今週の一言 2013年9月12日

9月12日の祈祷会ではゼファニヤ書2章4-15節を学びました。

 前8世紀の預言者たちの基本的な指針は自国の滅亡への警告や威嚇でした。それを基調としながら、預言者たちの思想活動はさらに展開していきます。敵大国を用いて神がイスラエルを裁くというだけではなく、神がイスラエルの周辺諸国すべてを裁くというように、裁きの対象が拡大し展開していったのです。たとえばイザヤ書13 ‐21章、23-25章、30-34章ではバビロン、ペリシテ、モアブ、アラム、クシュ、エジプト、ティルス、アッシリア、エドムという周辺敵国が槍玉にあがっています。

「神の裁きの周辺への拡大」をゼファニヤは引き継ぎます。彼は南ユダ王国の東西南北の周辺諸国をほぼくまなく裁きの対象として列挙しています。ペリシテの都市国家群であるガザ、アシュケロン、アシュドド、エクロンは西隣(4-7節)、モアブ、アンモンは東隣(8-9節)、クシュは南方(12節)、アッシリアは北方です(13-15節)。これらの国々も南ユダ王国と同様に悪いという判決が下され裁きの対象とされています。その趣旨は何でしょうか。

それは人の平等です。バプテスマのヨハネの説教が呼応します。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」(マタ3:7)。すべての人は罪人として平等です。ゼファニヤは人間の罪のすがたを「傲慢・驕り高ぶり」(10節)と表現します。原意は、「他者と差をつけようとして自己を肥大化させること」にあります。そのような人すべてが裁きの対象です(11節)。

神の裁きの周辺諸国への拡大は、この後の歴史で二つの相対立する思想を生み出していきます。一つは排他的な民族主義/国粋主義です。ゼファニヤの同世代人のナホムという預言者の思想にそれが顕著に表れます。前8世紀の預言者たちの自国審判は「自虐史観」というように映るのでしょう。周辺を滅ぼす神は報復の神として信奉されます(ナホム1:2)。

もう一つの思想は、多様性に寛容な国際主義です。神の態度はイスラエルにも周辺にも平等だということが、この思想の出発点です。ヨナ書の著者は敵大国アッシリアに寛容です(ヨナ4:11)。ルツ記の著者は、民族主義者にとって尊崇の的であるダビデ王が、モアブ人の血を引くことを暴露します(ルツ4:17)。

東北アジアに生きるわたしたちはどちらを採るべきなのでしょうか。(JK)