十戒の前文 出エジプト記20章1-2節 2015年11月8日礼拝説教

今日から「十戒」のシリーズです。ユダヤ教徒にとってもキリスト教徒にとっても重要な部分です。新約の「主の祈り」と旧約の「十戒」は、共に暗唱されるほどに大切に伝承されてきました。その中でも、今日の箇所は二つの意味で重要です。一つは、この箇所が「前文」であるから重要です。もう一つは、この箇所が「第一の言葉」であるから重要です。

一つ目の重要さは、憲法の前文を考えるなら推測できます。日本国憲法は103条からなります。その冒頭に前文があります。前文は条文の一種ですが、それと同時に、すべての条文の物差しでもあります。その他の条文の意味が曖昧であったり、どのように解釈すべきか困ったりする場合に、前文を基準にして判断しなくてはいけないのです。

たとえば、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し」と憲法前文にあります。これを物差しにすると、憲法9条の戦争放棄とは、政府に戦争を始めさせないことなのだということになります。漠然と、「わたしたちは戦争を放棄した」というよりも、意味が明確に限定されます。前文は、条文全体の解釈の方向性を定めるものです。日本国憲法は立憲主義(主権者が権力を縛るために憲法を用いるという考え方)を明確に打ち出した近代憲法です。

十戒の前文にも同じ働きがあります。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(2節)。これは自己紹介です。この自己紹介は三つの部分から成ります。

一つ目は「わたしは主(ヤハウェ)」、二つ目は「あなたの神」、三つ目は「あなたを・・・導き出した」という部分です。この三つの部分は一つのことがらを言っています。神は救い主だということです。しかもその救いは無条件の救いであり、神の一方的な恵みだということです。

ヤハウェの意味は、「彼は成らしめる」です。無とみなされている者・小さくされている人を、神は「わたしはある」という存在に高めます(3章14節)。奴隷であったイスラエルを、名前を持つ個人の自由人にしたことは、神の名前に根拠があるのです。ヤハウェという名前にふさわしい救いです。名前の紹介は、救いを思い出させる効果をもたらしています。神の自己紹介は、モーセに対する一方的な語りかけです(20章1節)。神が率先して自分の名前をあげて行った自己紹介に影響され、ある意味の反射的効果で、わたしたちも率先して自分の名前をあげて自分の意見を言える個人となります。

この救いは、ヤハウェが「あなたの神」となることでもあります。信者一人ひとりといつも共に居るという救いです。聖書の神は場所に固定されません。むしろ人・民と固く結びつく神です。だからわたしたちがどこに居ても共におられるのです。この安心感が救いです。

特に自分自身が窮地に陥り困っている時に、神はそこから脱出させてくれます。それは抽象的な心の問題(安心感)だけではありません。「エジプト」という固有名詞が用いられているように、わたしたちの具体的な生活の場での窮地からの救い(安全)です。

聖書の神の救いは、個人の意思を強く確かなものにすること・神が常に共に居るという安心感を得ること・困ったときに何らかの方法で神に助けられることという三重のことがらです。救いとは、尊厳・安心・安全が与えられることです。前文はそのことを示しています。

このような無条件の救いという前文が、これから一つずつ読み進めていく十戒の解釈の方向性を定めています。つまり、十戒は十の戒めではないということです。しなくてはいけない義務や、絶対的な禁止命令ではありません。そうではなく、救い主の恵みに対して「反射的にせずにおれない行い」であり、「自然に身に付いてしなくなるような行い」です。前文が前文としてあるために、わたしたちは十戒を、この方向で解釈しなくてはいけません。実際聖書の中には「十戒」という単語はありません。「十の言葉」としか言われていません(34章28節・申命記4章13節・同10章4節の「戒」の字は意訳)。

今まで申し上げたこととのつながりから、第二の問題に進んでいきます。今日の箇所が前文でもあり「第一の言葉」でもあるということです。2節から17節までをどのように十の言葉として区切るのかは、ユダヤ教とキリスト教で異なります。キリスト教の中の教派によっても異なります。バプテストを含め西方教会は、2節を前文として切り離し、3-17節を十に区切ります。2節を前文として切り離さない教派もあります。たとえば2-3節をまとめて「第一の言葉」とする東方教会の立場です。そしてユダヤ教は、2節を「第一の言葉」と理解し、3-6節を「第二の言葉」と考えます。

もし2節が第一の言葉ならば、まったく戒めの要素がありません。神が「自分は救い主です」と自己紹介しているだけの言葉だからです。この言葉は人間への命令をまったく含んでいないのです。2節を第一の言葉とするユダヤ教徒たちの理解は、わたしたちに重要なことを教えています。それは、まずわたしたちが覚えなくてはいけない第一の言葉が、人間の行いではないということです。「あれをしてはいけない」「これをしなくてはいけない」という言葉を覚える前に、わたしたちは最初に神がわたしたちの救い主であることを覚えなくてはいけないということです。人間の行いよりも、神の行いが大事だという主張が、ここにはあります。第一ということは単に順番が早いというだけではなく、重要度においても第一であるからです。

このユダヤ教徒の教えにわたしたちは耳を傾けるべきです。なぜかといえば、彼ら彼女たちの理解の方が本来の考え方であった可能性が高いからです。東方教会が折衷的に「前文を含むものを第一の言葉としている」ことは、元々の理解が徐々に変化した跡付けになるでしょう。地理的にもこの理解の変遷はうなずけます。東から西へと、第一の言葉から前文へと徐々に変わっていったのでしょう。だからやはり、十戒ではなく十の言葉と理解することが良いのです。第一の言葉が少なくとも戒め(命令)ではないからです。ついでに予告的に申し上げれば、その他の言葉の中にも戒めではないものがあるというのが、わたしの理解です。

十戒の全体はとても倫理的です。人間の生きる道を教えています。そのことの意義は現代においていささかも薄れることはありません。そのままで十分に通用する教えです。人には倫理が必要です。良心が必要です。わたしは様々な場面で政治的な意見表明をします。それは、聖書とキリスト教信仰が、倫理を課題としているからです。また、「世界を創り歴史を導く神が関わらない領域はない」という信仰を、聖書と教会が共有しているからです。「この世界でどのように生きるべきか」「与えられたいのちを十全に輝かす、より良い人生とは何か」ということは、ここに集まっているすべての人の関心事です。毎週、小さな生き方の提案をお出ししているゆえんです。それは倫理的な生き方のすすめです。

しかし、それでも倫理は第一の言葉ではありません。第一の言葉は、神の名前であり、神の救いです。尊厳・安心・安全が無条件に与えられているという事実の確認が、第一の言葉です。なぜなのでしょうか。

そうでなくては、わたしたちが勘違いしてしまうからです。何か善い行いをすれば、自分が上等な人間になれるかのように誤解してしまうからです。自分の尊厳が他者に対する傲慢になってしまうかもしれないからです。自分の安心が他者を脅かす態度になってしまうかもしれないからです。自分の安全が他者に対する危害を加える行為になってしまうかもしれないからです。自分の善い行いによって「ご立派な人」に成り上がってしまう人は、第一の言葉を忘れています。神がただで救ったという恵みを忘れています。

「お互いが罪赦された罪人に過ぎない」ということを忘れたり、軽視したりすることは、わたしたちから敬虔さと謙虚さを奪います。こうして2節を第一の言葉とするユダヤ教徒の理解は、ルターの解く「恵みのみ」「キリストのみ」という主張に、ブーメランのようにして重なることとなります。

もう一つユダヤ教の伝統を紹介します。英語を使うユダヤ教徒のための聖書があります(Tanakh, The Jewish Publication Society, Philadelphia)。2節を次のように訳しています。I the LORD am your God who brought you out of the land of Egypt, the house of bondage.「わたし主が、あなたをエジプトの地・隷属の家から導き出した、あなたの神である」。この翻訳の強調点は、「わたしがあなたの神である」と神が語っていることです。ヘブライ語にbe動詞がないのでこの翻訳もありえるし、関係代名詞も適合しています。

この第一の言葉はモーセとアロンだけに語られたのでしょうか。文脈上は、シナイ山のふもとにモーセ他民全員が居るように思えます(19章25節、20章19節)。十戒だけは神が直接民全員に大きな声で語りかけたように読めます。「わたしヤハウェがあなたの神だよ」と、第一の言葉を一人ひとりが同時に聞いたのです。英訳では曖昧ですが、日本語訳にあるように、「あなたの神」の「あなた」は単数です。19章5節で「あなたたちはわたしの宝」と複数で言われていることと異なっています。神は個人に絞り込んでいます。

神が個人の神となることは、創世記ではお馴染みの光景でした。アブラハムの神/サラの神、イサクの神/リベカの神、ヤコブの神/レアの神/ラケルの神と同じ、モーセの神/アロンの神/ミリアムの神と、ヤハウェはなりました。イスラエルの民一人ひとりの神となったのです。どこに旅しようと、個人と離れない共なる神・友なる神です(3章12節。創世記26章3節・31章4節も参照)。

さきほどはこの救いを、安心感と呼びました。尊厳・安心・安全の真ん中です。尊厳と安全は、すぐに実現できるかどうか分からない救いです。差別や貧困がある限り、将来に関わる救いです。しかし、この安心だけはすぐに実感できる救いです。主観のみで実現できるからです。狭い意味の宗教的救いとは、この安心感のことを指します。

霊である神は、一人ひとりと常に共に居られます。天から山のふもとに稲妻のように降った言葉でしたが、イスラエルの一人ひとりに届く言葉でした。「わたしはあなたの神、あなたとずっと一緒にいる、あなたの心に宿る」と言われたからです。これは上から下へ降る恵みの言葉でした。

今日の小さな生き方の提案は、「わたしはあなたの神だ」というキリストの語りかけに素直に「アーメン(その通り)」と答えることです。この言葉に安心感を与えられる人は救われています。そして、この語りかけを、自分の人生の「第一の言葉」とする人をキリスト者と呼びます。その人は、「第二の言葉」として「あなたはわたしの神」と告白をするのです。