仕える者 ルカによる福音書22章24-30節 2018年9月9日礼拝説教

本日の箇所も、ルカ教会の編集作業が際立っています。マルコ福音書が主な素材です(25-27節。マルコ福音書10章42-44節)。それと、マタイとルカが共有している言い伝えも素材の一つです(30節。マタイ福音書19章28節参照)。24節と28-29節が、ルカの筆によるものです。ルカ独自の強調に注目しましょう。また、全体に最後の晩餐の中での出来事に仕立てたのは、ルカの編集によるものです。マルコ・マタイにおいては、最後の晩餐とは無関係な文脈にそれぞれの言葉はあります。文脈を変えた意図にも注目しましょう。
だれがイエスを引き渡すのかという議論は、そのまま誰が「より大きい者に見えるか」という議論につながります(23-24節)。24節の「議論」の直訳は「争いを好むこと」です。「偉い」の直訳は「大きい」。一番が誰かということではなく、比較級が用いられているので「より大きいかどうか」。さらに、実際に大いなる者かどうかではなく、より大きい者に見える/思えるかどうかが争いの焦点でした。
24節には罪の特徴が凝縮されています。すべての人は(実際はともかくとして)「より大きな者に見られたい」と思っています。そして隣人を、自分よりも小さな者に見えるように貶めるべく、お互いに争いを起こすことを好みます。器の小さい者同士の争いごとを、わたしたちは本能的に好んでいます。
社会全体はこの種の競争原理で成り立っています。当時の社会全体とは、ローマ帝国の支配体制のことです。「異邦人」(25節。マルコ10章42節)という翻訳はあまり良くありません。「非ユダヤ人」の意味ではなく、ここでは諸王(バシレウス)に支配されている諸民族(複数)が指し示されているからです。その諸王の王としてローマ皇帝が君臨しています。ローマ皇帝は「より大きい王」として、知られている範囲の世界の頂点にいます。その姿は、社会という宴席で上座に座って料理だけを食べている人と似ています(14章7節以下参照)。そして宴席に着くことができる者たちは、お互いの位置を確かめ、次の宴会でより皇帝の近くの席に着こうと狙います。
皇帝の食卓は、宴席に着くことができない多くの奴隷たちによって支えられています。彼ら彼女たちは食卓の給仕をする時だけ登場しますが、決して共に食事をすることは許されません。不平等な扱いです。しかしだからといって不満が爆発するわけでもありません。倒錯したことに、奴隷たちは皇帝を「守護者」(25節)と呼んでいます。直訳すれば「(自分たちに)善を施す者」です。支配されている人々は、喜んで支配されようとしています。恩恵をいただいていると感じているからです。ここまで洗脳することで、支配-被支配の関係は完成します。本当にアメリカのおかげで日本は守られているのか、もう一度冷静に考える必要があります。DVやハラスメントも同じ構造です。
国家レベルの話題を、ルカ福音書はあえて最後の晩餐に持ち込んでいます。それによって、毎週わたしたちの只中にある「神の国(主の食卓)」がどのようなものであるべきかを教えようとしています。国/支配権(バシレイア)、王(バシレウス)に語呂合わせがあります。
世界帝国による一極支配を批判するために、ルカ教会は30節をここに配置します(マタイ19章28節参照)。29節「支配権」は「国(バシレイア)」という言葉で、30節「わたしの国(バシレイア)」と同じ単語です。ローマ帝国に対する神の国がどのようなものかを説明していると考えます。神の国は十二部族連合体のようなものだと、イエスは語ります。新共同訳では、ただ一つの王座があるかのように読めますが、ギリシャ語では「王座」は複数です。神の国は中央集権の王制度ではなく、回り番で指導者役を適宜立てる、対等な諸部族連盟制です。しかも世界大の大きさではなく、地域の自治程度の大きさです。「治める」(30節)の直訳は「裁く」。イスラエル十二部族が、王制導入前の士師(さばきづかさ)時代に、裁判によって自治を行っていたことの名残を示す言葉です。主の食卓は、王がいない水平な交わりです。同席者全員が「王座」に座れますし、その中から指導者が適宜立てられます。上座のない宴会です。
主の食卓は、ローマ皇帝が上座にふんぞりかえって料理を待つというものではありません。食卓の主であるイエスが給仕役となる食卓です(26節「仕える者」・27節「給仕する者」は同語)。ローマ皇帝も「神の子」と呼ばれていました。しかし本当の神の子は、自分の民の上に立って力によって支配するのではありません。自分の民の下に立って、ひとりひとりの足を洗い、ひとりひとりに飲み物と食べ物を忙しく給仕する。ひとりひとりに命を配る十字架と復活の主イエス。僕となった王こそ、本当の神の子です。
主の食卓は、比較を止める宴席です。より大きい人は、より小さい人になるべきです。ふんぞり返るのではなくイエスにならって腰を軽くし低くして給仕をし合うのです。26節も最上級ではなく比較級が用いられています。「いちばん偉いかどうか/いちばん若いかどうか」が問題なのではありません。むしろ、イエスをいちばん偉い王/皇帝と考え、イエスを頂点として固定すること、その頂点から比べて行う序列付けが問題なのです。
この点マルコ福音書の文脈も参考になります。ヤコブとヨハネという二人の弟子が、イエスの右と左に座りたいと願ったことに対して、他の弟子たちが怒る場面。そのようなイエスとの距離を争う十二人の男性弟子に向かってイエスは諭しています(マルコ福音書10章35-41節)。
ルカはマルコ版イエスの教えを最後の晩餐に移動し、それによってこの問題が教会に起こること、しかも主の晩餐という中心儀式においてすら起こりうることを示しています。あの人が奉仕すべきではない、同席すべきではないという考え方は、比較する中で起こりやすいものです。そして、序列付けは争いを好むわたしたちにとって、楽しいゲームとして機能します。「しかし、あなたがたはそれではいけない」(26節)。
しばしば牧師はローマ皇帝のようになりがちです。平等な交わりを標榜するバプテスト教会において、皮肉なことに牧師の人間性が大きく教会の有り様を左右してしまいます。教会の指導者は威張ってはいけません。また教会員は牧師との距離がより近いかより遠いかを気にしがちです。人間の組織としての教会において、わたしたちは一般社会と同じく誘惑に遭います。28節「試練(ペイラスモン)」は「誘惑」です(4章2節)。支配-被支配の誘惑こそ、ユダを惑わすものでした。そしてわたしたちすべての者はユダと似ています。
どうすればわたしたちは神の国を主の晩餐においてかたちづくることができるのでしょうか。水平である交わり、相互に下に立つ交わりは、どのようにして罪人の集まりに可能なのでしょうか。
鍵は無条件の赦しにあります。イエスはユダを含む使徒たちに「あなたがたは絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた」(28節)と、不思議なほめ方をしています。今までの物語でもこれからの物語でも、使徒たちはイエスと共に踏みとどまるということは全くできていません。誘惑に負けてイエスを引渡そうと画策し、低次元の争いを続け、不誠実にもこれからイエスを引渡し否定する者たちの集まりです。それにもかかわらず絶対的な肯定・大いなる然りをイエスは語ります。否定より肯定、叱ることより褒めることです。できていない子どもに対して、「よくやった。でかした」と大げさに褒めるわけです。
15章の放蕩息子の譬え話を思い起こしましょう。父親に対して弟息子は損失しかもたらしませんでした。父親の信頼を裏切り、心配を無視し、案の定父親の半分の財産をドブに捨てました。しかし父親は、この弟息子の落ち度を一切責めませんでした。かえってご馳走で歓迎しました。この父親が神の喩えであり、弟息子が失われた存在である罪人の喩えであり、喜びの祝宴が神の国の喩えです。この父親が食卓の主イエスの喩えであり、弟息子が使徒やわたしたちの喩えであり、喜びの祝宴が主の晩餐の喩えです。
15章12節「弟息子」、同13節「下の息子」と翻訳されている言葉は、「いちばん若い者」と同じ単語です。先ほど申し上げたとおり最上級ではなく比較級なので、直訳は「より若い者」です。ここには暗号があります。それは、「主の晩餐においては、あの弟息子のようになりなさい」という指示です。弟息子のようになることとは、神からの無条件の赦し・全面的な存在の肯定を、素直に受け取るということです。悔い改める必要すらありません。神は、悔い改め真面目に生きる子どものみを息子や娘として認めるのではありません。あの譬え話の中で父親は、家の外で放蕩の限りを尽くそうが家の中で忠実に仕えようが、どちらの息子も息子として存在そのものを認めています。そこで初めて人は感謝を知り、生きる力を得るものです。
これがイエス・キリストによって開始された新しい「契約」(ディアセーケー。20節)です。この契約という言葉は動詞の形で29節に二回登場しています。「ゆだねる」(ディアティセーミ)は「(譲渡)契約する」とも訳せます。田川建三は「御国を契約する」と訳しています。この近い文脈ですから、同根の名詞と動詞は対応していると考えるのが自然です。
神はイエスに神の国を契約しました。イエスが放浪の旅をし、食卓を開く時に神の国はイエスを中心にして実現しました。族長たちの祝宴である天の国が地上に相続されました。無条件にその存在を認められた徴税人・娼婦・子ども・「障害」を持つ人・ハンセン病患者が、イエスを中心にして食卓に座ったのです。それは喜びの祝宴でした。誰も比べ合って「あの人はふさわしくない」とか「あの人よりわたしは大きい」とか言い募りません。全員がふさわしくないことを知り、全員が小さい者だということを思い知っている今、感謝以外にはない。同席しないファリサイ派だけが、その類の貧しい争いを持ち込みました。
最後の晩餐において、イエスは引き渡す者・否定する者・誘惑に負けた者たちに遺言を残します。「この食卓を中心にした神の国を、不誠実なあなたたち使徒にも契約し相続させる。わたしを記念するためにこのように行いなさい。すべての者があの弟息子のようになりなさい。無条件の赦しを主の晩餐で表現しなさい。不誠実な者たちに対してさえも誠実であり続ける神の愛を、わたしの十字架は示し続ける。これがわたしの血による新しい契約だ。」
今日の小さな生き方の提案は、イエス・キリストの十字架が示した愛を素直に受け取ることです。ここに救いがあります。人と比べて優越感や劣等感を持つ生活からの解放です。見せ方ばかりを気にする必要はありません。存在そのものが無条件に赦されているからです。毎週神の信実を実感する主の晩餐を感謝して共有し続けましょう。ここに人生を活かす力があります。イエスを主と信じ、毎週の礼拝で慰めと励ましを受ける人生を始めてはどうでしょうか。
世界帝国の「力の支配」を崩すものは、地域の自治の積み重ねや重なり合いなのだと思います。無条件の赦しは、力によらない結びつき(仕え合いや助け合い)に人々を促します。教会の礼拝でこれを学び、それぞれの生きている場で少しずつ無理のない範囲で実践していきましょう。