光をまとい 詩編104編1-12節 2025年12月14日 待降節第3週礼拝説教

【はじめに】

今年の待降節を「光」を主題にして過ごしております。クリスマスが「光の祭典」と呼ばれ、キリストが世の光だからです。旧新約聖書に証言されている「光」に注目することは、天地創造の神に思いを馳せることとなります。神が最初に創られたものが「光」であり、キリスト信仰は毎日わたしたちの心に「光」を創り続けるものだからです。

アドベントクランツのロウソク一つ一つに名前があります。一本目は「希望」、二本目は「平和」、三本目は「喜び」、そして四本目は「愛」です。この四種類の光は、わたしたちの人生になくてはならないものを教えています。ではどのような喜びが人生に不可欠な光なのでしょうか。

本日の詩編は、天地創造の神を信じる喜びを伝えています。喜びは賛美という形を取っております。わたしたちの人生に無くてはならない喜びとは、神を喜ぶこと、神を祝すこと、神をほめたたえること、すなわち神賛美です。

 

1 貴女は祝せ、わたしの全存在〔女性名詞〕、ヤハウェを。ヤハウェ・わたしの神、貴男は非常に大きくなった。名誉と尊厳(を)貴男は着た。 2 外套のように光(で)包みながら、幕のように天々(を)伸ばしながら、 3 その水々の中に彼の屋根裏部屋(を)組み上げながら。雲々と彼の車(を)置いている者。風の両翼の上で滑空する者。 4 諸々の風(を)彼の使者たちになしながら、炎の火(を)彼の奉仕者たちに(なしながら)。 

光をまとう方

 詩編104編は、イエスの時代よりも少し前に年代づけられる発掘物(死海写本群)に、複数出土されています。順番はバラバラですが、とても有名な詩としてイエスも、イエスの弟子たちも知っていたと推測できます。マルコ福音書9章に描かれている「変貌山」の記事は、詩編104編の再現・再演です。イエスの姿が、山の上で真っ白に輝いた、そしてモーセとエリヤと三人で歓談したという物語です。イエスは世界を照らす光であるということを示しながら、同じイエスは、旧約聖書において示された天地創造の神であるということも変貌山は示しています。モーセとエリヤは、旧約聖書を象徴しているのでしょう。モーセは「律法」を、エリヤは「預言者」を代表しています。

1-4節は、天地創造の神「ヤハウェ・わたしの神」がどのような方であるかを説明しています。死海写本の一つは「ヤハウェ・わたしたちの神」としています。わたし個人だけではなく、神はわたしたち共同体全存在によって賛美されるべき方です。「貴男は非常に大きくなった」と、賛美する信徒らが神に向かって言っています。久しぶりに会った親戚の子どもにでも語りかけるような言葉で、何やら不遜な香りもしますが、これで直訳です。毎年エルサレムに神殿に巡礼していた時に、少年イエスは同じように祭司ザカリア・エリサベト夫妻に声をかけられていたのでしょうか。「大きくなったね」。神の子イエスはそのようなかたちで、神と人に愛され、すくすくと成長したのでしょう。

天地創造の神ヤハウェは何を着ているのでしょうか。神が最初に創った「」(2節)で自分の身を「包んだ」とあります。1節にすでに「名誉と尊厳(を)貴男は着た」と書いてあるので、「」は「名誉と尊厳」の言い換え、つまり同じ意味の言葉としてここで用いられています。包むことは着ることです。神のたたずまいが、わたしたちのたたずまいを定めます。人間は神の似像だからです。神は名誉と尊厳という光を衣服として身にまとっておられる方です。イエスという神の子が、名誉と尊厳という、輝く白い衣を身にまとっていたことと重なります。そして、堂々とモーセとエリヤと対等に話し合いをしている姿と、名誉と尊厳という事柄が響き合っています。神は名誉と尊厳を創造の最初の日に創り、自ら毎日それを着ています。そして、神の子たちにその服を被せて、「キリストを着るように」と呼びかけています。

人は名誉と尊厳無しに生きていくことはできません。そして名誉と尊厳とを身につけている人は、どんな境遇にあっても深い喜びをもって生き抜いていくことができます。権威を振りかざして威張る者たちの前でも、「あなたもわたしもただの人(人の子)であり、あなたもわたしも名誉と尊厳を持つ神の子たちである」という態度を取ることができるのです。

光を衣服とする神は、労働者でもあります。ヤハウェは六日間天地創造という労働をし続けています。「天々」「水々」は神の労作です。2節後半から3節に描かれている神は、日々働いているわたしたちと肩を並べている神です。「幕のように天々(を)伸ばしながら、その水々の中に彼の屋根裏部屋(を)組み上げながら」、労働者として神は汗をかいています。

 天地創造の神は、単純素朴に「かっこいい方」です。雲も風も火も、すべて彼の「奉仕者」です。ここで言う奉仕は、礼拝の中のこまごまとした奉仕を意味します。神は礼拝されるべき対象、賛美されるべき対象です。被造物すべてが、神をほめたたえています。そのために被造物は創られたのです。わたしたち人間もそうです。神を賛美するために人間は創造されました。そして、神を賛美する時に、わたしたちも神の似像であること・神のたたずまいを取り戻します。この世界で小さくされているわたしたちが、神賛美によって神を大きくする行為によって、その反射光を受けて大きくなるのです。光を身にまとうことが許されるのです。

 

5 彼は地〔女性名詞〕(を)彼女の基礎の上に据えた。永遠と永久(に)彼女が動かないように。 6 深淵〔男性名詞〕(を)、衣服のように貴男は彼をまとった。その水々〔男性名詞〕は山々の上に立つ。 7 貴男の叱責により彼らは逃げる。貴男の雷鳴の声により彼らは急かされる。 8 彼らは山々(を)登る。彼らは谷の中に下る。貴男が彼らのために据えた場所に向かって。 9 貴男は境を置いた。彼らが渡らないように。その地をまとうために彼らが戻らないように。 

深淵をまとう方

 5-9節もヤハウェによる天地創造の労働が続いています。上の水(3節)と下の水(6節)を分けて空と海を創り、下の水(6節)を一部渇かせて陸を創ったということを概略記しています(創世記1章6-10節)。

ただしかし、原文には大きな困難があります。理解困難な箇所、「解釈の十字架」があるのです。「深淵〔男性名詞〕(を)、衣服のように貴男は彼をまとった。」(6節)という一文です。この一文は、神が深淵を衣服のように身にまとったと言っています。そうだとすると「神が光をまとう」という事柄と矛盾するように見えます。そこで古代以来さまざまな読み替えや翻訳がなされています。「深淵(は)」と深淵を主語にし、「彼を〔男性名詞「深淵」〕」を「彼女を〔女性名詞「地」〕」とし、「貴男は」を無視するのです(新共同訳等)。一文字交換したり、一文字削除したりすれば可能ですが、あまりにも技巧的操作です。ちなみに最古の翻訳ギリシャ語訳は、「深淵は、衣服のように、彼の覆い物」であり、主語を変えながらも原文の意を汲んでいます。

宗教改革の精神は「聖書のみ」。教理・伝統よりも聖書原文です。また、「キリストのみ」。わたしたちにとって聖書を読み解く解釈の基準は、イエス・キリストです。「飼葉桶のイエス」「十字架のイエス」を物差しとして、この難問を解きたいと思います。神は深淵(不気味な存在。人生のどん底を象徴する)に包まれないのか/覆われないのか、深淵を衣服のように着ないのか、という問いに対して、福音書は答えています。光の衣をまとう神の子は、それと同時に、ベツレヘムの真っ暗な家畜小屋において生まれ、産湯にもつかれずそのまま布にくるまれ、飼葉桶の中に寝かされた神の子イエスです。このイエスはエルサレムで名誉と尊厳を剥ぎ取られ、自分の衣服を籤引きで奪われ、茨の冠をかぶせられ、十字架で虐殺され、血まみれのまま亜麻布にくるまれた神の子キリストです。聖書の神は光をまとうこともでき、また同時に、深淵をも着ることができる方、イエス・キリストにおいて示された神です。人生のどん底を経験できる方、受苦可能な方です。わたしたちの苦労に徹底的に伴い、常に弁護し、名誉と尊厳を回復する、インマヌエルの救い主です。

 

10 諸々の泉〔男性名詞〕(を)諸々の川の中に遣わす者。山々の間を彼らは歩く。 11 全ての彼の動物は野(で)飲む。野ロバたちは彼らの渇き(を)砕く。 12 彼らの上にその天々の鳥は宿る。諸々の枝の間より彼らは声を与える。

【永遠の命の泉】

10節に登場する「」「」は、今までの「水々」(3・6節)と異なり「山々」(6・8節)と敵対していません。これらは空や海や洪水ではなく、尽きることなく湧き出る泉、涸れ谷を潤す川です。この水は「野ロバ」や、神の創造されたすべての生き物(「彼の動物」)を活かします(11節)。光ではなく深淵をまとった方は、遠い水を近くの泉に変える方です。わたしたちは渇くたびに雨乞いをする必要は無く、キリストから流れ出る永遠の命の水をただ一度飲むだけで良いのです。つまりイエスを救い主と信じるだけで良いのです。イエスがただ一度十字架で苦しまれ復活されたように、わたしたちもただ一度信じるだけで永遠に渇くことのない水を飲むことができます。

すると賛美が生まれます。永遠の命の泉を与えた方は、信徒に賛美の声をも与えました。与えられた声をもって、「天々の鳥」は喜びとほめたたえの声を、神に与え返します。12節の「」は単数ですが、直後に「彼らは」と複数に変わっています。個人の魂の救いは、共同体の礼拝、そこでなされるわたしたちの神への賛美によって継続されます。「神の支配」(≒教会)という樹の枝の間に巣をつくる人生です。

 

【今日の小さな生き方の提案】

イエスのように光を身にまといましょう。どんな時も名誉と尊厳を保ちましょう。それがわたしたちを生かします。名誉と尊厳を奪われる時にも、十字架のイエスを信じましょう。彼はわたしたちの代わりにわたしたちのために十字架で、わたしたちの苦労を引き受けました。それはわたしたちが神の子の名誉と尊厳を永遠に身にまとうためです。イエスはインマヌエルの神です。そのイエスはわたしたちの隣人たちとも共におられる神です。深淵をかぶせられたり、光を剥ぎ取られたりしている隣人がいるのならば、キリストを紹介しましょう。キリストを着るという生き方に招きましょう。永遠の命を一つの杯から飲み、「イエスは主である」と一つの告白をし、神賛美の声を大きく和して礼拝をしましょう。この喜び無しに人生を生き抜くことができないからです。