1 アハズ、ヨタムの子、ウジヤの子、ユダの王の日々に以下のことが起こった。すなわち、アラムの王レツィンとレマルヤの子ペカ、イスラエルの王がエルサレム(に)彼女に相対して交戦するために上った。そして彼は彼女に相対して交戦することができなかった。 2 そして以下のことがダビデの家に告げられた。曰く、アラムがエフライムの上に休んだと。そして彼の心と彼の民の心は揺れた、霊の面から森の木々が揺れるように。 3 そしてヤハウェはイザヤに向かって言った。ぜひあなたが出て行け、アハズに会うために。あなたとあなたの息子シェアル・ヤシュブは、布さらしの野の大路に向かう、上の池の水路の端に向かって(出て行け)。
紀元前733年、「シリア・エフライム戦争」と呼ばれる戦争がありました。四つの国をめぐる外交と戦争です。預言者イザヤが居る南ユダ王国、南王国の北隣の姉妹国である北イスラエル王国(エフライム)、北王国の北隣のアラム王国(シリア)、アラム王国の北隣のアッシリア帝国という大国。これらの四か国です。アッシリア帝国(首都ニネベ、ティグラト・ピレセル王)は当時最強です。そして南へ侵攻しようとしていました。そこでアラム王国(首都ダマスコ、レツィン王)と北王国(首都サマリア、ペカ王)は「反アッシリア軍事同盟」を結び、南ユダ王国(首都エルサレム、アハズ王)にも軍事同盟に参加するように呼びかけました。南王国は悩みながらも断ります。アッシリア帝国の報復を恐れたからです。するとアラム王国(シリア)と、北王国(エフライム)が連合軍を組んで、南王国の首都エルサレムまで侵攻してきました。これがシリア・エフライム戦争です。
アラム軍が北王国に駐留し合流したことを聞き、南王国アハズ王は国家存亡の危機に動揺しました(2節)。エルサレムの周りには城壁があります。その城壁が完全に包囲されたらどうなるのかとも心配します。城内の水が足りなくならないだろうかと、「上の池の水路」(3節)を端から端まで調べなくては心配でしょうがありません。そしてアハズ王は、ある外交政策を決めました。アッシリア帝国に臣従するという政策です。そうしてアッシリア軍に、アラム王国を侵略させるのです。主力はエルサレムに来ているのですから、アラム本国は手薄です。少なくともエルサレムからは引き揚げざるをえなくなるはずです。妙案ではあります。今ある危機は去るでしょう。しかし、その場凌ぎの外交政策でもあります。アッシリア帝国は、臣下となった南王国の望みをどの程度まで聞いてくれるのか、まったく読めません。逆にさまざまなことを押し付けてくる可能性もあります。不安もある中アハズ王は、アッシリア帝国の臣下になる道を選びました(列王記下16章5節以降参照)。
その時預言者イザヤに神の命令が下ります。息子シェアル・ヤシュブを連れてアハズ王に会いに行き、神の言葉を伝えよというのです。聖書の預言は危機の時代に降る「神の言葉」です。神の霊風(2節)が天地創造の時のように混沌の面を吹いています。その風はわたしたちの心を揺さぶりますが、しかしその風は創造的破壊をもたらす神の息です。危機こそ、何かが創出される好機なのです。預言は遠い未来についての予知ではなく、近い将来についての警告であり指針です。預言者イザヤは、アハズ王の採った外交安保政策についての「神の言葉」を伝言します。神が預言者を遣わすからです。この時神が、息子を連れて行くようにと命じたことが、この預言の解釈の方向性を定めます。
いわゆる「象徴行為」や「行為による預言」と呼ばれる現象です。預言者は言葉だけではなく、非常識な行動によって神の意思を伝えることがあります。たとえばエレミヤは頸木を自らの首にかけて王に警告します。このようにしてみなバビロンに連れて行かれるということを示すためです(エレミヤ書27章1節以下)。エゼキエルは三百九十日左脇を下にして寝ることを神に命じられます。それによって北王国の三百九十年の罪を預言者が負うのです(エゼキエル書4章4節以下)。イザヤが王の前に子どもを連れて行くことにも特別な意味が与えられています。息子の名前はシェアル・ヤシュブ。その意味は、「残りの者は帰る」です。
「残りの者(シェアル)」はイザヤ書の鍵語です。旧約全体28回中12回がイザヤ書に集中しています。その意味は、「大国による軍事占領など人災・天災を経て少数者になったけれども信仰を貫いた人々」というものです(10章19節以降等)。いわゆる「生存者たち」(survivors)です。イザヤとその妻(彼女も預言者。8章3節)は、すでに北王国や南王国が捕囚とされることと、それを経ても生存者がいること、そのような生存者こそが信仰共同体を継承していくのだということを確信していました。息子シェアル・ヤシュブはシリア・エフライム戦争の最中に生まれた赤ん坊だったかもしれません。
イザヤ夫妻はアハズ王の対アッシリア政策が北王国の滅亡まで導くことを予見しています。南王国としてはそこまで頼んでいないし望んでいません。なぜなら二つの国は元々一つのイスラエル十二部族だからです。そしてイザヤ夫妻は、自分たちの警告にもアハズ王は耳を傾けないことも予見しています。語れば語るほど頑なになると知っています。結局北にも南にも「残りの者」が発生する。国は滅ぶ。しかし、そこからしか新しい芽は生まれない。シェアル・ヤシュブを連れて行くという行為は、大いなる否定をくぐりぬけて起こる、まったく新しい肯定の出来事を象徴しています。
4 そしてあなたは彼に向かって言え。あなたは自分を守れ。そしてあなたは静けさを示せ。あなたは恐れるな。そしてあなたの心が弱くならないように。これらの怒りの炎が燃えている、レツィンすなわちアラムとレマルヤの子(という)二つの燃えかすの木っ端によって。5 悪いアラム、エフライムすなわちレマルヤの子はあなたについて謀議をしたので以下のように言い続けている。 6 ユダの中へと我々は上ろう。そして我々は彼女を脅かそう。そして我々は我々に向かう彼女を打ち破ろう。そして我々は彼女の真ん中で王(として)タベアルの子を即位させよう。
イザヤに託された、アハズ王に対する神の助言は、「自分自身を保つこと、人々に向かって王の落ち着きを示すこと、眼の前にいるアラム・北王国連合軍を恐れないこと、心を弱くしない・気を確かにすること」です(4節)。イザヤは、アラム・北王国間で取り交わされている約束を知っています。タベアルという人物の名前がアラム語名であるので、おそらく彼はアラム王国出身者です。その息子を(母親は南王国の人かもしれません)、南王国の王に据えて傀儡政権を樹立させようというのです(6節)。そうすれば、アラム・北王国・南王国の三国による「反アッシリア軍事同盟」が成立するからです。
神はこの謀議を「悪い」と断じます(5節)。ここには倫理的価値評価が入っています。冷厳な国際外交とは別の次元です。政治は倫理的なものであり、政治指導者は神の前に清廉潔白であることを、イザヤは求めています。それが4節に示された、穏やかで毅然とした態度・己の品位を保った言動です。
7 私の主人ヤハウェはこのように言った。それは起きない。そしてそれは成らない。 8 なぜなら、アラムの頭がダマスコ、そしてダマスコの頭がレツィンだから。そして六十五年のうちにエフライムは民のうちから砕かれる。 9 (なぜなら)エフライムの頭がサマリア。そしてサマリアの頭がレマルヤの子(だから)。もしもあなたが堅く立たせないならば、あなたは確かに堅く立てられない。
アッシリア帝国に依存しなくても、アラムと北王国の悪だくみは地上には実現しないとイザヤは言い切ります(7節)。「タベアルの息子が王になるということは起こらない。そしてそれは生起しない」。なぜならば、神のみが歴史の主人だからです。ヤハウェという神の名前の意味は「彼は生起させる」です。神の意思なしに、歴史の出来事は生じないのです。イザヤが「私の主人(アドナイ)」と呼ぶ神は、ヤハウェという名前と働きをもった神です(7節)。アッシリア帝国は歴史の主人ではありません。単なる「神の鞭」です(10章5節)。
神はアラム王国の王がレツィンであるから、この謀議は成らないと言います。また、北王国の王がペカであるから、無理なのだと言います(8-9節)。二人の政治指導者が不信実という「悪」を持っていることが理由でしょう。自分たちの言うことを聞かない隣国に侵略するという行動が不実なのです。
神はアハズ王に、レツィンやペカと正反対のあり方を要求しています。それは「信実であれ」という勧告です。「もしもあなたが堅く立たせないならば、あなたは確かに堅く立てられない」(9節)という言葉は、翻訳が難しい箇所です。二つの動詞が同じ「アマン(アーメンと同根)」だからです。「信じなければ信じられない」とも訳せます。新共同訳は「信じなければ確かにされない」としています。いずれにせよ、大切なことは、神を信じるという行為は、自らの態度を固めることと関係があるという含みです。
ことの発端はアハズ王の動揺にありました(2節)。確かにアハズを揺さぶり脅す者たちは悪です。しかしながら悪に向かって悪を報いても解決にはなりません。悪人が悪だくみをしている時に善人は善い計画を立てるべきです(キング牧師)。悪に怯えるアハズ王のための助言は、「あなたの態度を固めなさい」ということです。神が歴史を導くことに「アーメン、その通り」と言えるかどうかが問われているのです。遠国との軍事同盟に頼るあり方ではなく、神に信頼し隣国から信頼される道義的大国になることが求められています。アッシリア帝国にも頼らず、アラム王国・北王国の誘いも断る。その結果軍事占領されてもしぶとく生存する。神が「残りの者」をも養い導くことを信じる。このように神を信頼し自分自身のあり方を堅く立たせる者たちが、結局のところ神からも隣人からも信頼されるのです。それが信じるということです。
わたしたちが祈りや賛美において用いる「アーメン」という言葉には独特の力があります。神が引き起こす出来事をすべて受け止めさせる力。自分の思いを確信に上らせる力。隣人の言葉に対する共感を強める力。お互いの信頼を深め広げる力。教会の信仰はつまるところ「アーメン信仰」です。アーメンという言葉によって象徴されるあり方が、信徒の日常生活なのです。
今日の小さな生き方の提案は、堅固な生き方の勧めです。わたしたちは常にふらふらしています。それは柔軟かつ自由な姿勢という意味で悪くありません。ただし根無し草となってしまい、風によって吹き去るもみ殻にも譬えられてしまう憾みがあります。根っこだけは大地に根を下ろさなくてはいけないのでしょう。上半身が相手に応じて対応し揺れ動いても、下半身はどっしりとしている横綱のように。良いことがあっても悪いことがあっても「アーメン」。自分の小さな願いにも小さな悔い改めにも「アーメン」。隣人の苦しみを除けてほしいとの大きな嘆きにも「アーメン」。世界を諦めず、社会を諦めず、人生を諦めない、信実な態度こそ、岩の上に家を建てる人のような生き方です。