【はじめに】
ヨハネ福音書のクリスマス物語と称される聖句から、本日も人生の光を読み取ってまいりましょう。
1 はじめにその理があり続けた。そしてその理はその神のところにあり続けた。そして神であり続けた、その理が。 2 これははじめにその神のところにあり続けた。 3-4 すべての諸物はそれを通して成った。そしてそれ無しでは一つも成らなかった。それにおいて成ったままの物は生命であり続けた。そしてその生命は人間たちの光であり続けた。 5 そしてその光はその闇の中に現れている。そしてその闇はそれを掴まなかった。
6 神によって遣わされたままの人間が成った。彼のための名前はヨハネ。 7 この男性は証言のために来た。その光に関して彼が証言するために。すべての者たちが彼を通して信じるために。 8 あの男性はその光ではなかった。むしろ彼はその光に関して証言するために。
【讃美歌】
1-5節は詩文です。「その理」「あり続けた」「成った」が繰り返されているのは詩の特徴です。元来はアラム語で作成された歌であり、おそらく浸礼者ヨハネ(の教団)が作成し、ヨハネ教団とイエスの弟子たち(キリスト教会)の両方の信仰共同体が歌い継いでいった讃美歌と思われます。詩は無時間的なもの。ギリシャ語の時制的には無茶苦茶です。また詩なので調子よく韻が踏まれます。ラップと同じ要領です。ヨハネはラッパーだったのでしょうか。
イエスはヨハネからバプテスマを受けました。両者は近い関係で、ルカによれば二人は親戚です。両教団の弟子たちも行き来があります。競合関係にもあったようですが、双方共通の同じ讃美歌を歌うことも可能だったのだと思います。ヨハネの弟子たちは、「光」を師ヨハネと考え、イエスの弟子たちは「光」を師イエスと信じ、さらに遡って「理〔ロゴス〕」をも「独り子の神」(18節)イエスと同じであると信じました。ヨハネ福音書は、6-8節で、自分たちキリスト者の立場を表明しています。「ヨハネは光ではない。むしろイエスこそが光である」というのです。ではどのような光なのでしょうか。
私訳は3節と4節をつなげて訳す立場です。この立場によれば、「理」(神の救いの意思や働き)において「成ったままの物」(被造物)は生命です。だから、被造物=生命が「人間たちの光」となります。新共同訳の4節「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」は、被造物が果たす役割を低めて過小評価しています。聖書本文を、なるべく先入観(教理や伝統)を排除して素直に読み解く必要があります。
神の創った小さな生命体に目を留めなくてはなりません。そこに人間たちのための光があるのです。暗闇の世界を歩くための足元の灯火があります。イエスもまた「野の花を見よ」と言われています。被造物としての先輩である動植物に敬意を払うことは、人間社会が被造物を苦しめる闇の原因であることを止める第一歩です。そして何よりも、わたしたちは被造物を、わたしたちに生きる光を与えてくれる存在として捉え直さなくてはならないでしょう。不条理な苦労の中、茨の道の人生を歩くわたしたちに、ほっとさせる小さな花・小鳥のさえずり・木漏れ日の光が与えられています。何気ない救いです。
9 その真の光があり続けた――それはすべての人間を照らしているのだが――、その世界の中へと来つつ。 10 それはその世界の中にあり続けた。そしてその世界はそれを通して成った。そしてその世界は彼を知らなかった。 11 彼は自分の諸物の中へと来た。そしてその自分の者たちは彼を引き取らなかった。 12 一方、彼を受け取った者たち(について)は、彼は神の子どもたちとなるための自由を彼らに与えた。彼の名前を信じている者たちに。 13 諸々の血によらず、肉の意思によらず、男性の意思によらず、むしろ神により、彼は生まれた。 14 そしてその理は肉と成った。そして彼はわたしたちの中に宿った。そしてわたしたちは彼の栄光を、父の傍らでの独り子としての栄光を、看取した。恵みと真理に満ちて。
【世の光】
9-10節は、4-5節とつながっています。イエスという救い主は、どのような「光」で「あり続けた」のかという説明です。そして11節以降はイエスの生涯を要約しています。特に11節は十字架の刑死を、つまり、自分の家(「自分の諸物」は自宅の熟語)に帰ってきた主人を、僕たちが拒否して殺したという出来事を示唆しています。
13節の主語を、底本ではない古代訳によって、「この人々は」(新共同訳)ではなく、「彼は」=イエスとします。クリスマス物語だからです。イエスは、民族主義によらず、支配欲によらず、男性中心主義によらず、むしろ神により、この世界に生まれた独り子の神です。神の救いの意思や働き(「その理」)がイエスの誕生によって「肉と成った」のでした(14節)。こうして救いとは何かが示されます。救いは、一つの民族の優位、一人の人の優位、一つの性の優位と反対の出来事です。こういった「闇の発想」の誕生は、キリストの誕生と正反対の出来事です。イエスという名前を救い主キリストの名前であると信じる者は、誰でも「神の子どもたち」(12節)となる自由が与えられ、神の独り子を中心とする平等な交わりを喜ぶことができます。子どもたち(テクナ)は中性名詞の複数形、特定の民族・個人・性とは関係の無い言葉です。
この救いは「世界」の中、人間社会の只中で起こる出来事です。支配欲に満ちた罪人たちが牛耳っている人間社会は闇そのものです。その闇を一気になくすような強烈な輝きで、「真の光」は世界を照らします。一部の人間だけではなく、「すべての人間を照らしている」のです(9節)。
2000年前のパレスチナ地域で、世の光イエスの身の回りに救いが実現しました。目の見えない人は見、耳の聞こえない人は聞き、歩けない人は立ち上がり、徴税人や娼婦や不可触民は友人を得、飢えている者は満腹し、渇いている者は永遠の水を飲み、ギリシャ人・ユダヤ人・サマリア人が交わり、貧しい者たちも富んでいる者たちも同じ神の支配のために協力し、祭司長・律法学者・ヘロデ党の者たちが戒められ、子どもたちが祝福されました。イエスの食卓の周りで、すべての人間は人間としての尊厳を照らされ、「神の子どもたち」という地位を回復しました。
イエスは人々に救いの福音を語ります。「少女よ、起きよ」「息子よ、あなたの罪は赦された」「あなたの信があなたを救った」「この女性もアブラハムの娘なのだ」「イスラエルの中にもこれほどの信はない」「わたしもあなたを罰しない」「ザアカイよ、下りよ。今日あなたの家に泊まらねばならない」。救われた者たちは言います。「彼はわたしたちの中に宿った」(14節)。14節になって突然登場する「わたしたち」は、イエスによって救われた人々、あの時の弟子たち、そしてヨハネ福音書を編纂している教会員たちのことです。
9-10節のギリシャ語の時制は正しいものです。イエスは、あの30年ほどの間、すべての人間を照らしている真の光であり続けたのです(未完了過去時制)。しかし、彼はこの世界に「あなたのことは知らない」と言われ、締め出され十字架で殺されたのでした。「その世界は彼を知らなかった」(10節)。
15 ヨハネは彼に関して証言している。そして彼は叫んだままだ。曰く、この男性こそが、わたしの後に来つつある男性がわたしの前となった(と)、わたしが言った男性だ。なぜなら彼がわたしより先にあり続けたからだ。 16 なぜなら彼の充満のうちから、わたしたち、わたしたち全てが、恵みに重なる恵みをも、受け取ったからだ。 17 なぜならその律法はモーセを通して与えられ、その恵みとその真理とはイエス・キリストを通して成ったからだ。 18 神を誰も未だ見たことはない。独り子の神が、その父の懐の中へと居続けている者が、あの彼こそが説明した。
【独り子の神】
15節は、30節の繰り返しなのですが、あえてここで触れられています。ヨハネは叫び声を上げ、その叫びの効果は今に至るまで残っているというのです(現在完了時制)。ヨハネもまた、イエスと同じく、しかしイエスよりも一歩早く、権力者によって死刑に処されたのでした。彼の叫びは、義人アベルの血の叫びに通じます。不条理の苦しみによって殺された人はすべて、世界から「あなたのことは知らない」と締め出された者たちです。キリスト教会は、ヨハネ教団との連帯を示し、イエスの十字架と同時にヨハネの斬首刑を記念していたのでした。義人ヨハネの血が荒野で叫び続けています。
ただしかし教会の信仰は独自の路線に導かれ進んで行きます。復活信仰です。十字架の死に至るまで神に従ったイエスを、神は黄泉にまで下っていって抱き上げて起こし、その懐の中へと引き取り、その右の座に就けました。神がイエスをよみがえらせたのです。多くの弟子たちがその証言を始めました。
クリスマスにおいてわたしたちが見るべきは、このような「彼の栄光」「父の傍らでの独り子としての栄光」です(14節)。ガリラヤでの活動、エルサレムでの受難、それらを経た復活を見る。そして今ここに聖書を開きイエスの名を賛美する礼拝の中に、彼が宿っているという救いを感じ取ることです。イースターの光を、つまり神をアドベントにおいて、わたしたちは見なくてはいけないでしょう。「独り子の神が、その父の懐の中へと居続けている者が、あの彼こそが説明した」(17節)からです。
【今日の小さな生き方の提案】
天地創造の時から一貫している神の意思を確認しましょう。イエス・キリストの誕生や歩み、十字架と復活を通して、神はわたしたちに救いの意思を説明しました。聖書の語る救いは、光を受け取ることです。イエスやヨハネの遺体を引き取って自分の闇を受け取り、世界の闇を見破り、それでもなお闇の世界を生きる力を、イエス・キリストから与えられることです。神の子どもたちとなる自由は、わたしたちの目の前にあります。すでにイエスは一人ひとりを「神の子」と呼んでくださっています。誰からも尊重されていないと感じる人にも、イエスは両手を広げて招いています。誰からも抱きしめられたことがないと思う人のために、神の懐はあります。「アーメン」と、この愛を受け取り、常に光に照らされる人生を歩み出しましょう。
