今日の箇所は、憲法29条を思い出させるものです。「財産権は、これを侵してはならない」(憲法29条1項)。一人ひとりに私有財産を持つ権利があり、それは誰からも侵されず保障されるべきなのです。この箇所は、第八戒と第十戒と深く関わっています。「あなたは盗まないだろう」(20章15節)、「あなたは隣人の家を欲しがらないだろう」(20章17節)。盗んだり欲しがったりしない根拠は、隣人に私有財産を持つ権利があるからです。
財産権を前提にして、次の問いが起こります。では、侵してはならない財産権がさまざまな理由で侵された場合には、どのように対処すべきなのかということです。過失によって他人の財産を損なった場合(33-36節)、盗みによって他人の財産を不当に得た場合(21章37節-22章3節)、他人の畑に損害を与えた場合(4-5節)、他人に預けた物に損害が出た場合(6-14節)が、ここで規定されています。
いくつか気になる点について取り上げながら、現代に生きるわたしたちへの示唆を汲み取りたいと思います。
一つは22章1-3節の順番です。新共同訳聖書は、2節b⇒3節⇒1節⇒2節aという順番に組み替えています。なぜこのようなことが起こるのでしょうか。簡単に言えば学者の判断です。いくつかの有力な欧米語訳もこの組み替えを行っているので、新共同訳もそれらに倣ったのでしょう。ただし個人的には組み替えは不要と考えます。意味が通じる限り原文を尊重すべきです。そして元々の順番でも意味は通じます(岩波訳参照)。
新共同訳聖書では探しにくくなっている22章1-2節aの内容も、分かりにくいものです。なぜ昼間だと窃盗犯を撃ち殺してはいけないのでしょうか。ここには書かれていない大前提があります。それは第六戒です。「あなたは殺さないだろう」(20章13節)。暗闇の中の泥棒は、強盗殺人を犯す目的か、ただの泥棒か区別がつきません。命には命という同害報復を認めているのですから、殺そうとしている人を殺すことは正当防衛として許されます。殺そうとしているかどうかがわからない泥棒を殺すことは許されます(22章1節)。
しかし、昼間であるならば、ただの泥棒か、強盗殺人をもくろむ人かの判別ができるはずです。なるべく殺さないようにという大前提があるので、昼間の泥棒を撃ち殺すことは過剰防衛として裁かれます。この場合、殺した人も殺されるという同害報復(共同体による処刑ないしは親戚による私刑の許可)が予想されます。ちなみに原文には、「血を流した罪」(同1節)・「血を流した責任」(同2節)という言葉ではなく、端的に「血」としか書かれていません。「血には血」という報復が言われています。
同害報復そのものはイエス・キリストによって乗り越えられていますが、「なるべく殺さないようにしよう」という精神については十分評価するべきでしょう。当時としては先進的な法律であったのです。
二つ目は、「神の御もと」(22章7・8節)とはどこのことを指すのかという疑問です。これは恐らく祭司の神明裁判の場面です。言い争いが生じたときに、人々は祭司のところに裁判を持ち込みました。以前にも申し上げたとおり、ウリムとトンミムというくじを祭司は胸に入れています(28章30節)。そして、両者に争いが生じている場合に、つまり、双方ともに「自分は罪を犯していない」と神に誓った時に(22章7・10節)、くじによってどちらかを有罪と判断したのです。このような一連の裁判が、「神が有罪とした」(同8節)という意味です。
現代の裁判制度は神明裁判に対する批判から生まれました。司法権は巨大な権力です。魔女狩りも神明裁判の一種です。法律を作る者が裁判も牛耳ることができれば、とんでもないことができます。しかも宗教の名を借りて、神の名で権力を振るうことによって醜悪さを増しています。世俗権力と深く結びついた宗教指導者が、自分たちに都合の悪い者を神明裁判によって異端とみなし火あぶりの刑にしていったことへの反省から、権力を分けること、政治と宗教を分けることが立憲民主主義の重要な基礎として認められていったのです。
だからわたしたちは神の裁きを世の終わりまで待つべきです。ウリムとトンミムは必要ないし、宗教者たちに裁判を任せてはいけません。地上での市民生活において、しかるべき裁判官・検察官・弁護士など法律家によって、徹底的に合理的に裁判がなされなくてはいけません。同害報復ではないところに立って、「殺人加害者であってもなるべく殺さない」という方向で、判決を導き出していくべきです。
三つ目。犯罪に対してどのような賠償がふさわしいのでしょうか。わざとではない過失によって、他人の財産(牛やろば)を損なった場合、原状回復が原則です。元通り、または同価値のもので償うのです(21章33-36節)。「牛には牛」です。同じように、過失によって火事を起こしてしまった人も同程度の賠償をしなくてはいけません。また、たまたま他人から借りた物が盗まれたり損傷を被ったりした場合、借りていた人が貸した人(元来の所有者)に同程度のものを賠償します(22章11・13節)。ただし所有者が同じ場所にいたならば、責任を免れます(同14節)。野獣による損傷も免責されます(同12節)。過失については分かりやすいものです。
泥棒の賠償はどうでしょうか。盗むことは、必ず故意になされます。過失ではありません。牛が泥棒の手元にない場合は五倍、手元にある場合は二倍の賠償が求められます。羊が泥棒の手元にない場合は四倍、手元にある場合は二倍です(21章37節・22章2節)。人から預かった物を盗んだ人も同じく二倍です(22章6節)。自分の物ではない紛失物の所有権を主張した場合、判決によって嘘とみなされたならば、やはり罰として二倍の支払いが要求されます。倍返しが基本です。ただし、手元にない場合は、即座に処分するその計画性が悪質と判断され、五倍ないしは四倍と賠償程度が重くなります。
他人の畑を自分の家畜が荒らした場合は、自分の畑の最上の産物で償わなくてはいけません(同4節)。家畜の管理責任は非常に重いと言えます。あるいは、他人の耕作する作物に対する尊重義務は非常に重いとも言えましょう。倍返しでもなく、「最上の産物」で償わなくてはいけないからです。
これらの賠償規定は、古代人たちが「償うということ」をどのように理解していたかを知るために有益です。その中には、現代のわたしたちにも当てはまるものも、当てはまらないものもあります。
たとえば、これらの賠償を行うことができない場合について、わたしたちは倣わなくてよいでしょう。賠償できない人は身売りをし奴隷となります(同2節)。奴隷となることは刑罰の一種だったのです。この制度は、貧困のために窃盗を犯した者が賠償もできずに奴隷に身をやつし、さらに犯罪に手を染めるという、負の連鎖を生じさせます。貧困の連鎖は、現代の課題でもありますから、賠償できない者が奴隷となるような仕組みは批判されるべきです。
現代にも通用する内容をも探ってみましょう。「償う」という動詞は、ヘブライ語シャレムです。シャローム(平和)と同じ根を持ちます。また、「和解の献げ物」(シェレム。20章24節)とも同じ根です。「欠けのない状態にする」「完全にする」「円満にする」という意味合いの言葉です。他人から被る損害というものは、自分の持つ完全な状態である「円」をへこませるものです。償いは、そのへこんだ円を埋め戻し、円満状態への復帰を目指す行為です。
過失による損害ならば、同じ程度のもので良いというのは、そこに悪意がないからです。へこんだ部分は、その物自体が持っている価値だけです。しかし盗みの場合は、悪意があります。そこで被害者のへこみ方が大きくなります。その物を失っただけではなく、自分の良心も傷つけられるのです。その穴を埋め戻すために、二倍の物、四倍や五倍の物、「最上の物」が要求されます。
聖書は、ある意味では償いには際限がないことを伝えています。被害者の心のへこみは本当のところ誰にもはかり知れないからです。へこみに対する賠償は加害者から見て最上の物でなくてはなりませんが、被害者から見て最上の物であるかどうかは分かりません。ここに現代にも通用する使信があります。
被害者は加害者に何を求め、何によって心が円満に埋め戻されるのでしょうか。それ相当の賠償は当然必要です。賠償すらしたがらないという態度は言語道断です。賠償に加えて、「加害者による誠実な謝罪」と、「被害者の名誉の回復」が必要です。これこそ、「最上の物」です。
わたしたちは新約聖書の物語から、償うということ・円満な解決という平和づくりの実例を学ぶことができます。ルカによる福音書19章1-10節に、徴税人ザアカイの物語が記されています(146ページ)。徴税人は非ユダヤ人であるローマ人と接触する仕事でした。支配者ローマ帝国に収める税金を取り立てる仕事だったからです。そのためにユダヤ人仲間から嫌われ、宗教的には職業差別を受けていました。その仕返しもあるのでしょう。ザアカイが金持ちであったのは、ピンハネによる搾取が理由として推測されます。ある種の報復の連鎖があり、加害者と被害者が錯綜した状況です。
イエスは、誰も寄りつかないザアカイの家を訪れ、食事を共にし、宿泊します。「罪深い男の客」となったのです。貧しい者たちはイエスに文句を言ったかもしれません。ザアカイのせいで貧しくさせられているからです。一方ザアカイは嬉しくてたまりません。彼もまた「罪人」という名誉毀損の被害者だったので、その名誉が回復されたのです。イエスの救いとは名誉の回復です。
こうしてザアカイに悔い改めが生まれます。自分の搾取という加害を認め、誠実に謝罪し、財産の半分と四倍の賠償を、貧しい人たちに返すことを決めたのです。本日の箇所で言えば、羊を盗んですぐに処分した、計画的悪質な行為に対する賠償を、自ら進んで行う者となったのです。ザアカイが、ピンハネというだまし取りを盗みとみなしていることが、この「四倍の賠償」という発言から分かります。それに加えて「財産の半分の施し」によって、誠実な謝罪・名誉の回復が表現されます。
たとえば、目が見えない人が物乞いをせざるをえないのは、その人のせいでも何でもなく、ローマの支配・ユダヤ政府の支配という社会の仕組みのせいなのです(同18章43節)。イエスによって晴眼者となった元物乞いはザアカイの家にも従ってきたことでしょう。ザアカイは貧しい元盲人と、自分の家で対面し、イエスの前で和解の道を歩みました。「誠実な謝罪」「相当の賠償」「名誉の回復」という償いをすることができました。イエスは神明裁判の祭司とはならず、ただザアカイの弁護士となりました。イエスは「今日救いがこの家を訪れた」と言います。信実に償うときに円満な解決・和解・平和が実現します。それは地上の加害・被害、支配・被支配を丁寧にひもときながら、その葛藤を乗り越える道です。
わたしたちにとって償うことは何を意味するのでしょうか。誰かからだまし取っていないか自省し、悔い改めの道を歩みましょう。