人間の漁師 マタイによる福音書4章18-22節 2025年4月27日礼拝説教

【はじめに】

本日の箇所の直前の17節において、「あなたたちは悔い改めよ。というのもその諸々の天の支配は近づいたままだからだ。」と、ガリラヤ地方のカファルナウムという湖沿いの町でイエスは宣べ伝えました。神の支配運動の開始です。バプテスマを受けること、誘惑を乗り越えること、活動方針を公表すること、それに引き続く行動が本日の箇所です。それは四人の男性弟子たちを神の支配運動に招くことでした。

マタイ教会は、マルコによる福音書1章16-20節を下敷きにしています。内容的にはほとんど変えていません。文法的にマタイ福音書の方が整っているところがありますが著しい違いはなく、強いて言えば「ペトロ」というあだ名が召命記事の時点で紹介されているところぐらいの違いです(18節)。だから鍵となる言葉はマルコもマタイも(さらに言えばルカも)同じです。それは「人間たちの漁師たち」です(19節)。

 

18 さてそのガリラヤの海の傍らを歩きながら、彼は二人の兄弟を見た、ペトロと呼ばれているシモンを、また彼の兄弟アンデレを。その海の中へと投網を投げている(彼らを)。というのも彼らは漁師たちであり続けていたからだ。 19 そして彼は彼らに言う。あなたたちはわたしの後ろに来い。そうすればわたしはあなたたちを人間たちの漁師たちにするだろう。 

 

【シモンとアンデレ】

ヨハネによる福音書において最初に弟子となったのはアンデレと匿名の弟子であり、アンデレがシモンにイエスを紹介しています(ヨハネ1章)。匿名の弟子については不詳ですが、シモンとアンデレの二人兄弟が最初期の弟子だったということ、この二人がガリラヤ地方の漁師だったということは、四つの福音書において共通しています。確実に史実に遡る情報です。さらにヨハネ福音書は二人が元々ベトサイダ(アラム語で「漁師の家」の意)という町に住んでいたことも明らかにしています(ヨハネ1章44節)。

シモン」(18節)という名前は、ヘブライ語のシメオンshimeonという人名由来でもありえますが(使徒言行録15章14節)、ギリシャ語のシモンsimonという人名由来でもありえます。サウル・パウロ、ヨハネ・マルコのように、ペトロはシメオン・シモンという二つの本名を持っていた可能性もあります。その一方で「アンデレ」(18節)は明確にギリシャ語名です。兄弟の名前を総合して考えると、二人兄弟の両親はベトサイダで生まれた子どもたちにギリシャ語名を与えたのだと推測できます。それは両親があまりユダヤ民族主義・選民思想にかぶれていないことをも意味します。二人の兄弟もまたさまざまな人に比較的自由な態度を培っていたでしょうし、ギリシャ語も話すことができたと思います(ヨハネ12章20-22節)。

二人兄弟がなぜベトサイダからカファルナウムに移住したのか、理由は分かりません。出稼ぎではなさそうです。シモンはカファルナウム出身の女性と結婚し、義母とも同居しているからです(マルコ1章30節)。両親と死別したのか、アブラハム・サラ夫妻のように父テラと喧嘩別れをしたのか、ベトサイダに暮らせない/暮らしたくない何らかの理由が生じて、二人はカファルナウムに移住します。手に職はあります。「漁師の家」ベトサイダで磨いた技術が彼らの支えです。ベトサイダでもカファルナウムでも兄弟は「漁師たちであり続けていた」(18節。未完了過去時制)のです。

二人はカファルナウムの町で網元だった「ゼベダイ」(21節。マルコ1章20節「雇人たち」)のもとで働く漁師だったのでしょう。ゼベダイは経営者・使用者、シモンとアンデレは労働者・被用者という関係です。日常生活は安定しています。毎日労働をし、労働の対価として賃金を受け取り、賃金によって家族と共に暮らし、何も不足はありません。しかし何かが燻っています。その燻りは、「漁師であることは誇りではあるが、果たして自分は人間らしく生きているか」という自問だと思います。

その日常の労働の最中に、山あいの寒村ナザレ出身の風来坊イエスが訪れ、岸から舟に向かって声をかけます。これは遠くまで聞こえる大声に違いありません。「あなたたちはわたしの後ろに来い。そうすればわたしはあなたたちを人間たちの漁師たちにするだろう」(19節)。

多くの日本語訳は「人間をとる漁師」(新共同訳も)としますが、「人間たちの漁師たち」が直訳です(英訳RSV「fishers of men」)。「の」をどう理解するのかが鍵となります。ヘブル語まで遡ると「人間たちに属する漁師たち」が素直です。他方「人間たちである漁師たち」も「人間たちへの漁師たち」もありえます。イエスの言いたかったことは何であり、何が二人の心に届いたのかを推し量りましょう。おそらく、「人間たちに属する、自身人間である漁師たち」という意味です。この解釈は、イエスが一人称「わたしは」の意味で、「人の子(人間の息子)」という言葉を用いたことと整合します。

イエスはサラリーマンである漁師たちに向かって、その労働の最中に「わたしの後ろを歩くと、真に人間らしく、自分らしく生きることができる」と呼びかけたのです。「もしもあなたたちが労働の対価として賃金を得るという仕組みの中で何か燻っているのならば、方向転換をしてはどうか。すぐ前を歩く者がいないと不安になるならば、人間仲間であるわたしがあなたのすぐ前を歩く。わたしの背中を見ながら、人生を再開しよう。人間らしく・自分らしく生きることができるから。これから食卓を囲む活動をする。働くということではなく、食べるということに価値をずらそう」

 

20 さて男性たちはすぐにその網を放置した後、彼らは彼に従った。 21 そしてそこから前進した後、彼は他の二人の兄弟を見た、ゼベダイの息子ヤコブを、また彼の兄弟ヨハネを。彼らの父のゼベダイと共にその舟の中で彼らの網を繕っている(彼らを)。そして彼は彼らを呼んだ。 22 さて男性たちはすぐにその舟と彼らの父とを放置した後、彼らは彼に従った。

 

【ヤコブとヨハネ】

シモンとアンデレはすぐに網を放置して(ギリシャ語アフィエミの一般的な意味)イエスの後ろに付き従いました。二人はイエスの背中越しに、自分たちの雇用主である「ゼベダイ」が舟の中で網を繕う作業をしているのを見ました(21節)。勤務時間に労働していない二人は、イエスを盾に隠れます。シモンとアンデレとは異なりイエスの視線はゼベダイに向かっていません。「彼は他の二人の兄弟を見た、ゼベダイの息子ヤコブを、また彼の兄弟ヨハネを。」イエスは、ヤコブとヨハネという別の二人兄弟に目を留めています。

ゼベダイという名前はヘブル語名です(「わたしの賜物」の意)。彼とその妻は、ヘブル語の名前を息子たちに付けています。「ヤコブ」はイスラエル民族の始祖ヤコブにあやかった名前です。「ヨハネ」(ヘブル語ヨハナン。「ヤハウェは恵み深い」の意)は、当時一般的だった名前です。ちなみにイエス(ヘブル語ヨシュア)という名前もそうです。シモンとアンデレのギリシャ語名の背景にある国際主義の雰囲気と比べて、ゼベダイ夫妻には民族主義・選民思想を比較的強く持っていたと言えます。それは当時のユダヤ人にとって一般的な傾向でした。異民族による支配に屈していたからです。ヤコブとヨハネがサマリア人に対して嫌悪感と差別意識を持っていたことは明らかです(ルカ9章54節)。

イエスが見たのは民族主義と選民思想に縛られていることの不幸です。それはイエスの両親も、さらには両親たちのそれぞれの両親たちも抱えていた課題です。彼ら彼女たちはユダヤ民族の優越性と「いつか独立国家ユダヤを樹立するメシアが生まれる」ことを期待していました。この不幸・罪からの解放は一朝一夕にはなされません。同じ目線で同じ肩の高さで共に歩きながら方向を正す先行者がいなければ、この不幸・罪からの解放はなされません。ヨハネ教団を超える教えと実践は、この独特の課題からの解放を目指す食卓運動です。

民族主義と家父長制は仲良しです。「家を守ること」の重視と、家の中に頂点がいること、それが長男であることは、ある特定の民族が世界の諸民族の「長男」であるという考えと隣り合わせだからです。後に、ゼベダイの妻がイエスの弟子となっていることからも(20章20節、27章56節)、家長であるゼベダイが抑圧的支配者であったことが推測できます。ゼベダイや家父長制からの解放がヤコブとヨハネの心の叫びだったのです。

イエスは、同じ民族主義的名前を持つ二人の兄弟に向かって、父親ゼベダイの前で、同じような両親や祖父母を持っている人間たちの一人として、「わたしの後ろに付き従え」と招きます。ここでは「人間たちの漁師たちにする」という約束はありません。彼ら二人の方向転換は、民族主義・家父長制度からの脱出です。シモンとアンデレの場合は、労使関係(労働の対価としての賃金、それによる上下関係)が人間らしさを失わせていることが課題でした。ヤコブとヨハネの場合は、自らがユダヤ人であることへの過度の誇りと、父の家という抑圧的な仕組みとが人間らしさを失わせていることに課題があります。

「もしもあなたたちが、ユダヤ人が一番偉いという考えに縛られ、長男が家を継ぎ父親が家で威張るという仕組みの中で不自由を感じているならば、方向転換をしてはどうか。すぐには直らないだろうけれども、わたしの背中につき微修正を繰り返しながら、人生を再開しよう。人間らしく・自分らしく生きることができるから。これから食卓を囲む活動をするので、一緒に給仕役をしよう。誰も威張らない集まりに価値をずらそう」。

シモンとアンデレは「その網」を放置し、ヤコブとヨハネは「その舟と彼らの父」を放置しました。それらを否定したのではなく、それらが絶対的な価値持つものではないことを知った、そしてイエスに従うことが絶大な価値を持つことを信じたのです。人間らしさを持って生きることが救いです。

 

【今日の小さな生き方の提案】

仕事は生きがいにもなりうるものですが絶対的な価値ではありません。所属は尊厳にもなりうるものですがこれも絶対的な価値ではありません。人間らしく生きるということが最も大切なものです。人の子イエスの後ろを歩きながら、自分の人生を歩くことです。イエスの食卓を囲んで平たい交わりに身を置いて食べることそのものを楽しむことです。互いに給仕をし合って仕えるという自由を身につけることです。教会で礼拝をし、イエスが主であると告白し、キリストを賛美し、主の周りに座って御心を行うことによって、わたしたちは永遠の命を生きるのです。