初めに言が ヨハネによる福音書1章1-5節 2023年11月26日礼拝説教

1 原初において、その言葉〔男性名詞〕あり続けた。そしてその言葉は、その神のもとにあり続けた。そしてその言葉は神であり続けた。 2 これ〔言葉〕は原初においてその神のもとにあり続けた。 34 全てのものはそれ〔言葉〕によって生じた。そしてそれ〔言葉〕無しには一つも生じなかった。それ〔言葉〕において生じたものは生命であり続けた。そしてその生命はその人間たちの光〔中性名詞〕あり続けた。 5 そしてその光はその闇において輝いている。そしてその闇はそれ〔光〕を捕まえなかった。

 クリスマスは光の祭典とも呼ばれます。その理由の一つはクランツに蠟燭を灯す伝統にあるでしょう。またキャンドルサービスを行う伝統に由来することでしょう。光の祭典という伝統は、おそらく本日の聖句に由来するのだと推測します。いわゆる「ヨハネ福音書版クリスマス物語」です。マタイ福音書やルカ福音書のような誕生物語はありませんが、ヨハネ福音書には独特のクリスマス物語があると言われます。すなわち「イエスは原初の昔から神のふところにいる神の独り子なのだ」(18節)という言葉に、クリスマスの意義が語られているというのです。この言葉は、有名な3章16節と呼応しています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、この世を愛された。」クリスマスとは、神が神の子をこの世界に贈与したという意味を持っています。

 今申し上げたことは全くその通りなのですが、その筋道だけではない小道を本日は申し上げたいと思います。回り道をしてから、再び本筋に戻って改めてクリスマスの意味を捉え直していきたいと思っています。それは、バプテスマのヨハネという人物に注目するということです。

 最古の福音書であるマルコ福音書にはクリスマス物語はありません。マルコは(そしてパウロも)、イエスの誕生物語(いわゆる「処女降誕」と呼ばれる部分も含めて)全く興味を示していません。ということは、キリスト教会発生後30年ぐらいはクリスマス物語が存在しなくても、「イエスは主」という信仰が成立していたということです。なぜならばイエスの十字架刑死と三日目の復活こそが信仰の中心だったからです。クリスマス物語は、ナザレのイエスの活動の「前座」でしかありません。

 イエスの活動の「前座」という位置づけが、クリスマス物語とバプテスマのヨハネの共通点です。マルコに始まる全ての福音書は、イエスの活動の前にバプテスマのヨハネの活動があったことを共通して証言しています。最初期の教会にとって、解きがたい難問がありました。それだからこそどうしても文書的に説明しなくてはいけない事柄です。つまりヨハネという人物を教会の信仰の中に位置づけることです。「イエスが主であるとすれば、イエスとの関係でヨハネは誰なのだろうか。」という問いに対する回答です。

というのも、ヨハネがイエスにバプテスマを施したことは、当時の人ならば誰でも知っている事実だからです(マルコ1章9節)。わたしたちのバプテスマと同じように考えるならイエスはヨハネ教団に入会したことがあるのです。言い方を変えると、イエスがヨハネの弟子となったことがあるということです。イエスとヨハネの「上下関係」はどうなるのでしょうか。

 本日の聖句、しばしば「ロゴス(言葉/理性の意)賛歌」などと呼ばれるこの聖句は、もともとヨハネ教団の賛美歌、師ヨハネをの言葉を「生命」「光」と讃える詩だったのだという学説があります。説得力があります。もともとヨハネの弟子だったアンデレとペトロの兄弟は、ロゴス賛歌を知っています。他にもヨハネ教団と関係の深かったキリスト者は大勢いたことでしょう。両者の間に行き来があります。ヨハネ教団に近い信徒らがヨハネ福音書を編纂するにあたりロゴス賛歌をイエスに当てはめたという文書作成過程はありうる想定です。この推測は、1章全体の文脈にもかないます。「ヨハネ」が「光」ではないと唐突に6-7節で語り、飛んで19節からヨハネという人の物語が始まるからです。イエスという名前が登場する前にヨハネが登場する理由は、ロゴス賛歌がヨハネに対する賛美歌であり、そのことを知っている人々に向けて、それを真っ先に否定する必要があったということでしょう。福音書は、ヨハネへの賛美をイエスへの賛美に「上書き保存」したのです。

 ちなみにヨハネ福音書においてロゴスという単語は、普通名詞ではない固有の人間を指すという特別な用法では、1章にしか登場しません。著者ヨハネたちの信仰にとって、「イエスがロゴスである」「ロゴスは創造主である」という抽象的哲学的概念はそれほど重要なものではありません。わたしたちの教会にとってなくてはならない考え方も、「イエスが十字架で殺され三日目に神によみがえらされた神の子である、主である、キリストである」という信仰です(使徒2章36節、Ⅰコリ15章3-7節)。

 四つの福音書は共通して、イエスが開始した「神の国運動」が、バプテスマのヨハネ教団の支流として始まったことを、曖昧な形で証言しています。イエスはヨハネとの決別のしるしにバプテスマ執行をしないで仲間を増やしていきました(ヨハネ4章2節)。断食をせず食卓に招くという形です。ところが、神の国運動が「ユダヤ教ナザレ派(キリスト教会)」に継承された時に、ペトロたちはバプテスマを執行し、同時に食卓にも招いて仲間を増やしていきます(使徒2章41-42節)。初代教会はヨハネを改めて位置づけたのです。

 川の上流下流の関係で言えば、ヨハネが上流・イエスが下流。時間的前後関係で言えば、ヨハネが前・イエスが後。先後関係(優先劣後関係)で言えば、イエスが先・ヨハネが後、なぜならば後の者が先になり、先の者が後になるからです。だから上下関係で言えば、イエスが上・ヨハネが下となります。こうしてヨハネはイエスの登場前の「露払い」として「荒野で叫ぶ声」となります(イザヤ40章3節)。荒野で叫ぶ声という位置づけが、全ての福音書でなされていることは驚くべき一致です(マルコ1章2節・マタイ3章3節・ルカ3章4-5節・ヨハネ1章23節)。こうしてヨハネは、メシアの前に登場する「エリヤ」となり(マラキ3章23-24節)、イエスの半年前に生まれた親戚となってクリスマス物語に組み込まれます(ルカ1章)。

ヨハネは光(キリスト)ではないのだけれども、光を指さす偉大な先駆者となります(ヨハネ1章)。そしてイエスの十字架刑死を予感させる先駆者として、投獄され処刑され、弟子たちによって埋葬されます(マルコ6章14-29節)。「悔い改めのバプテスマを受けよ」という、荒野で叫ぶ声は抹殺されました。しかし、その叫びは形を変えて教会の中で息づいています。神の国運動という分派を経て、教会が誕生した時に、ある種の合流がなされています。イエスの活動の前にどうしても必要なものがある。ヨハネによるバプテスマです。キリスト者・教会員となる前にどうしても必要なものがある。イエスの名によるバプテスマです。ここで言うバプテスマとは、日常繰り返される諸々の罪を懺悔し悔い改めるという意味だけではなく、ただ一度十字架の殺害と復活の永遠の生命を受け取ること、十字架と復活を象徴し追体験する儀式です。教会はヨハネの実践を、新たな意義を加えて復活させました。

荒野で叫ぶ声ヨハネを指していた言葉が、キリストを指す言葉に転じたという過程に着目して、本日の聖句を見直してみましょう。1-4節に何回も繰り返される単語が二つあります。「言葉」と「あり続けた」です。「言葉」には1節の初出の時から冠詞(英語のtheと同じ)が付いています。ヨハネ教団が前提している師ヨハネの「その言葉」と解します。荒野で叫ぶヨハネの声が、原初の時から響き渡っていて、人間に向かって「あなたはどこにいるのか」「あなたの兄弟はどこにいるのか」と人間社会に悔い改めを求めています。その言葉は人間社会を照らす光です。「私は知りません。私が兄弟の番人でしょうか」と強弁する「人間たち」を照射する光です。人間たちへの言葉は、さらに展開して全ての生命を育む力・守る力です。人間だけが生態系を壊し、他の被造物を脅かしているからです。悔い改めた人間たちは神の創造の業に改めて参与できます。神が「極めて良い」と評価している世界に、「荒野」を復元する仕事に立ち返ることができるのです。

二つ目の言葉は「あり続けた」。英語でいうBE動詞が、英語にない未完了過去時制で記されていることを言い表した、下手な直訳です。未完了過去は、過去の一点から別の過去の一点まで継続している動作を示します。軽い意味で「~であった」「なのだった」ぐらいが丁度良いとは思います。しかしここまで繰り返されているのですから、鍵語として意味を読み取る必要があるでしょう。過去の一点から別の過去の一点とはどこなのでしょうか。

1節の「原初において」と言われる天地創造の時という一点から、4節の「その生命はその人間たちの光〔中性名詞〕あり続けた」までが未完了過去で語られています。ロゴス賛歌はヨハネの死を大前提にしているように読めます。荒野で叫ぶ声ヨハネが死ぬまで、彼の言葉は生命であり光であり続けたということを言いたいのではないでしょうか。「人間の悔い改め」は世界の始まりから、ヨハネの死まで命の言葉だったと褒めたたえていたのでしょう。

5節だけは時制が異なります。「その光はその闇において輝いている」は現在時制、現在進行しつつある出来事も表現します。「その闇はそれ〔光〕を捕まえなかった」は単純な過去、ただ一度起こった出来事を表現する時制です。この5節は、キリスト信徒たちの付け加えのように思えます。6節から始まる「ヨハネは光ではなく、イエスこそが光である」という主張の前触れです。ヨハネは悔い改めない者たち、つまり「」(ガリラヤの領主ヘロデ)に捕まって殺されたけれども、イエスは闇に打ち勝って真っ暗闇の墓穴の中から朝日を浴びてよみがえらされたという主張です。ローマ帝国軍もイエスを捕まえきれなかったのだし、真の光は今も悔い改めない者たちの只中で輝き続けています。なぜか。イエスの放つ光は、「人間たちは悔い改めよ」という言葉だけではなく、「神は愛だ」という言葉も含んでいるからです。神に近づく悔い改めも大事だけれども、イエスの到来とともに神が人間に近づいていることも大事なのです(マルコ1章15節)。荒野で叫ぶ声に優る福音です。

神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。(3章16節)

今日の小さな生き方の提案は、到来しつつある神の愛を受け取る準備です。これこそ待降節Adventの心構えではないでしょうか。ラテン語Adventum到来に由来します。クリスマスは闇の世に向かう神の子の到来です。拒否されることを知っていてあえてイエスは神の愛を体現します。あなたも同じ人の子・神の子だと、特に人間扱いされない人々に伝えます。世界の闇は変わりませんが、しかしこの光は闇の中に輝き続けています。この一方的な愛を拒否せずに受け取り復活しましょう。悔い改めて荒野に平らな道をつくりましょう。