【はじめに】
待降節が始まりました。今年は「光」ということを縦軸にして4週間を過ごしていこうと思います。「光」という言葉は新旧約聖書を貫く鍵語の一つだと思います。イエス・キリストを信じるということは、ナザレのイエスが「闇の中の光」「世の光」であると信じることです。そこで言う「光」は、聖書全編を通じて登場する「光」と同じものであるはずです。つまり創世記1章に登場する「光」(3・4・5節。ヘブル語「オール」)も、イエス・キリストという「光」を基準にして解釈されるべきです。結論を先取りして言うならば、信仰とは、ぐちゃぐちゃで空っぽで真っ暗な自分の心の中に、光であるキリストを受け容れ、世界と自分に絶望しないという営みのことです。
1 神がその天とその地とを創った初頭において、 2 その地は無形と空虚だった。そして闇が深淵の表面の上に。そして神の霊がその水の表面の上に舞い続けている。
【天地創造の時に・・・】
私訳は「はじめに」と副詞としてしばしば翻訳される「ベ・レシート」を、従属接続詞(英語のwhen)として翻訳するという立場です(New American Bible, New Revised Standard Versionも)。2章4節後半の「神が地と天を造った時に…」と同じ訳し方でもあります。細かく見ると1章1節は「初頭(レシート)・において(ベ)」、2章4節後半は「日(ヨーム)・において(ベ)」と類似の表現です。どちらも同じ天地創造物語ですから、どちらも従属接続詞「…時に…」と解することは合理的です。このように従属接続詞とすると、1章1節は独立して完結しません。1章1節と2節前半は結合して一文としなければなりません。要約すれば「神が全世界を創った時に、地はぐちゃぐちゃと空っぽの状態だった」という一文ができあがります。
「無形と空虚」(トーフー・ワ・ボーフー)という熟語は、全聖書中他にはエレミヤ書4章23節にしか登場しません。エレミヤ書4章と創世記1章は同時代に書かれた文書であると推測します。創世記1章と同じ単語を用いている箇所が分かるように太字下線を引いた翻訳は次の通りです。
<エレミヤ書4章23節>
わたしはその地を見た。そして何と、無形と空虚。またその(二層の)天に向かって(見た)。そして彼らの光は無い。
紀元前6世紀に生きた老預言者エレミヤ(「わたし」)が見た情景は、天地創造以前の状況です。彼はまず地がぐちゃぐちゃであり空っぽであることを見て失望します。建物という建物が壊され燃やされています。次に、絶望した彼は天に向かって目を上げますが、二層の天は晴れているのに真っ暗に見えました。方々から煙が空に昇り、空気全体が燻っています。色が無い世界と言うべきか、鉛色の空と言うべきか。エレミヤは時代の雰囲気を見ます。飢え渇き困窮したユダヤの民の様子、嘆き呻く声なき声を聞き、彼ら彼女たちの心中を見抜きます。誰にも希望の光が無い。地の混沌と天の闇が一体となっています。
それは敗戦時の情景です。紀元前587年、新バビロニア帝国という当時の西アジア最強の軍事大国は南ユダ王国を滅亡させました。すでに領土を奪われ首都エルサレムだけが残されていたのですが、長く厳しい籠城と包囲戦の後エルサレムは陥落、神殿も王宮も徹底的に破壊されます。エルサレム住民は飢餓のあまり人肉食すらしたと伝えられています(哀歌2章20節)。その後に人々はバビロニア軍に虐殺され、略奪され、嘲笑されました。貴族たちはバビロンに連れ去られて国家体制を根絶やしにさせられました。民は置き去りにされ行政サービスを受けられなくなりました。治安は極度に悪化し貧困に拍車をかけます。ぐちゃぐちゃであり空っぽ。どこにも光がありません。この光の無い状況を「闇」(創世記1章2節)と呼びます。闇が覆うと心が塞がります。
「深淵」は闇に覆われている一人ひとりの心です。心の奥深く、心の底まで沈殿している絶望。底が見えない深い淵は安易な期待を拒絶する、固く閉ざされた心の裡のたとえです。深海に光が全く届かないように、バビロン捕囚という破局・闇は、ユダヤの民から希望を奪いました。
「水」は「深淵」と同義語・類義語として用いられています。わたしたちの文化からは想像しにくいのですが、聖書の世界では海や湖を表す「水」は不気味な存在なのです。嵐に見舞われたガリラヤ湖に浮かぶ小舟の中、イエスがいない状況の弟子たちを思い浮かべると良いかもしれません。「深淵」が絶望の譬えならば、「水」は不安の譬えです。深淵の上に闇が覆っていますが、同時に水の上に「神の霊」が舞い続けています。絶望と不安の只中で新しいことが起こりつつあります。神の霊・聖霊・イエスの霊は、闇に覆われているわたしたちの心を、もう一回り大きく包んでいます。そして動き続け、働き続け、新しい創造的肯定的出来事を生み出す準備をしています。真っ暗闇の嵐の中、逆風に弟子たちは漕ぎ悩み、足元から揺さぶられていましたが、正に同じその時、水の上を歩いてイエスが近づいていました。それは最も暗く寒い時間、夜明け前の出来事でした(マルコ6章45-52節)。
3 そして神は言った。光が起こるように。そして光が起こった。 4 そして神はその光を見た。実に良い。そして神はその光とその闇との間を分けた。 5 そして神が名づけた。その光のために日と、そしてその闇のために夜と彼は名づけた。そして夕が起こった。そして朝が起こった。一日。
【光が起こるように】
「光が起こるように」(3節)と神が指示をすると、その通り光が生起しました。神の言葉が画期的な新しい事態を切り拓きます。神の霊が働くだけでは不足しています。神の言葉も必要、そして逆もまた真です。神の言葉だけではなく、神の霊がなければ出来事は生起しません。この光は、バビロン捕囚によって絶望・不安に脅かされているユダヤの民に対する希望・安心です。バビロンの地で、初めて会堂で聖書を朗読する礼拝が行われた時、創世記1章が分ち合われました。暗闇の中を歩く民に「光が起こるように」という神の言葉が語りかけられ、会衆一人ひとりの心の中に「光が起こった」のです。
この光は、ガリラヤ湖の夜明けの光と同じ光です。イエスが舟に乗り込み、「わたしはある/起こる」と語った時に、雨も風も止み、雲は晴れ、曙の光が湖を染め上げたのです。
光が起こる時に闇は消えます。闇は光に勝るものではありません。絶望は希望に、不安は安心に飲み込まれます。つまり光と闇は共存しません。また闇は光と拮抗するものではありません。対等の東西両横綱ではないのです。光が登場すると闇はまったくいなくなります。神が「その光とその闇との間を分けた」(4節)ということは、光の領土と闇の領土を半分にして共存させたということではありません。時間帯を分けたのです。神は昼間の時間帯と夜間の時間帯とに分け、それぞれを「日」と「夜」と名づけたのでした(5節)。同時に並び立たたないということが要点です。それほどに光は圧倒的に強いということです。
【実に良い】
「神はその光を見」て、光が闇に打ち勝ったことを認めて、この新しい出来事を喜びます。そして独り言を言います。「実に良い」(キー・トーブ)。このヘブル語表現は、「良かったからだ」とも訳せます。ただしかし、「光が良かったから神は光を見たのだ」という立場は、「光が悪かったら神は見なかったのか」という問いに応えきれないので、難があります。もう一つ「良いということを」という訳もあり、その立場が大多数です。ところが大多数の翻訳「神はその光が良いということを見た」は、構文的・語順的に素直ではない意訳です。そこで無難に「実に良い」という肯定評価の独り言と解します。そう考えると、天地創造物語は「実に良い」の連続です。
この解釈は、わたしたちに物事の見方を教えています。世界は「評価」に満ちています。細かい「指標」が設けられ、採点すること/されることに慣れています。もっと寛容で前向きでありたいものです。嫌なことがあっても「それでも世界は実に良い」という言葉をつぶやくことが希望の源です。
【一日】
天地創造物語の一日目は、「一日」one day(5節)という言葉で締めくくられています。「第二の日」(8節)the second day以下すべて序数が使われているのに、一日目だけは「第一の日」the first dayという言葉が意図的に避けられています。ここに大きなメッセージが込められています。「一日」という言葉は、「とある日」「各々の日」とも解することができます。日常や毎日という意味です。夕があり朝があるということは毎日のことです。明けない夜は無いのです。絶望に打ち勝つ希望が与えられることも、毎日起こりえる出来事です。天地創造の時にだけ光が創られたのではありません。
わたしたちの日常生活の環境がぐちゃぐちゃであることも、何をやっても空回りしたり空しさを覚えたりすることも、しばしば起こりえます。わたしたちが天を仰いで祈っても目の前が真っ暗であることや、心が塞がってしまう不安も、日常的にありえます。世の光イエスは、わたしたちの他愛もなく苦労の多い日常を照らす希望です。一日の苦労は一日で十分。そして、ここで言う一日は明るい後半(昼間)で終わる一日です。
【今日の小さな生き方の提案】
夜から始まる一日という考え方を、おすすめします。それによって朝ごとにぐちゃぐちゃは整理されます。それによって一日はハッピーエンドになり、心の空っぽは満たされます。夕が起これば朝は起こる、闇が覆う時にも神の霊が全体を包んで働き、光が(実に良い光が)、神によって創られようとしています。絶望は必ず希望に変わるというリズムを大切にして、毎日を過ごしてはいかがでしょうか。いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。この希望は、試練・忍耐・練達を旨とする毎日の営みによって、結果として永遠に続くものです。わたしたちの信じている神は、わたしたちの希望を絶望に終わらせない方です。神は大きくのしかかる絶望を、毎日小さな希望に変えてくださる方です。だから神を信じ望み愛することは「実に良い」ことです。
