今週の一言 2013年10月3日

10月3日の祈祷会では列王記下23章15-30節を学びました。

 ヨシヤ王の主導する「申命記改革」は旧北イスラエル王国の領土にまで及びます。侵略と占領は金の子牛が設置された門前町ベテルに始まり、「サマリア(北王国を指す)の町々」すべてで聖なる高台の破壊・エルサレムへの祭儀集中が行われ、エルサレムからレビ人である祭司が派遣されます(15-20節)。

 さらにヨシヤ王は各家庭の祭であった「過越祭」を「国家儀礼」とします(21-23節)。こうして申命記に基づく主なる神への礼拝は「国教」となりました。この政策は北王国でアハブ王がバアル宗教を国教とし、主なる神を礼拝する者たちを迫害したことの裏返しです。

政教一致した軍国主義国家の侵略政策は長続きしませんでした。ヨシヤ王の軍事的成功はアッシリア帝国の衰退と滅亡(前612年)によるものだったからです。南の大国エジプトの進出に遭い、ヨシヤ王は戦死します(26-30節)。度重なる戦勝が彼を傲慢にし、しなくても良い戦争に介入し、あえなく殺されたと推測されます(前609年)。日清・日露に勝ってしまった末路に悲惨な敗戦があります。

ヨシヤ王の戦死は、王を主人公に歴史を編纂し(王上13章と本章との関連参照)、南王国の再生計画を目論んでいた「国の民」・申命記的歴史の編纂者にとって不測の事態でした。彼ら・彼女らは申命記的歴史書の編纂方針を変更します。南王国の滅亡に対しても対応できる内容へ変えます。これが「聖書」や「ユダヤ人」の誕生のきっかけです。

古代西アジアの常識によれば敗戦と国家の滅亡は、民族の滅亡と国家神の死を意味します。ユダヤ人は珍しい存在です。前587年に新バビロニア帝国によって南ユダ王国という国家を滅ぼされ、唯一の祭儀所である神殿を破壊され、ダビデ王朝を絶たれ、祭司制度を廃止されたけれども、礼拝共同体としてのユダヤ人であり続けたからです。否、より正確には、国を失って初めて南ユダ王国人がユダヤ人となったのです。彼ら・彼女らは、歴史書ではなく「聖書」を編纂しようとし、その聖書を毎週用いて礼拝することで生きる力を得ようと方向転換しました。そうすれば、ダビデの子孫や祭司がいなくても、国家や神殿がなくても、世界中どこででも主の名を崇める礼拝ができます。(JK)