全能者よ ヨブ記31章29-41節 2022年2月13日 礼拝説教

 わたしたちの人生には、「生まれる前から与えられた条件」というものがあります。どのような環境で生まれ育つかを選ぶことはできません。与えられた社会の枠組み、社会の規範というものもあります。「この枠の中でこのように生きるべき」という、「見えない型」です。またわたしたちは理由のない苦しみに突然遭うこともあります。「不条理な苦しみに対しては前向きになれば良い」とか「あなたにも落ち度があったのでは」など、かえって落ち込む言葉を投げかけられることもあります。枠組み自体が人を苦しめ、枠組みの中にいる人間同士が苦しみを増し加えさせる時、信徒は問います。神はなぜこの枠を良しとしているのか、神はこの苦しみからなぜわたしを救わないのか。

 聖書を編んだ民はこの問いを不敬/不信な愚問と斥けず、正典の中に組み込みました。ヨブ記の存在です。ヨブ記は主人公ヨブの言葉を借りて「律法至上主義(申命記)」や「上手に生き抜く処世術(箴言)」を批判しています。神に問うことは良いことです。神が直接答えるかどうかは分かりませんが、問うことそのものが人を自由にします。苦難にあって愚直に問う。私の神がなぜ私を棄てたのか。枠組みそのものを問う力、しなやかな精神を信仰は与えます。

 本日の箇所は、家や財産・子どもたち・健康を失ったヨブが、自分自身の潔白を誓う最後の場面です。ヨブの友人たちは、良かれと思って因果応報を説きます。悪事を行ったからその報いを受けているのだと言い募ります。「あなたは神に罪を犯した。だから神があなたを懲らしめた。正直に神に謝れ」。しかしヨブはそのような言いがかりを頑として受け入れません。何も身に覚えがないからです。ヨブの最後の主張に耳を傾けましょう。

29 もしも私が私を憎む者の破滅を喜ぶならば/また悪が彼を見出すことに私が高揚するならば・・・ 30 私は私の口蓋に罪を犯すことを与えない/誓いによって彼の全存在を求めることを(与えない) 31 もしも私の天幕の男性たちが「何と、彼が彼の肉による不満足を与えるとは」と言わなかったならば・・・ 32 通りの中で寄留者は野宿しない/私の戸(を)旅行者のために私は開けている 33 もしも人〔アダム〕のように私の背きを覆ったならば・・・/私が私の胸のうちに私の罰を隠すために 34 なぜならば私は多くの群衆を恐れるからだ/そして氏族の侮りが私を脅かす(からだ)/そして私は黙る(からだ)/私は戸(から)出て行かない(からだ)。 

 ヘブライ語の詩は難解です。本日は「もしも・・・ならば」文を直訳し、結論が明確でないものはそのまま途切れているようにしました。余白は読者が任意に埋めるべきです。「もし・・・ならば」と言いつつ、言外に「いや、そんなことはしたことがない」という意味にもとれます。「決してない」(新共同訳、29・30・31・33節)という翻訳の立場です。29節と30節においては、この説明が成り立ちます。「人の不幸を喜び、敵を呪うようなことはしない。報復などは低劣だ」とヨブが言っているからです。しかし一律に「決してない」という翻訳で良いのかは疑問です。

31節と32節は異なります。31節「もしも・・・ないならば」文の趣旨は、ヨブの天幕の男性たち(召使いたち)が、「全能者が主人ヨブに身体的虐待をした」と言っているということにあります(19章22節参照)。ここは、ヨブが神を批判している言葉です。召使いたちの言葉は正しいのです。それはナオミの言葉と重なります。「全能者がわたしを不幸に落とされた」(ルツ記1章21節)。32節は、「仮に神がわたしに辛く当たっても、わたしはわたしの義を行う。寄留者や旅行者を歓待する」と言っています。ここで振り返って、29節の「私(ヨブ)を憎む者」は、周囲の人ではなく神ではないかという疑念が湧きます。神が自分を不幸にしても自分は神を呪わないとヨブは言います。ヨブは自意識としては、神に憎まれているけれども神よりも高潔な人物なのです。

33節と34節も異なります。33節「もしも・・・ならば」文は創世記3章の物語を下敷きにしています。「人間というものはアダムのように背きや罰を胸のうちに隠したがるものだが私はそうはしない」とヨブは言います。34節には、今までの構文を破って「なぜならば」という前置詞があります。34節を理由として、ヨブは自らの罪を隠さないと言います。自分を脅かす人間社会のゆえに、自分を閉じこもらせ沈黙を強いる、恐るべき同調圧力のゆえに、正にそれに抵抗して自分は自分の弱さすら誇ろうとヨブは言います。33節と34節は、ヨブによる社会の枠組み批判です。個人の存在を脅かす組織そのものが問題なのです。

35 何と、彼が私に与えるとは、私に聞く者(よ)/見よ、私の署名〔タウ〕/全能者〔シャッダイ〕が私に答えるように/私の論敵の男性の書(を)書くように 36 もしも私の肩の上に私がそれを担わないならば、私はそれを私に属する冠(に)縛る 37 私の歩みの数(を)私は彼に告げる/君主のように私は彼に近づく 

 35節「何と、彼が・・・与えるとは」は、31節の召使いたちの言葉と呼応しています。ここでヨブは、全能者である神が身体的虐待を与える方でもあり、また同時に、「私の論敵の男性の書」を与える方でもあると言っています。今までの考察に基けば、「私の論敵の男性」とは全能者である神です。「全能者よ、自分の手で私を打ち私を裁いたという責任を認め、告訴状を書いて署名せよ。私は逃げも隠れもしないですでに署名をしている。わたしは偽証の罪を犯していない(第九戒参照)」と、ヨブは神に挑戦しています。「署名」はヘブライ語アルファベットの最後の文字「タウ」という言葉です。ヨブはアルファでありオメガである神に挑戦しています。

 36節の「もしも・・・ないならば」文は、新共同訳の理解のように、前半の行為も行うし後半の行為も行うという強い決意を示す表現です。ヨブは「それ」を自分の肩にも担うし、自分の頭にもくくりつけるという覚悟を表明しています。問題は「それ」が何を指すかです。「それ」は「署名」か「私の論敵の男性の書」を指すはずです。本日は両者を統合してどちらも指すと考えます。つまり、「神と自分の署名が書かれている、神のヨブに対する告訴状」です。

36節においてヨブは箴言4章9節を念頭に置いています。箴言では、「知恵(処世術)」が冠としてたたえられ、それを自分の頭に縛って生涯離さないことが勧められています。同様に主の「教え」(トーラー)も保持することが勧められます(同2章1節、3章1節等)。それらの社会の規範などが役に立たない苦難が、今やヨブにふりかかっています。それらの規範が、さらにヨブを苦しめます。「あなたには賢さがないから苦難に遭う」とか、「あなたが律法違反の罪人だから苦難に遭う」とかいうレッテル張りの二次被害です。そうであれば社会の規範は不要というだけではなく、有害なものにもなってしまいます。そして深刻なことに正典は社会規範を強めえます。

 「固定化された神の言葉・正典ではなく、神と私が署名した神の告訴状をこそ、私は身に着けよう。それによって自分の潔白を証明し、それによって神の責任を示すために。知恵や律法などの文字が何だというのだ。私の信じる神が私を棄てたのだという、言葉にならない確信。これこそ私の人生をかけて守るべき私の尊厳だ。文字は殺し、霊は生かす。全知全能の神は私の歩みを全て知っているはずだ。知らなかったと言うならば、逐一私の歩みを告げ知らせよう。私の苦難の歩みの責任は神にのみあることを私は常に忘れない。私は神の遭わせた苦難の最中にも、君主のように胸を張って神の前に生きる。」

38 もしも私の土地〔アダマー〕が私に接して叫ぶならば/また共々にその畝々が泣くならば・・・ 39 もしもその実りを銀無しに私が食べたならば/またその所有主の全存在を息絶えさせたならば・・・ 40 小麦の代わりに茨が生え出るように/また大麦の代わりに毒麦が(生え出るように) 41 ヨブの諸言葉は完成した。

 38-40節の二回の「もしも・・・ならば」文は、誓約の定型句と呼ばれる構文です。「もしも自分に○○の落ち度があったならば、××の不利益が生じても構わない」という誓いの言い方が当時ありました。この誓いによって、ヨブのさまざまな主張が締めくくられ、ヨブの諸言葉が完成します(41節)。ヨブは「もしも・・・ならば/ないならば」文を用いながら、少しずつ意味合いをずらしていき、最後の誓いにまで読者を惹きつけていきます。

 38節は創世記4章の物語を下敷きにしています。アダムの長男カインが弟のアベルを殺した時に、「アベルの血が地〔アダマー〕から叫んだ」というのです(創世記4章10節)。38節は殺人の罪という第六戒違反を暗示しています。誰かを殺し自分所有の土地に埋めて隠すようなことをしたならば、自分の土地が呪われても良いというのです。39節はさらに発展して他人所有の畑の収穫について、もしも代金を払わないで食べたならば、自分の土地が呪われても良いというのです。こちらは第八戒や第十戒の違反行為です。40節の茨が生えることによる重労働はアダムが被った罰とも重なります(創世記3章17―20節)。

 これらはみなトーラーの物語です。トーラーが示す罪が自分に見出されるのならば、罰されて構わないとヨブは誓います。「トーラーに違反しておらず、むしろトーラーを守っている義人になぜ不条理な苦しみが起こるのかを説明してほしい。トーラーを与えた唯一の神に説明責任があるはずだ」。「ヨブの諸言葉」(41節)は、この一点に言い尽くされています。ちなみにトーラーの中のトーラーである申命記は、ヘブライ語では「これらの諸言葉」という書名です。ヨブは正典宗教や、唯一神教に果敢に挑戦している「知の巨人」です。

 キリスト教会はヨブの発している問いを教会にも向けなくてはいけません。教会が作る規範は、人を苦しめる場合があるということです。聖書を振りかざして隣人を断罪するようなことがあってはいけません。

 キリスト教会はヨブの発している問いを社会にも向けなくてはいけません。日本社会が当たり前に思っている規範が、人を苦しめる場合があるということです。たとえば「○○らしくあるべき」という短く歪んだ定規です。ヨブという自立した個人は、「自分らしく堂々と生きる」ことの模範です。

 キリスト信徒はヨブの発している問いを、十字架で殺された方と共に発することが求められています。天の神がわたしたちの苦難の責任者であることは十字架の主を通じて明白です。地上を歩いた神の子がわたしたちの苦難を経験されたことは十字架の主を通じて明白です。神の霊がわたしたちの内にあって苦難の呻きに共感されることは十字架の主を通じて明白です。

今日の小さな生き方の提案は、十字架のイエスを人生の同伴者として受け入れ信じるということです。全能者は何もできない死刑囚として無力に殺されました。この出来事によって神は、インマヌエルという性質を徹底的に示しました。十字架の主を信じることによってわたしたちは苦難があるままに苦難と共に生き抜く力を得ます。人生の苦難は孤独な道ではないからです。キリスト信仰はどん底という孤独からの解放です。こうしてわたしたちはヨブのように尊厳と品位を保ちます。無力であってもイエスと共に堂々と立ちましょう。