は悪霊に取りつかれていない。だから極端な行動はしない。わざわざ荒れ野で暮らさない」という意思表示です。普通の人々は、時に「悪霊に取りつかれたと認定した人」を、街から追い出し荒れ野に追放することもあったのです(8章26-39節)。人々は、神妙な面持ちで断食しながら、普通の戒律以上の厳しさをもって荒れ野で修道生活をするヨハネの一団を、悪霊に取りつかれている人と悪口を言っていました。徴税人がヨハネの仲間にいたことも気に入らなかったことでしょう。
ところがだからと言って同じ普通の人々が、イエスの活動に好意的であったわけでもありません。いやむしろもっと嫌われていたのがイエスの活動です。なぜなら、イエス一行は荒れ野ではなく街に出てきて、民家で食事を囲んでいたからです。社会の課題を「見える化」しているので、より一層目障りになるのです。徴税人への職業差別だけが問題ではありません。ハンセン病患者への差別も、障害を持つ者たちへの差別も、貧富の格差を前提にした貧しい人びとへの差別も、子どもへの差別も、性差別を前提にした娼婦への差別も大いに問題です。これらの人々は一括りに「罪人」とされていました。普通の人々の日常に必ず存在していたけれども、人々は見ないように、見えないように隠していました。イエスはその人々を見せるように大っぴらに会食をします。その際に、あえて戒律を破って手を洗わなかったりします(11章38節)。それによって、戒律を守れないために罪人とされていた人々に対する共感を示したのです。
「大食漢で大酒飲みだ」(34節)という悪口は、「あの連中は見境なく飲み食いばかりしている」という意味でしょう。「徴税人や罪人の仲間だ」という悪口は、「しかも戒律を守れない汚れた人々と食事をしていることで、自分たちも汚れた罪人となっている」という意味でしょう。汚れも伝染すると信じられていたからです。さらにひがみも入っていたと思います。イエスの食卓は傍目から見て、とても楽しそうだからです。ヨハネの前では神妙な顔でバプテスマを受けていた徴税人が、イエスに対しては楽しそうにおしゃべりしながら飲み食いをしています。他の罪人たちもそうです。この快活な笑顔に、真面目に生きている普通の人々の日常生活が揺さぶられました。
そして揺さぶられれば揺さぶられるほど、彼らは冷笑主義に陥っていきます。イエスの活動に対する反発と反動が、冷水をかけて嘲り、自分たちは参加しないということを示すことでした。ここに今日にまで通じる「時代の課題」があります。冷笑主義です。シニシズムCynicismの一部です。一所懸命に活動している人に向かって、特段の利害関係がなくても、あえて冷たく非難の言葉を浴びせて、自分は関係しようとしない、参加しようとしない、高みの見物を決めて、評論だけをするというものです。
ヘイトスピーチなどに代表される「むき出しの憎悪」と、一見正反対だけれども相手を軽蔑しているという意味では同じです。この冷笑主義こそ、わたしたちの時代の課題です。「何をしても世の中変わるわけもない」という諦めを、冷たく言葉で言い放つことが「知恵」であるかのように思われていることに悲劇があります。せせら笑いながら皮肉ることが頭の良い人の取るべき態度であるかのような誤解が、広く蔓延しているように思えます。
「結局差別の問題は人々の意識が変わらないとだめ。制度だけ変えても無駄」という冷ややかな言葉を聞くことがあります。例えば、日本の衆議院議員のうち女性の比率はわずか9.5%であり、193カ国中157位の低さです。意思決定機関から女性がここまで排除されている現状は性差別の現れです。それに対してジェンダー・クオータ制の導入を求める声が上がったのは当然です。女性に一定割合の議席を割り当てる(quota)という、国際的には常識になりつつある制度です。ところが、それに反対する人は「女性に割り振るのは逆差別」「能力ある女性に失礼」などと言い、「結局有権者の差別意識が無くならなければ制度だけをいじっても駄目」と言い放って何もしないのです。何をしても変わらないという冷めた姿勢に問題を感じます。国の最高意思決定機関に女性をわたしたちの代表として遣わせば、必ず性差別克服に近づくはずです。
1922年3月3日に発表された「水平社宣言」は、被差別部落の若者・西光万吉さんの筆による日本初の人権宣言です。部落解放を願う宣言の末尾は次のように締めくくられています。「そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦(いたわ)る事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。水平社は、かくして生れた。人の世に熱あれ、人間に光りあれ。」この熱い言葉に押し出され、この言葉に従う多くの人びとの熱意と努力によって部落解放運動、制度改正や啓発活動は進みます。本当の知恵とは、人を動かす熱さを持っているものなのです。「知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される」(35節)。そうだとすれば、熱意を持たない「知」というものは、人間を動かすことはないのですから、正しさが証明されない「ただの能書き」です。人間には感情があります。感情に届かない知は生き方の変更を迫る力を持たないのです。皮肉に真の力はありません。
人の子イエスは熱い人間だったと思います。熱弁を振るい、人々の苦しみに涙を流し、人の気を逸らさない人だったことでしょう。それだから、暗く冷たい世間に対抗して冷笑主義を批判しながら、世界を光として照らし温めることができたのです。イエスは暗く冷たい世間から排除され、飼い葉桶の中に押し込められ、「徴税人や罪人の仲間」と差別され、十字架で処刑され、罪人の一人として埋葬されても、なお復活の命によって闇に打ち勝ちました。ここに神の子のpassion(情熱/苦難)があります。教会はこの神の熱意にほだされて、復活のイエスの周りに集まり、イエスの教えに従う群れです。
神の子・人の子イエスの到来は巨大な熱源の接近のようなものです。北風の吹きすさぶ世間において人々は冷笑主義に破れてしまいます。そこに義の太陽が来たのです。この熱さにあてられた人が、罪の赦しを信じインマヌエルの神を信じて、愛や正義の行いに悔い改めて行きます。共に食べる楽しさを取り戻していきます。嘲笑いではなく、朗笑が人々を包みます。人を変えるのは冷たさではなく熱さです。イエスの周りに、そしてキリストの教会の周りに、パンとぶどう酒を分かち合う群れの中に、熱があります。イエスを救い主と受け入れる一人一人の心の中に、光があります。クリスマス礼拝のこの日、共に冷笑主義を乗り超える道を選んでみませんか。パンとぶどう酒の交わりへようこそ。