公正ということ 出エジプト記23章1-9節 2016年2月28日礼拝説教

わたしたちは、「多数決」というものが民主的であると思い込んで生きています。しかし、世の中には多数決になじまない事柄もあります。その代表例は裁判です。もし世論調査を基に多数決で裁判が行われるならば、大手報道の情報操作が判決に大きく影響を与えるでしょう。テレビで「死刑判決キャンペーン」が張られるならば、多数を簡単に形成できるように思えます。「根拠のないうわさ」(1節)には、古代人以上に現代人こそが弱いものです。その時に、冤罪の可能性や、被疑者にも基本的人権があるということなど、重要な点が見過ごしにされる場合がありえます。裁判は、被疑者の人生を左右する重大な場面なので、勝ち馬に乗りたくなる多数決になじまない事柄です。

それゆえに2節は普遍的な真理を衝いています。多数者に追随して悪を行ったり、特に裁判の場面で多数者に追随して判決を曲げたりしてはいけないのです。たいがいの場合、多数者が「権力者」であり、悪人・悪を行う人です。なぜかといえば、賄賂を用いるだけのお金を持っているからです(8節)。この点、貧しい人は判決を捻じ曲げられるなど裁判においても不利な立場になりやすいものです(6節)。そこで公正な裁判は「寄留者(など社会的弱者)を虐げない」(9節前半)という精神に基づかなくてはいけません(22章20節参照)。

そうなると、3節だけが全体の文脈から浮き上がります。「また、弱い人を訴訟において曲げてかばってはならない」という条文よりも、論理的には「強い人をかばってはならない」という正反対の内容の方がすっきりします。おそらく、元々の条文は「強い人g-d-lをかばってはならない」だったと思われます。それが書き写していく間に「また、弱い人w-d-lをかばってはならない」と伝えられてしまったのでしょう。聖書は手写で伝承されたので、このような「書写の過ち」がありえます。

イスラエルの裁判についての考え方は、事実が何であったかの究明に重心があります。事実の究明のためには証言が重要になります。証人がすべて事実を語ることが求められています。証人による偽証が横行すると、冤罪が増えてしまうからです(7節)。この意味で、今日の箇所は第九戒と深く関係しています。「あなたは偽証しないだろう」(20章16節)。それは正しい人を間違えて殺すことのないためです(7節)。冤罪による死刑という現象こそ共同体の自治にとって最低最悪の失敗です。

「あなたは偽証をしないだろう」という神からの期待は、イスラエルがエジプトで寄留者であったという経験に基づきます(9節後半)。エジプトで寄留者かつ奴隷であったヘブライ人たちは、公正な裁判を受けることができませんでした。日本国憲法において31条から40条という全体の十分の一が刑事訴訟について定めているのには理由があります。大日本帝国憲法と治安維持法のもと、不当逮捕・拷問・冤罪が横行したことへの反省があるからです。「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない」(憲法32条)という規定と、今日の箇所は響き合っています。寄留者の気持ちを知っているイスラエルが公正な裁判を求めるのと同じように、全体主義国家・警察国家によって虐げられた経験をした日本住民(寄留者含む)は公正な裁判を求めることができます。

ここでは賄賂の問題性も取り上げられています(8節)。多数決の問題や、うわさ話に影響される問題を解決しても、なお残るのが賄賂の問題です。少数の法律の専門家による冷静な判断も、賄賂によって曲げられる可能性があります。政治家ならば、政策誘導を目的とする賄賂(甘利明前大臣)、さらには企業団体献金が同じ理屈で問題となります。行政官ならば、行政裁量をねじまげる賄賂や、さらには「天下り」が同じ理屈で問題となります。

しかも問題は賄賂だけではありません。裁判官の場合でも人事権が問題となります。自分を任命した人に盾突けないで、任免権者の気持ちを忖度する場合がありえます。一般に、他人を任命したり解任したりする権限を持つ者は、その他人に対して上下関係における力を持ちます。最高裁判所長官の場合でさえ、自分を指名した内閣や任命した天皇に対して(憲法6条2項)、真に公正でありえるかは過去の裁判例を見ると「かなり怪しい」と思います。その他の最高裁判事の任命者は内閣です(同79条1項)。政府の立てた国策に反する判決を書きにくい状況があります。311以前において、原子力行政関連の判決でほとんど原告住民が敗れてきたのは偶然ではないでしょう。日本の裁判官が「ヒラメ(上ばかりを見ている)」と揶揄されるゆえんです。

裁判はイスラエルにとって自治・統治の主たる手段です。sh-ph-tという綴りです。「裁く」という意味ですが、「治める」という意味でも用いられます。「裁く人」という意味の名詞形をショーフェートと言い、日本語では「士師」「さばきづかさ」と翻訳しています。統治者の意味です。「裁判」という意味の名詞形をミシュパートと言います。この言葉は「裁判」だけでなく、「判決」(6節)、「公正」、「正義」をも意味します。裁判を考えることは、この社会が公正であるか、正義に基づいて自治がなされているかを考えることです。

根拠のないうわさ話や、多数意見、偽りの証言など真実味のない言葉に裁判が曲げられるとき、公正さが失われます。裁判官の利害に関することが裁判に持ち込まれるときに、真実の言葉でさえ曲げられ公正さが失われます。以前、「シャローム(平和)は欠けの無い円満な様子」と申し上げました。それとの比較で言うならば、「ミシュパート(公正)は歪みのないまっすぐな様子」と言えます。何事もまっすぐな目で物事を見ることが公正な態度です。まっすぐさを保つためには、外からの圧力に曲げられない強さを持つことが必要です。そして内側からの誘惑に打ち克つ強さも必要です。長いものに巻かれないということと、自分の損得を基準にしないで判断するということです。裁判だけではなく、すべての自治にミシュパートというまっすぐさが求められています。

「公正な裁判とは何か」という枠組み(1-3節・6-9節)から、4-5節の個性的な規定も理解されるべきでしょう。「自分の敵・憎む者の所有する家畜が困っている場合は、相手への悪感情はさておきその家畜を助けなさい」という内容です。イエス・キリストは「あなたの敵を愛しなさい」と言いました(マタイ5章44節・ルカ6章27節)。その言葉に似ている言葉を旧約聖書から探すと、ここしかありません。厳密には「敵を愛せ」ではなく、「敵の家畜を愛せ」ということですが、それでも/それゆえに際立って目立つ条文です。

これは裁判の場面の敵かもしれません。自分が訴えている相手または自分を訴えている相手、裁判で争っている相手同士の話かもしれません。文脈上その推測は素直です。仮に、両者が法廷で憎み合い争い合っていたとしても、家畜には関係ないでしょう。公正という観点から見ると、「それとこれとは別」という冷静な仕分けが必要です。

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という言葉があります。およそ今日の聖句と正反対の精神を表しています。むしろ、わたしたちの感覚は、聖句と正反対のところに共鳴しているように思います。仮にそのお坊さんを憎いと思うほど嫌っていたとしても、持ち物やその他の関連する事柄にまで同じ感情を持つことは不合理であり、公正な判断ではありません。「それとこれとは別」です。

イエスが「敵を愛せ」と教えたのは、4-5節を基にした解説であったのではないかと推測します。そしてその具体的説明のための譬え話が、「良いサマリア人の譬え」だったのではないかと、さらに推測します(ルカ10章25-37節)。この譬え話の中では、倒れているのはユダヤ人男性という人間です。家畜ではありません。そして助けるのがサマリア人男性とそのろばです。サマリア人から見ればユダヤ人は憎んでも憎みきれない敵です。ユダヤ人から民族差別(純血主義に基づく)を受けていたからです。サマリア人はユダヤ人を見て可哀想だと感じ助けようとします。すぐに彼は相手がユダヤ人であることに気づきます。しかし「それとこれとは別」という公正な判断をして親切をします。

ちなみに、サマリア人も創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記という構成の「五書」を聖書として用いていました。独特の修正を施しているので「サマリア五書」と呼びますが、それを中心に「サマリア教団」を形成し今日に至っています。ユダヤ人からの差別は民族主義だけではなく、「正統」から「異端」への宗教差別でもありました。ともかく出エジプト記23章4-5節をサマリア人もユダヤ人も知っているということが、譬え話の隠し味です。

相手が困っているならば家畜だけではなく人間に対しても利敵行為を行いましょうということが、イエスの言う「敵を愛する」ということです。地上での争いと別の次元があるからです。家畜のいのちや人間のいのちが損なわれる場合には、敵対関係は吹き飛んで構わないと考えるわけです。冤罪による死刑も最悪ですが、無関係な者たちのいのちが争いごとに巻き込まれ損なわれることも、共同体の自治にとって最低最悪の失敗です。これも公正に反するのです。

先週は、神が恵みに富む(ハンヌーン)愛の方であることをお話しました(22章26節)。この愛は、公正(ミシュパート)という正義と切り離すことができないものです。社会的弱者への偏愛は(22章20節・23章9節)、社会的強者に傾きがちな天秤を逆側に傾けようとする判断に基づくものです。この冷静な判断を公正と呼びます。民族的大義と憎悪感情に従えば、サマリア人は倒れているユダヤ人を助けるべきではありません。しかし、公正という観点に立てば、共感し助けることが求められるのです。この意味で愛は技術です。憐れみ深い優しい性格の人だけができる先天的なことがらなのではありません。すべての人が身に付けることのできる後天的な技です。

イエス・キリストの十字架刑死は、不公正な裁判によって引き起こされました。根拠のないうわさ話・多数者や権力者に追随する偽証によって、「罪なき人・正しい人」が殺されたのです(7節)。裁判官であるローマ総督ピラトは、ユダヤ人権力者たちの死刑請求に対して「それとこれとは別」と判断し、無罪判決を用意していました。しかし任命者であるローマ皇帝への告げ口を恐れて、判決をねじまげました(ヨハネ19章12節)。

この最低最悪の冤罪事件はわたしたちの罪を教えます。嫌になるほどにわたしたちと同じ人間の醜さです。しかし十字架は同時にわたしたちに罪からの解放も教えます。新しく生まれ変わりたいと望む人に復活のイエスの霊・息・風が吹き込まれます。イエスは自分を殺した者にも永遠の命を与えます。殺した者を憎むことと、神の愛を教えることは別だからです(サマリア人の譬え)。実は、わたしたちの罪深い生き方とは別に、2000年前から常に敵を愛する風は吹いていたのです。愛の息吹に気づくことが、信仰を得るということです。

今日の小さな生き方の提案は、愛の息吹を吸い込んで(神に愛されているという恵みを認めて)、公正さを身につけて新しく生まれ変わることです。「それとこれとは別」という冷静な物差しを持って生きることです。そうすれば愛の無い者にも敵を愛することが行えるようになるでしょう。信仰は「熱狂」や「狂信」ではありません。公正を身に付け愛という技術を獲得することです。