今の時を見分ける ルカによる福音書12章54-59節 2017年10月1日  礼拝説教

今日の箇所は、新共同訳聖書の小見出しで二つに分けているように、二つに分かれます。「時を見分ける」(5456節)と「訴える人と仲直りする」(5759節)。それぞれの並行箇所を見ると、5456節はマタイ福音書1623節、5759節はマタイ福音書52526節です。ただし、前者はあまり一致しておらず、後者はほとんど一致しているという違いがあります。おそらく、前者は口頭伝承としてルカが聞いたことがあるというイエスの言葉であり、後者はマタイとルカが共有していた、イエスの語録文書だったのでしょう。マタイが16章と5章に分けているものを、一つに固めたのはルカの編集によるものです。二つの話題を一つに固めるに当たって、中核となるのは56節と57節です。ここには二つの疑問文があります。

「どうして今の時を見分けることを知らないのか」(56節)。「何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか」(57節)。二つとも似ている構造です。「なぜ、しないのか」という疑問文は、もちろん理由を尋ねているのではありません。「このようにしたらどうか」「こうすべきだ」という勧めがここにはあります。「今の時を見分けなさい。自分で正しいと思うことを実行しなさい」という積極的な勧めが中核にあります。

その中核から、前方に向かって「天気予想のたとえ」(5455節)があり、後方に向かって「敵との妥協的な仲直りの勧め」(5859節)があります。中核の二つの勧めが、前半および後半を解釈する方向性を定めています。まず、中核の勧めが何を言っているのかについて考えていきます。その後、それを補強するために言われている「天気予想」「仲直り」について読み解いていきましょう。

5657節の「見分ける」(2回)と「自分で判断する」は、同じ意味合いで用いられています。少し掘り下げて考えてみましょう。「見分ける」はギリシャ語ドキマゾーという動詞の翻訳です。「選り分ける/精錬する/吟味する/検証する/実証する」等が基本的な意味です。ギリシャ語ドキマゾーは、ヘブライ語のバハンという動詞の訳語として用いられます。バハンの意味とドキマゾーの意味はほぼ重なります。ただし使い方に変化があります。

旧約聖書でバハンは29回登場します。そのうち22回は主語が神です。神が人間を試したり、吟味したりする主体です。たとえば箴言173節、ゼカリヤ書139節の「試す」(バハン)の主語は、神です。この二つとも、ギリシャ語訳旧約聖書でドキマゾーと翻訳されています。その一方、新約聖書ではドキマゾーの主語はほとんど人間に変わります。神が人間に試練を与えて、誰が敬虔な人物かを精錬して選り分けるという考えから、人間がさまざまな事柄に対して自分自身で試行錯誤して吟味し実証することへ、可能性が広がっていることが分かります。旧約から新約へ、時代とともに思想が展開されています。

この思想展開の鍵を握っているのはパウロという人物です。ルカの親しい友人です。ドキマゾーはパウロという人が好んで用います。新約聖書で22回登場するうち、パウロの真筆の手紙で15回も用いられています。たとえば、ローマの信徒への手紙218節や122節「わきまえる」は、神の意思を吟味し・より分け・判断するようにという勧めです。「すべてを吟味して」(テサロニケの信徒への手紙一521節)、「本当に重要なことを見分けられるように」(フィリピの信徒への手紙110節)という勧めも、同じ考え方に基づきます。

下線を引いた動詞はドキマゾーという言葉の翻訳であり、すべて主語は人間です。パウロは神だけが吟味しうると思っていることを、人間もできると押し広げました。人間はすべてを吟味し、重要なことを見分け、神の意思でさえもわきまえることができる。しかも、人間にはそれができるだけではなく、しなくてはならないとまで、パウロは勧めています。

この検証・吟味は、客観的・実証的な実験の繰り返しによるものではありません。わたしたちの人生や日常生活はそのようなものではありません。パウロのドキマゾーの使い方を見渡すと、もっと主観的な洞察に基づくものであることも分かります。総合して、「見抜く」という日本語が、最もふさわしい訳語のように考えられます。

パウロからの影響がルカにはあります。ルカがイエスの言葉を掲載するときに、パウロの思想と混ざるということがありえます。それは決して否定的な現象ではありません。むしろ豊かなことがらです。対話がなされ、新しいことが生じているからです。福音書の編纂は、この意味の創造的な仕事です。

本論に戻ります。5657節は、「時代を自分自身の頭で直感的に判断して見抜け」という勧めです。そのようなことができるのかと、自分の力に疑問を感じる、自信の無い群衆に向けて、イエスは言われています。「天気の予想ができるのに、時代の予想ができないなんてことはありえない。自分自身を偽るな」(5456節)。日本でも「夕焼けは晴れ、朝焼けは雨」という予想の仕方があります。前半部分の「天候の予想」は、群衆を励ますための言葉です。特に自分の判断に自信を持てないという人への励ましです。

わたしたち日本社会に住む者たちには、この励ましは効果的です。自分の意見を持つことそのものが罪悪のように学校で言われ続けているからです。校則による縛り付け、記憶重視の教育・討論軽視の教育、上下関係に基づく部活動、これら学校で長期間教わることは、すべて人格に影響を及ぼしています。大人社会の写鏡でもあり、大人社会の基礎構造でもあります。日本では個人は育たない。むしろ群衆が生み出され続けていきます。少数意見を尊重しないからです。また社会全体のことを考える時間と技術が与えられていないからです。このような「群衆化」が民主政治にとっての病です。

「今はどのような時代ですか」という問いに、自信をもって答え切れる人がこの中にいらっしゃいますか。わたしたちは構えてしまい、立派な答えを言わないと誰かに何かを言われると恐れます。そんなこと考えたことがない、どのように言えば良いのか分からない、少数意見だったらどうしよう、という心配です。正しい文法が何かと悩んで、英語が口から出ない人と同じ仕組みです。

衆議院の解散総選挙は一体わたしたちにとって何の意味があるのでしょうか。わたしの見抜きは政治の劣化です。自己保身のため国会を開かない、あげくに解散を濫用する、当選すること目当ての職務放棄、大手報道を味方につけての人気取り等、政党政治は1994年の「政治改革」以来、どんどん悪くなっています。立憲民主政治にとって史上最悪の、醜悪な解散総選挙です。

この政治風土は、わたしたち群衆が下支えしているものです。「解散が首相の専権事項」など憲法に書いていないことを知らない群衆。勝てば良いという結果至上主義の群衆。目立つタレントのみをもてはやし消費する群衆。わたしたちが短絡で幼稚だから、政治も短絡で幼稚なのです。幼稚な政党は、幼稚な有権者による選挙で圧倒的に強い。だから悪循環から抜け出せません。

「野菜の値段が高いから今夏は不作だった」ということから、「農業は大切だ」や、「日本の自給体制は脆弱だ」という洞察が与えられます。「秋晴れのもと、昨日運動会があって家族みんなで子どもを応援できて楽しかった」ということからも、「労働者の休暇が少ない」や、「平和が大切だ」という洞察が与えられるでしょう。今の時代について考えたことがないのではなく、結びつけたことがないということがわたしたちの課題です。

日常と社会、生活と政治、個人として生きているということと社会の一員として生きていることは、直結しています。イエスは、「関連を見抜け、あなたたちならば見抜けるから」と励ましています。神は世界を試しません。吟味を人間に委ねています。また検証は個人の主観で構いません。実証データは要りません。しかし社会への洞察でなくてはなりません。世の中全般にとって意味のある言葉である必要があります。十字架のイエスは群衆が扇動されやすいことを知っています。世の中を、群衆として右往左往踊らされるのではなく、世の中の課題を生活の中から個人として見抜いて、群衆から抜け出すことです。

さて後半の5859節は、自分の判断をずる賢く、根回ししながら、したたかに用いよと勧めています。正しいことを見抜いた後に、その正しいことを実現するための努力についての教えです。

裁判に訴えられそうになっている場合、何としてでも訴えられる前に示談で和解しろという教えです。正論を裁判で論じても、どうせ敗訴することは分かっているというのです。両者の力関係は、訴える側が大きく、訴えられる側が小さいようです。訴える側と裁判官と看守が一体化しているからです。「1レプトン」は看守への賄賂でしょうか(59節)。どんなことをしたって出獄できないのだから、予め入らない努力をしなさいという教えでしょう。

正しいことを言う人は、その正しさのゆえに、歪んだ権力から訴えられ政治犯として牢獄に入れられることがあります。古今東西の歴史にいくつも実例があります。イエスは一方で、「裁判となった場合は聖霊が語るままに法廷で弁論しなさい」と言います(12812節)。他方で、「今日のように訴えられる前に示談で済ませ」と言います。どちらが本意かと言えば、おそらく後者です。牢獄に入れられれば正しい言葉も世の中に発信できなくなるからです。訴えられ投獄される寸前に逃げよ。逃げながら世の中への鋭い洞察を発信し続けよと教えています。ここには「殉教の神学」への批判があります。または、イエスを「最後の殉教者」とするようにという教えがあります。

特定秘密保護法が施行され、テロ等準備罪(共謀罪)が新設されました。どの会話が特定秘密に関わるのかも分からず、どの集会がテロ準備に当たるのかも分からず、訴えられてしまうかもしれない時代に、わたしたちは生きています。礼拝であっても睨まれるかもしれません。戦時中がそうだったのだから、その可能性は否定できないでしょう。この時代の課題を見抜き、正しい判断を得たとしても、どのように地上に実現するかについては、したたかに狡賢く、言わば妥協的に行わなくてはいけないでしょう。「牢獄に入れられるまで生真面目に頑張らなくて良い」とイエスは慰めています。

こうして、「時代を見抜いて正しい判断を自分でくだせ」という中核の教えから、前半に向けて「あなたならできる」という励ましがあり、後半に向けて「身の危険を感じるまでは無理しなくて良い」という慰めが立ち上ります。このように、励ましと慰めの合わさった教えを福音と呼びます。聖書の人間観や、神が人間をどのように見ているかが現れています。

今日の小さな生き方の提案は、時代を生活から見抜くことです。神の子として自分の直感的洞察で見抜く自信を身に付けましょう。正義を、主権者として胸を張って主張しましょう。その一方で、人の子として自分の弱さ・情けなさを知ることです。生活を守るためなら、正義を振り捨てて逃げても構いません。葛藤を抱えて誠実に生きる個人と共に、今の時代の中をイエスは歩いています。