今日は主の安息日 出エジプト記16章17-36節 2015年9月20日礼拝説教

日本バプテスト連盟の中でもっともひまな教会になろうとしているわたしたちの教会にとって、今日の聖句は非常に重要な意味をもっています。日曜日とは何かということが描かれているからです。日曜日は「休息」であり、神からわたしたちへのプレゼントです(23・25・29節)。わたしたちはこの日に共同の礼拝を行います。

キリスト教会が七日に一度礼拝の日をもつことはユダヤ教の伝統から受け継いだものです。ユダヤ教においては、金曜日の日没から土曜日の日没までが安息日です。その24時間内に礼拝を二回シナゴーグで捧げています。キリスト教においては、一部の教派を除いて日曜日の午前中が一般的です。日本では「曜日」は太陽暦とともに明治政府によって導入されました。それまでは、おそらく盆と正月しか休日はなかったのではないでしょうか。

学者たちは、七日に一度労働をしないで休むという「安息日」の習慣が先にあり、その後で「礼拝をすることが休みなのだ」というように発展したと推測します。本日の聖句もそのような推測を支えています。食糧を得るための労働を七日に一度休むという習慣がここで確立されていますが、礼拝については何も語られません。

出エジプト記20章8-11節には、安息日規定が記されています。十戒の第四戒です。そこにも「仕事をするな、なぜなら主が休んだから」ということは記されていますが、礼拝をせよとまでは命じていません。そもそも「安息日」という名前自体も示唆深いものです。「礼拝日」ではないのです。ここに日曜日がどのような日でなくてはならないかのヒントがあります。日曜日は、何をおいても休む日でなくてはいけません。

人は七日に一度休むべきだという考え方は、古代における労働権の獲得です。イスラエルの人々は奴隷でした。休日はありません。有給休暇を主張できません。それでは魂がすり減ってしまうのです。

主なる神は恵みとして人のために安息日をつくりました。休んだらその日の食べ物を得られないという反論が予想されます。だから、安息日の前の日には二倍の量のパンが与えられました(22節)。このようなあてがいがあるので、イスラエルの人々は安心して休むことができたのです。今でもユダヤ教徒は安息日の前に二日分調理して、安息日には家事労働も行いません。この習慣は、休んだ分は神が与えるという信仰に基づくものです(23節)。

毎日働かなくても神が七日に一度ぐらいは食べ物をただでくださるのだから、働く必要がありません。働きすぎて体を壊さないようにとの神の配慮があります。神も率先して、誰よりも先に七日目に休んでいます(創世記2章2-3節。出エジプト記20章11節)。神に倣うことなのですから、わたしたちは休んじて七日に一度休んで良いのです。

この視点に立つと、礼拝の後に忙しく、教会運営のための「ビジネスミーティング」をすることは、安息日の趣旨に反してしまいます。そして、わたしたちの礼拝が真の休みとなっているかどうかが問われます。自発的神への奉仕が、義務のような「奴隷的労働」になるのならば本末転倒です。わたしたちは礼拝を終えて教会を出るときに、「運動後のすっきり感」に似た感覚を得られると良いでしょう。「心身ともにどっと疲れた」というのは最悪な日曜日です。

さて、そのような日曜日を過ごすためには、きわめて逆説的ですが、月曜日から土曜日までの生き方が鍵となります。わたしたちは一体何にどっと疲れているのでしょうか。そして教会に何を求めて日曜日に集まるのでしょうか。

一言で言って、「世の中不平等だな」ということではないでしょうか。ある人は不必要なほど貪り、ある人は今日食べる物まで奪われているからです。どんなに働いても豊かにならない人もいれば、生まれた時から何不自由のない生活が約束されている人もいます。

聖書の神はおもしろいかたちで平等を実現します。一人一日一オメル(2-4リットル)のパンという定量が与えられます。それは客観的な意味で平等です。しかし同時に、「それぞれ必要な分」(16節)とも命じます。これは客観的に不平等でしょう。すべての人は自分の強欲混じりの主観的判断で「わたしにはこれだけ必要です」と言い張れるからです。「好きな分だけ」という第二の命令は、定量を命じた第一の命令と矛盾を引き起こしています。

ところが奇跡が起こります。案の定、人々のうちある者は多く集め、ある者は少なく集めました。それをオメル升で量ると、すべて一オメルだったというのです(17-18節)。不思議な現象です。また、次の日にとっておくことはできませんでした。その日一日分しかパンは有効ではなく、賞味/消費期限が極めて短いのです。午前中までに食べなくてはいけません(19-21節)。

ここには荒れ野のルールがあります。荒れ野のルールはエジプトのルールと異なります。エジプトにおいては、飢饉に備えて食べ物を巨大な貯蔵庫で蓄えておきます。それを実行するには巨大な権力が必要です。貯蔵庫を作り、管理する力です(1章11節)。そしてその力を持つ者は周辺の人々を支配することができます。みなエジプトの権力者を拝んで食べ物をいただくのです(創世記41章)。この中央集権のピラミッド体制がエジプトのルールです。

エジプトでは奴隷に対しても食べ物が与えられたことでしょう。しかし、ある家では少なくある家では多すぎたかもしれません。家ごとの支給なら、人数の多い家庭の生活は苦しくなります。夫の働きに応じての支給ならば、能力的に劣る人々や病気を持つ人、夫のいない人の暮らしは苦しくなります。

それに対して荒れ野では一人当たり、各人に必要に応じてパンが与えられます。「それぞれが必要な分」という表現は、「各人その食べる口に応じて」が直訳です(18節)。正直に自分が一日食べられる分だけ集めれば、すべての人が満腹するようになるということです。隣人の量と比較する必要はありません。個人の良心だけが問題です。私腹を肥やそうとして貯めてもいけません。不正な富は腐ってしまいます。これをもって全員一オメルというのです。一オメルはここで「平等」ということの象徴として用いられています。一見極めて不平等な決まりですが、全員が満腹の満足を得るという意味では、この荒れ野のルールも平等の実現と言えます。だれも不満を持たないという平等です。

食べ物の再配分は政治の仕事です。わたしたちは長らくエジプトのルールによって食べ物を分けているように思います。昔も今も変わりません。ある者がすでに満腹し満足し大量の食べ残しを捨てている一方で、別のある者は必要なカロリーを摂取できずに飢えています。日本国内においてもこの事態はどんどん深刻になっています。わたしたちはこのような世の中に生きているので、毎日どっと疲れてしまうのです。

戦争で金儲けしている人を見るとさらに疲れます。戦争は人々の貧しさを利用して進められます。兵士にならざるを得ない環境に追い込めば徴兵制は要りません。もちろん戦争は結果として人々を貧しくさせます。働き手の喪失と家財の焼失は経済的に困窮させます。だから戦争に加担することは罪です。経団連が先週発表したような「積極的に武器を売って儲けること」は罪です。防衛産業の政官業の癒着、国際的な軍産複合体と各国政府の癒着を見るにつけ、世の中は不平等だと思います。安保法制に反対するゆえんです。いったい誰が得をするのかを見極めるべきでしょう。

9月12日に世田谷でも安保法制反対のデモがあり、宗教者からの一言ということでわたしも頼まれました。「神と富とに兼ね仕えることはできない」という聖句から、「戦争で金儲けするような大人にならないでください」と子ども向けにお話をしました。

わたしたちは自分の分際をわきまえて、その日一日の必要な食べ物だけを食べる生き方に転換していかなくてはいけないのでしょう。十戒の第十戒には、「貪るな/欲しがるな」という命令があります。第四戒の安息日規定と第十戒は、前後半それぞれの締めくくりであるという意味でも呼応しています。休むことと欲しがらないことは関係があります。「働いた分だけ食べ過ぎても、働かないものの分も横取りしても良いではないか」というように、わたしたちが考えがちだからです。「一日分は神が与える、だからいつものように働く必要もないし、隣人のものを欲しがってはならない」と、主は言われています(22-29節)。

月曜日から土曜日まで、なるべくむさぼらない生き方をしたいものです。そのために日曜日は理想的な一日を過ごしたいものです。ではどのようにしてわたしたちは必要な分をそれぞれがいただく理想的な休みを過ごすことができるのでしょうか。

「掟の箱」(34節。直訳「証」:十戒の板が入っている証明の意。25章16節参照)というものに、一オメルのマナを保存したことが記されています(32節以下)。キリスト教徒にとって、この一オメルのマナは毎週の晩餐のパンと解釈できます。イエス・キリストが、新しいマナである「いのちのパン」と自分自身を呼んでいるからです。また、パンは救いの記念であり、分かち合うパンを「キリストのからだである」と、わたしたちが信じているからです。

主の晩餐のパンをわたしたちは少量ずつ分けます。ひと塊のパンをちぎる方式では特にそうです。隣人が食べる分を残して少量必要な分だけ取るのです。そのあり方に貪らない生き方があります。「これで満腹」と考えるときに爽快感が与えられます。こうしてわたしたちは人としての謙虚さと節度・品位を身に付けることができます。それはキリストが身に付けていたものです。

さらにわたしたちは一かけらのパンを取るとき、各個人に合った十字架をもいただくのです。使命と言ってもかまいません。命のパンをいただくことは、使命をいただくことでもあります。キリストを食べることはキリストと一体化することです。自分の十字架を背負うことです。ある者は5タラントン、ある者は2タラントン、ある者は1タラントンをいただきます。タラントンは「能力」「タレント」の語源です。人によって分量や種類が異なる使命ですが、それは「一オメル」です。

教会の奉仕には必ず断る自由があります。自分の十字架は自分自身で決めるものです。ある者は多くを集め・・・とあるようにマナをどれだけ拾うかは本人の意思によります。そうでなくてはすっきりとした爽快感は得られません。個々人を大切に尊重する神が各人に合った使命を与えます。それと同時に、自分自身で使命を選び取り責任もって働くときに、各個人はやりがいと尊厳を持つことができます。理想の休みはその人らしくお互いに過ごす交わりによってできます。それが礼拝を中心にした交わりです。そこに不平不満はありません。みな満足し自分の尊厳を保つことができているからです。

それぞれがそれぞれの満足を得ること、ここに聖書の示す平等があります。教会でそれを経験し、不平等な世に出て行ってそのことを証しましょう。