【はじめに】
26-34節は繰り返しなので省きます。仮庵祭の規定の最後の箇所です。本日は新約聖書のヘブライ人への手紙を参考にしながら、十字架という救いの出来事の意味と、仮住まいとしてのわたしたちの人生の意味について申し上げたいと思います。それらを横糸にしながら、「完璧」(タミーム。26・29・32・36節)という繰り返される言葉を縦糸に読んでまいりましょう。
26 そしてその第五日において、九頭の雄牛たち、二頭の雄羊たち、年の息子たちの十四頭の子羊たち、完璧。 27 そして彼らの穀物の捧げ物と彼らの注ぐ捧げ物が、雄牛たちに応じて、雄羊たちに応じて、また子羊たちに応じて、彼らの数においてその公正のように。 28 そして一頭の雄山羊が罪祭。日毎の煙の上る捧げ物、そして彼女の穀物の捧げ物、そして彼女の注ぐ捧げ物以外で。 29 そしてその第六日において、八頭の雄牛たち、二頭の雄羊たち、年の息子たちの十四頭の子羊たち、完璧。 30 そして彼らの穀物の捧げ物と彼らの注ぐ捧げ物が、雄牛たちに応じて、雄羊たちに応じて、また子羊たちに応じて、彼らの数においてその公正のように。 31 そして一頭の雄山羊が罪祭。日毎の煙の上る捧げ物、彼女の穀物の捧げ物、そして彼女の注ぐ捧げ物以外で。 32 そしてその第七日において、七頭の雄牛たち、二頭の雄羊たち、年の息子たちの十四頭の子羊たち、完璧。 33 そして彼らの穀物の捧げ物と彼らの注ぐ捧げ物が、雄牛たちに応じて、雄羊たちに応じて、また子羊たちに応じて、彼らの数においてその公正のように。 34 そして一頭の雄山羊が罪祭。日毎の煙の上る捧げ物、彼女の穀物の捧げ物、そして彼女の注ぐ捧げ物以外で。 35 その第八日において貴男らのために集会が生じる。労働の仕事の全て(を)貴男らはなさない。 36 そして貴男らは煙の上る捧げ物(を)、火祭(を)、ヤハウェのための憩いの香り(として)近づける。雄牛一頭、雄羊一頭、年の息子たちの子羊七頭。完璧。 37 彼らの穀物の捧げ物と彼らの注ぐ捧げ物が、雄牛に応じて、雄羊に応じて、また子羊たちに応じて、彼らの数においてその公正のように。 38 そして一頭の雄山羊が罪祭。日毎の煙の上る捧げ物、彼女の穀物の捧げ物、そして彼女の注ぐ捧げ物以外で。 39 これら(について)は、貴男らはヤハウェのために貴男らの諸々の祭日においてなす。それ以外に、貴男らの諸々の誓約の捧げ物、また貴男らの任意の捧げ物。(それは)貴男らの煙の上る捧げ物に属し、また貴男らの穀物の捧げ物に属し、また貴男らの注ぐ捧げ物に属し、また貴男らの平和の捧げ物に属す。 1 そしてモーセはイスラエルの息子たちに言った。ヤハウェがモーセに命じたこと全てのように。
【罪を贖う捧げ物】
28-29章には毎年捧げられる、膨大な動物や収穫が記されています。雄牛・雄羊・子羊・雄山羊という犠牲獣、小麦という穀物、オリーブ(油の原料)・葡萄(葡萄酒の原料)という果物は、神礼拝に用いられていました。一年分を合計すると、雄牛113頭・雄羊32頭・子羊1086頭・雄山羊19頭です。1250頭の動物が一年間で殺されました。小麦の総量は149エファ、油は339ヒン、葡萄酒の総量は339ヒンです。エファは23ℓ、ヒンは3.8ℓ(六十分の一エファ)です。小麦3427ℓ、油と葡萄酒はそれぞれ130ℓとなります。特に子羊は毎日2頭以上、葡萄酒950㎖を添えて捧げられていました。この毎日の子羊・葡萄酒に、安息日・新月祭・三大年中祭(過越祭・七週祭・仮庵祭)の捧げ物が、それぞれ重複し増し加わって捧げられるのです。
祭司は毎日この捧げ物を伴う礼拝を行うことが仕事でした。イスラエルという信仰共同体全体のために、朝に夕に煙が立ち上り、神を休ませ、神を宥め、神との関係を繋ぐのです。煙が天と地を結びます。祭司たちは、自分の仕事を滞りなく成し遂げた時に、毎日「完璧」と満足そうにつぶやいていたことでしょう。これらは祭司だけに執行が許された、共同体全体の罪を贖う儀式です。なお、その他に個人的な捧げ物も任意でなされていたようです(39節後半)。
しかし、このあり方は本当に完璧なのでしょうか。確かに人間の「罪」というものは問題です。罪とは隣人に対する支配欲、隣人の物に対する所有欲。正義も愛も無視した、自己中心的な生き方です。正義と愛の神の前で、罪は何らかの形で償われるべきです。とは言え、人間の罪を1250頭もの動物の生命(「罪祭」はもっぱら「雄山羊」)で肩代わりさせる理由にはならないでしょう。動物たちには人間の罪を贖う/覆う義務はないからです。
毎日注がれる葡萄酒の色は、血を連想させるものです。単なる果物の捧げ物という意味だけではなく、葡萄酒は子羊の血と関連付けられています。人間の罪を動物でという考え方は完璧でしょうか。また酪農や、小麦・オリーブ・葡萄の産地に住む者だけがこれらの捧げ物を捧げることができるのでしょうから、地域が限定された礼拝様式です。完成度の高い普遍的な礼拝でしょうか。
犠牲獣はみな男性であり健常者であるという意味でも「完璧」とみなされているようです。この考え方に欠けがあると思います。捧げ物の内容そのものに、女性差別や障がい者差別が含まれています。この祭儀はアロンの子孫の男性祭司だけが行うことができます。身分制があり貴族が全体を代理するということは構成員同士平等ではないということです。犠牲祭儀の執行者においても完璧と言えません。さらに、十二部族から成るイスラエルという信仰共同体の閉ざされた空間でなされています。地域だけではなく民族も限定されているのです。生まれつき高い身分の祭司が自画自賛して「完璧」と言っても、実態は偏狭な礼拝のあり方だったのではないでしょうか。極めて短く歪んだ定規が、「公正」(27・30・33・37節)と呼ばれていたように読めます。
イエスは祭司のあり方を批判しました。「良いサマリア人商人の譬え話」は、「悪いユダヤ人祭司」の譬え話です。祭司こそ宗教的・社会的に罪深いと喝破したのです。そのために彼は、支配欲にまみれた祭司たちの指図によって十字架で処刑されました。イエスの殺害を受けて教会も祭司による犠牲祭儀を批判します。ヘブライ人の手紙の10章を開きましょう(新約412頁)。「雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができない」(4節)。「すべての祭司は、毎日礼拝をささげるために立ち、決して罪を取り除くことのできない同じいけにえを、繰り返してささげます」(11節)。「いけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません」(1節)。
考え方を変える必要があります。支配欲によって血塗られた手で祭司が捧げる1250頭の動物の血は不必要です。支配欲という誘惑に打ち勝った人の子・神の子イエスが流した血だけが、イスラエルだけではなく全世界の罪を覆うのです。「なぜならキリストは唯一の捧げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです」(14節)。そのキリストは傷がないという意味で完璧だったのでしょうか。そうではありません。鞭打たれ・茨の冠を被せられ・釘で打たれ・槍で貫かれるほどに肉体的に傷だらけでした。精神的にも嘲笑され傷つけられ、衣服を剥ぎ取られ尊厳を奪われていました。弱さを帯び、治ることのない肩の脱臼を負わされ、障がいを持ちました。そのような傷だらけの救い主が、傷の無い唯一「完璧」な方なのであり、そのような方が完璧ではありえないわたしたちのための唯一の犠牲です。
ナチス・ドイツからの解放を果たしたフランス人レジスタンスが、ドイツに協力したフランス人女性たちの髪の毛を刈る映像を見たことがあります。嘲笑うパリ住民を撮影したアメリカ人が、「自分の中にもあるナチス性に直面した」と述懐しています。あれほどの虐殺を経験したユダヤ人たちが今ガザでパレスチナ人を虐殺しています。この残虐性に同じ罪というものを見ます。キリストを殺した祭司たちの罪は、わたしにもあるということを感じるのです。相手が自分より弱い立場にあることを悪用して虐げるという罪です。
この罪からの解放はただキリストへの信仰・イエスの信実によるほかありません。「罪人のわたしを赦し、支配欲や所有欲と異なる生き方へと一歩歩み出させ、罪に逸れそうな時に常に助言して、正しい道・仕える道へと戻してほしい」と祈る信仰です。信仰とは罪からの解放をキリストに賭けることです。
【地上では旅人】
仮庵祭の重要性は犠牲獣を殺す数の多さにあるのではありません。ナザレのイエスは、ガリラヤとサマリアとユダヤの地域を野宿しながら歩き回りました。ペトロの義母の家、レビの家、ザアカイの家、マルタの家などなど定宿としていた家々も、結局のところ仮住まいでしかありません。完璧な自宅ではなく「仮庵」です。支配欲や所有欲に打ち勝つ生活は、仮住まいを続けながら方々で食卓を囲み、歓迎されていない人々と共に食べること、自ら給仕することでした。仮住まいと喜びの祝宴に仮庵祭の重要性があります。「集会」(36節)をギリシャ語訳は「悲劇の終幕」と訳しています。悲しみから喜びへ!
このイエスの生き様を教会は引き継ぎます。ヘブライ人への手紙11章を開きましょう(新約414頁)。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(1節)とあり、その後、信仰者たちの人生が紹介されます。その人生は完璧ではなく、約束されたものを手に入れない未完成のものでした。しかし「はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」(12節)。贖われた者として罪から遠いところで生きるコツがここにあります。
未完成・未完了・完璧でないことを率直に認め、その只中で将来を希望し、その只中で喜ぶことです。自分の人生すら突き放して遠くから眺め、そこからはるか遠く前方も見渡し、「既に得た」と嬉々として喜び、なお自分の人生を手放さないことです。支配役や所有欲に負ける時というのは、しばしば近視眼的であり、隣人との対立構造の中に陥っている時です。そんな時わたしたちはより弱い者を叩く愉快犯的残虐な喜びに飛びついてしまうのです。
【今日の小さな生き方の提案】
礼拝に連なり、定期的にイエス・キリストの十字架を仰ぎ、記念し、自分の罪と向き合いましょう。悲しみからの出口、より良い人生の出発点がここにあります。完璧でなくて良いし、完璧を目指すべきではありません。傷だらけの救い主と肩を組み、自らの人生の十字架を共に担う方が幸せです。一般に人が幸せを感じる時というのは、人間関係が良好な時なのだそうです。礼拝を中心にする教会の交わりの価値がそこにあります。支配欲や所有欲は人間関係を悪くします。教会は共に仕える集まりです。それだから、罪を見つめて人生を正すことも、幸せを感じることも、なるべく罪から遠い生き方を選択することも、未完であることを喜ぶこともできます。共に地上の旅を続けましょう。
