召天者記念礼拝・納骨式説教 2013年9月15日

130915召天者記念・納骨式

わたしたちは今、泉バプテスト教会に連なり、先に天に召された方々を記念するために集まっています。また今年は格別にSさんの納骨も併せて行います。ここで、改めて聖書から、墓の意味や納骨の意味について考えたいと思います。

しばしば「キリスト教は死者を大切にしない宗教である」と批判されます。ある意味正しい言い方です。キリスト教の神は生きている者の神だからです。神ご自身が生きて働く方であり、信者のうちに生き続け、信者を生きている者にし、より良い人生へと導くのです。それは神を愛し人を愛する生き方です。イエスからいただいたいのちのパンを隣人に分ちあうようにわたしたちは勧められています。こういうわけでキリスト教は生きるということに偏っているわけです。

では死ぬということはどういうことなのでしょうか。イエスは「死者は生きている」と言います。大昔に死んだアブラハム・サラ・ハガルなどの族長は、神を中心にした祝宴を囲んでいる、天において生きていると言います。先に天に召された人々は天国の祝宴に続々と参加しているわけです。

しかしこの祝宴は決して完全なものではありません。なぜなら地上では悲しみが絶えないからです。地上で喜びの祝宴が実現していないからです。天で行われていることが地で行われていないからです。イエスは世の終わりにこの天が地上に実現すると言います。「終わりの日に復活させる」ということは、祝宴の完成を意味します。死んで天国に行くことは最終地点ではありません。最後の完成が次に起こるまでの途中地点です。死者はイエスと共に神の国の完成のために地上に来つつあるのです。

墓はそのためにあります。その人が地上に生きたことを記念し、天で祝宴をあげて生きていることを記念し、天地が合わさって神の国が来ることを希望するためにあります。わたしたちは信仰が弱いので、希望を持ち続けることができません。目に見える墓が必要です。そしてわたしたちは信仰が弱いので、ひとりひとりの大切ないのちを覚え続けることができません。目に見える骨を大切に保管することが必要です。そうでなくては、神の国が来る時まで、希望し記念することができないのです。

主の来られる時まで主の死といのちとを告げ知らせましょう。そして主の来られる時まで先に召されたひとりひとりの死といのちを、それぞれの名前を呼び刻むことによって、告げ知らせましょう。それは地上にある教会の一つの大切な使命です。