勇気を出しなさい ヨハネによる福音書16章25-33節 2014年7月27日礼拝説教

今日の聖句も含め、ヨハネ福音書15-17章の多くの部分は、元来の著者ヨハネの言葉ではなく、著者の言葉に付け加えた人の筆によるものです。付け加えた人は恐らくヨハネの手紙一の著者と同一人物ないしは同一教会の人々です。便宜上「ヨハネ教会の人々」と呼びます。Ⅰヨハネ5:4-5と、33節の類似は決して偶然ではありません。同じ思想を持った人々がこの部分を書いたのです。そしてこの人々はマタイ福音書の一部に影響を受けています。図式的に言うと、マルコを知っている著者ヨハネの原著作に、マタイを知っているヨハネ教会の人々が付け加えているという関係です。

「付け加え部分は聖書としての価値が劣る」ということを言いたいわけではありません。より古いものに価値があるというのは、史実を突き止めたいときのルールです。信仰の書である聖書を読む際には、元来の言葉にも付け加えられた言葉にも、それぞれに意味があります。付け加えるという行為そのものにも重要な意義があります。それこそ聖書の本質に触れる意義です。

古代の世界です。著作権などありません。そして教会という集団です。ヨハネ福音書は、元来の著者ヨハネのものではありません。教会員みんなのものです。みんなで育てて、みんなで行う礼拝に用いやすくしていくものなのです。旧約聖書の成り立ちも含め、「正典canon」というものは、このようにして大きくなっていきました。ユダヤ人たちの伝統で、彼ら/彼女らはすでにあるものを削ることをほとんどしませんでした。むしろ、付け加えました。せいぜい校正をするぐらいで、文章量を減らすのではなく増やしていきました。聖書が今ある分量にまで大きくなったのは、この積極的な付け加えと、付け加えを認める信仰共同体の態度に原因があります。聖書の民は、聖書を自分の時代や生活に適うように常に解釈し、解釈を書き加えていこうとした人々なのです。この伝統に、礼拝の説教も位置づけられます。

先週取り上げた終末論も元来の著者には無い思想です。それに対して、後にヨハネの教会の者たちが付け加えていき、福音書に多彩な色が加わることとなりました。言い換えれば、さまざまな人のイエスについての思い出や言い伝え、キリスト信仰の告白表現(イエス理解、福音理解)が、一つの福音書の中にも新約聖書全体においても重層的に折り重なっているということです。ヨハネの場合は同じ著作の中に紛れて付け加えがあります。マタイ・ルカの場合は、別の著作にすべくマルコに対する付け加えを行ったということになります。紀元後4世紀まで、この「正典化運動canonization」は続きました。

わたしたちはこの付け加え部分を読むにあたって、付け加えた人々の信仰を推測し、その人たちの考えに共感し、その信仰態度にまなびたいと思います。著者ヨハネ――ヨハネ教会の人々――マタイ福音書の三角形を意識した聖書の読みです。そうしてわたしたちも、自らの解釈によって付け加え行為をし、その解釈を自分の生き方で示していくことが求められているのです。

ヨハネ教会の人々は、マタイ福音書を読み、著者ヨハネの書いた原著作に不満を感じました。それは教会の実践では「イエスの名によって集まり祈る」(マタ18:19-20)ことをしているのに、原著作にその意味が強調されていないからです。23-26節は、「求めなさい。そうすれば与えられる」というマタイ福音書の言葉を膨らませて引用しています(マタ7:7)。中間の時代にあって、教会では聖霊によりイエスの名を通して神へ祈るという三位一体の信仰が勧められます(マタ3:16-17、28:19)。

このイエスの名によって祈る行為は、信者を自立させていく力となるので有益です。生身のからだのイエスは教会の中にいません。イエスがヨハネ教会の人々の代わりとなって、神に祈りの代弁をすることはありません。みんな自分の言葉で祈らなくてはいけないのです(26節後半)。ここにパターナリズム(庇護主義)の克服が勧められています。

イエスは神の愛を教えるため、からだで示すために、神から遣わされてこの世界に来ました。その役目を終えたら、再び神のふところに帰っていきます(28節)。神の愛を教えるということは、「あなたは神に直接愛されている」と伝えることです。神の愛を示す行為とは、サマリア人女性にユダヤ人男性が語りかけることや、目の見えないことで不利益を受けていた人々を人間として尊重する行為です。「神は直接あなたを愛している」。イエスはすべての人にそのことを示しました。愛の神/神の愛という真理を知ってしまった以上、生身のイエスから愛されたり保護されたりする必要はありません。ただ、イエスの名だけ忘れなければそれで良いのです。

神はアッバ(お父ちゃん)です。無条件に愛されていることを知っている子どもは素直に何でも求めるものです(マタ7:9-11)。それは当然お仕着せの型にはまった言葉ではなく、自分の本心からの言葉・自分の頭で考えた言葉になるはずです。ただ、この無条件の愛を教えてくれた恩人の名前を忘れてはいけません。だから、イエスの名によって祈ることが勧められます。これは毎日の信仰告白の行為なのです。マタイを知りながら「主の祈り」(マタ6:9-13)という定式を重視しないヨハネ教会の人々の選びは興味深いものです。

 

ヨハネによる福音書はたとえ話が極端に少ない福音書です。25節でイエスは「たとえを用いて話してきた」という割には、実は10章までさかのぼらないとたとえは出てきません。こういったところにも、今日の箇所の「付け加え感」が出ています。そして10章だけがこの福音書の中のたとえ部分です。むしろ、ヨハネ福音書は全編にわたって「たとえによらず、はっきり神と神の子について知らせている」と言えます(25・29-30節)。「こんにゃく問答」が多いにせよ、ここまで「イエスが神の子だ」とはっきり書いている福音書はありません。

たとえ話に対する否定的態度は、著者ヨハネもヨハネ教会の人々も共有しています。ここにはマルコ・マタイに対する批判が込められています。「たとえ」と訳されている単語も、他の福音書とは別の単語を用いるほどです。ヨハネ福音書は「たとえ話の名手としてのイエス」を重視していません。その一方でヨハネは、おそらくイエスの口癖であった「はっきり言っておく(直訳:アーメン、わたしは言う)」を忠実に継承しています。ヨハネの信じるイエスは自分の信念を明確に告げる方なのです。「わたしはある」(エゴー・エイミ)という明瞭な態度と、たとえ話で婉曲かつ曖昧に語る態度とは相容れません。

 

さて、31節には「今ようやく信じるようになったのか」というイエスの皮肉たっぷりな疑問文があります。ここはルターなどに倣って平叙文(単純な肯定文)と採った方が良いでしょう。古代の写本にはクエスチョンマークが無いので、どちらも解釈可能なのです。「あなたたちは今信じている」とイエスは弟子たちを評価していると読むべきです。イエスは「あなたを信じています」と告白する弟子に「信じていますね」と相槌を打っているという理解の方が優しい読みです。このように一旦優しく受け止めてから、本題に入っていくわけです。

「人は群れで育つ。ここに信頼のネットワークがある。しかしこの仲間の中であっても人は独りで生きるものだ。さらに突き詰めれば決して独りではない。神が共に居るのだから孤独ではない。そして神はこの群れの真ん中に居て、群れと共に旅をする神だ。この神を信じるようにと信頼のネットワークはある。」このような「良い循環」というバランスの良さこそ32節の言いたいことです。

ここにはより良い人生のヒントが示されています。神を信じることは良い人生をもたらします。なぜかと言えば、人間社会においてバランスを保って生きることができるからです。それは個と交わりという両極のバランスです。一人で生きることが好きな人は交わりの中に入った方が良いし、人付き合いの好きな人は独りの時間を確保した方が良いものです。人が独りで生きるのは良くないのですが、誰もが個人として生き方を確立すべきです。人は交わりの中で育つものですが、個性が埋没されたり、匿名の大衆となったりするべきではありません。集まる必要もあり、散る必要もあるのです。一体となるべき時も、逆にばらばらになるべき時もあります。個と交わりにはバランスが必要です。

神はわたしたちが孤独で寂しい時に共に居てバランスを与えます。神はわたしたちが集団に埋没している時に名前を呼んで救い出しバランスを与えます。わたしたちは週に一度集まり散らされます。それは神信仰によって、自分の人生に良い循環と絶妙のバランスを与えてもらうための行いです。

 

この両極を持つということが33節にかすかにつながっていきます。わたしたちは神を信じるときに平和を持ちます。その一方で、同時にわたしたちは神を信じるときに苦難も持ちます。原文では、この「平和を得る」も「苦難がある」も、同じ「持つ(エコー)」という動詞です。信者は実生活の中で、平和と苦難という両極を持ちながら歩んでいます。

ヨハネ教会の人々は迫害に直面しながら、終末論を原著作に付け加えていきました。そうでないと教会の交わりが危機に瀕していたからです。信者一人一人が希望を持たなくなってしまっていたからです。マルコ・マタイに書かれている世の終わりの勝利を、ヨハネ福音書にも採用したかったのです。十字架・復活は世の終わりの勝利の先取りであり、聖霊降臨は世の終わりの手付金なのです。その将来の希望によって、教会という船は前へ進むことができるのです。

「勇気を出しなさい(サルセオー)」という単語は、マコ6:50にも登場します。逆風に漕ぎ悩む舟にイエスが乗り込まれた途端に風が静まり、無事に対岸にたどり着くという物語です。ここでイエスは「わたしだ(エゴー・エイミ)。恐れることはない(サルセオー)」と弟子たちに語りかけます。世間による迫害がこの逆風と同じです。弟子たちが乗り合わせ、生身のイエスが乗り合わせていない舟が教会と同じです。生前のイエスがいるならば、舟に乗り込み庇護してくださることでしょう。しかし、そうではない今、わたしたちは前方からの語りかけに耳を澄ませて前へ進まなくてはいけません。「勇気を出しなさい」。この言葉の元々の意味合いは「あえて~する」というものです。ヨハネ教会の人々は原著作の「こんにゃく問答」的な生き方の勧めを批判しています。イエスを神の子と告白するなら前へ歩く姿勢が必要だと言いたいのです。

 

今日の小さな生き方の提案は、「勇気を出して、恐れないで、あえて何事か新しいことをする」ということです。お店で新奇なメニューを頼んで失敗する場合もありますが、今までのことにこだわらない態度は立派です。そのような態度を、「悔い改め」とも「新生」とも言うのです。マルコはあえて福音書という分野を創設しました。ヨハネはあえて自分の福音書を創りました。ヨハネ教会の人々はあえて付け加えてより豊かなものにしました。あえて何かをするという精神性をもって、一週間を始めたいと願います。