自分を殺そうとしているユダヤ人たちに対するパウロの演説の続きです。パウロは自分の回心について振り返ります。ファリサイ派からナザレ派へと転向したこと、しかもナザレ派を迫害する者から、ナザレ派を布教する者へと転回したことを述べます。それは使徒言行録9章の物語を、パウロの口を通して語ることです。実はパウロが自分の回心を振り返ることは26章12-18節でも行われています。使徒言行録の読者は9章、22章、26章と3回同じ話を読むこととなります。
26章と比べると、22章の特徴があぶり出されます。それは、アナニアという人物の重要性です。26章にはアナニアは登場しません。また22章と比べると、26章ではパウロに語りかけるイエスの言葉が大幅に拡張されています。実に9章よりもかなり長いのです。22章のイエスの言葉が、9章のイエスの言葉に少しだけ長いということ(後述)を考え合わせると、26章は特別に長いと言えます。
アナニア重視という全体図を頭に置きながら、また9章の物語とも見比べながら、6-16節までのパウロの回心について読み直してみましょう。
6 さて行った時にそしてダマスコに近づいた時に以下のことが私に起こった。すなわち正午ごろ突然その天から相当の光が私の周りを照らすということが(起こった)。 7 それから私は地の中へと倒れた。そして私は私に言い続けている声を聞いた。「サウル、サウル、なぜ私を追うのか」 8 さて私、私は答えた。「あなたは誰か、主よ。」それから彼は私に向かって言った。「私、私は、あなたが追うナザレ人イエスだ。」
6-8節は9章3-5節と分量的にも用語的にもほとんど同じです。三人称(彼・パウロ)の物語を、一人称(私・パウロ)に、ほぼ機械的に直しているだけです。特に鍵括弧でくくった発言部分は同じです。「サウル、サウル、なぜ私を追うのか」(7節)。
単語は同じなのですが、9章の際の翻訳と少し変えてみました。「迫害する」を「追う」として二重の意味を込めました。ギリシャ語ディオコーの原義は「追う」。そこから「追走する」「追い詰める」「迫害する」という意味に派生します。ただ別の派生もあり、「追求する」という意味にもなりえます。
イエスを迫害したパウロこそが、実はイエスを最も追い求めていた人物だったと思います。「アンチはファンの一種」とも言います。旧約聖書の「ヤハウェ」の神、そのギリシャ語訳の「主」(キュリオス)、このヤハウェ=キュリオスは、ファリサイ派の律法学者であるパウロにとって、どうしてもイエスと同一視できません。ヤハウェ=キュリオス≠イエスなのです。そこでキュリオス=イエス(「イエスは主」)と信じているナザレ派は、荒らす憎むべき者に見えます。神の冒涜者たちです。パウロは、イエスが真にキュリオスであるかどうかを厳密に追求したのでした。
「あなたは誰か、主よ。」「私、私は、あなたが追うナザレ人イエスだ。」神と神の預言者との出会いでしかないような、特別な出会いをパウロは経験しています。パウロは瞬時にこれはヤハウェの神だと感じました。そのパウロが追い求めてやまないヤハウェ=キュリオスに向かって、あなたは誰かと問うたところ、「私はあなたが追い求めているイエスだ」という答えがあったというのです。
9 さて、私と共に居続けている男性たちは、一方で光を認識したが、他方で私に話しているその声を彼らは聞かなかった。 10 さて私は言った。「何を私はすべきでしょうか、主よ。」 さてその主は私に向かって言った。「立ち上がって、あなたはダマスコの中へと行け。そしてそこであなたに定められた全てのことについて、すべきことが話されるだろう。」 11 さて私があの光の栄光により見えなくなり続けた時に、私と共に居続けている者たちにより手引きされつつ、私はダマスコの中へと来た。
9章7節では、一緒に居た人々はイエスの声は聞こえたけれども姿は見えなかったとあります。22章9節はその逆のことが書いてあります。「一方で光を認識したが、他方で私に話しているその声を彼らは聞かなかった」というのです。22章において一緒に居た人々は光を見ています。ところがイエスとパウロの対話は聞こえません。
9章と22章の矛盾について、著者ルカの単純な書き間違えと考える学者も多くいます。しかし、客観事実として9章があり、パウロの主観として22章があると考えても良いでしょう。事実として周りの者にもイエスの声が聞こえたけれども、パウロにとってはその声はただ自分だけに語りかけられ誰にも聞こえなかったのと同じだということです。
神の召しというものはそのようなものです。まったく同じ時間を同様に過ごしていても、まったく同じ聖書の話を聞いていても、ある人は何かの決意を持つし、別の人は別の感想を持つものです。「私、私は、あなたが追うナザレ人イエスだ」との声にパウロは目が見えなくなるほどの衝撃を受けますが、一緒に居た人はそこまでの衝撃を受けません。それは真にイエスの声を聞いていないのと同じなのではないかとさえ思えます。
皮肉なことに、パウロから見れば「鈍い」人々のおかげで、パウロはダマスコの町の中へと入ることができました。そこにアナニアがいます。
12 さてアナニアは、律法に従って良く受け取っている、とある男性。住んでいるユダヤ人全てによって証言されながら、 13 私に向かって来ながら、そして接して立って、彼は私に言った。「サウル、兄弟よ、あなたは仰げ。」そして私、私は同じ時に彼を仰いだ。 14 さてその男性は言った。「私たちの父たちの神はあなたを選んだ。彼の意思を知るために、そしてその義人を見るために、そして彼の口から声を聞くために。 15 なぜならあなたは全ての人間に向かって、あなたが見たことまた聞いたことの、彼のための証人であろうとするからだ。 16 そして今なぜあなたはためらっているのか。立って、あなたはバプテスマを自分で/第三者によってせよ。そしてあなたのその諸々の罪を清めなさい、彼の名前を呼んで。」
22章においてアナニアはナザレ派/キリスト教会の者と呼ばれていません。9章10節では明確に「弟子(クリスチャンの意)」と呼ばれているのにもかかわらず。この演説の聴衆が全員ユダヤ教正統の者たちだからでしょう。パウロがアナニアを持ち出したのは、聴衆たちにアナニアのようになってほしいからでしょう。ユダヤ人の模範として、ユダヤ人キリスト者アナニアをパウロは紹介しています。ダマスコのユダヤ住民の全員はアナニアを「律法に従って良く受け取っている」(12節)人物と証言しています。「良く受け取っている」は真面目であるという意味合いです。モーセ五書を真面目に読むと、イエス・キリストへの信仰に導かれます。イエスが第二のアダムであり、第二のアブラハム、第二のモーセであるからです。
このようなアナニアに対する評価に、パウロの感謝の念が現れています。もし寛容なアナニアがキリスト信徒仲間「兄弟」(13節)として受け入れてくれなかったら、パウロの現在はありません。「仰げ(上を見よ)」は「再び見よ」とも訳せます。文脈上「再び見よ」の方が素直な翻訳です。あえて「仰げ」を採るならば、ここでパウロもまたアナニアと一緒にイエスをキリストと仰いだとも解せます。「イエスは主」と礼拝し信仰すること。それこそ追い求めながら見えていたけれども見えなかった真実を、改めて見直すことでもあります。
14-16節のアナニアの発言は、9章17節のアナニアの発言よりも長く内容も異なります。パウロの主観としては、14-16節のように語りかけられたことが記憶に残っているということです。アナニアは、「私たちの父たちの神はあなたを選んだ」と言います(14節)。ダマスコ途上で出会ったのはヤハウェの神です。何のためでしょう。「彼の意思を知るために、そしてその義人を見るために、そして彼の口から声を聞くために」(14節)。ヤハウェの意思は義人イエスによって知られます。パウロが聞いた声は、このイエスの声だったのです。「ヤハウェ=イエス」をアナニアもパウロに説いています。
そしてアナニアはパウロを「全ての人間に向かって、あなたが見たことまた聞いたことの、彼〔ヤハウェ=イエス〕のための証人であろうと」せよと励まします(15節)。ユダヤ人に対してだけではなく、非ユダヤ人を含む全ての人間に対して証言することをアナニアは勧めます。9章17節では省かれていましたが、確かにイエスはアナニアに、パウロがそのようなキリスト者になることを確言しています(9章15節)。パウロはこのアナニアの言葉をずっと心に留めていました。「私が追い求めていた救い主はイエスである」。この福音をパウロはユダヤ人にもギリシャ人にも証言することとなります。
アナニアは急かします。今、イエスの名前でバプテスマを受けよと言います。「立って、あなたはバプテスマを自分で/第三者によってせよ」(16節)。動詞バプティゾーは、能動態で「バプテスマを授ける」、受動態で「バプテスマを受ける」、しかしここではギリシャ語独特の中動態「自分でバプテスマをする/第三によってバプテスマをしてもらう」という珍しい形です。アナニアはパウロの意思を問うています。信仰告白をしてキリスト者となりたいのかどうかという問い詰め方です。9章では目からうろこが取れる体験と喩えられていますが、22章ではアナニアに決断を迫られた体験となっています。少なくともパウロの主観では、そうなのです。アナニアの強い押しが無ければ、自分の現在はないとパウロは振り返ります。このようにしてダマスコのアナニア、全ユダヤ人から律法に忠実な真面目な人と証しされる教会指導者に対して、パウロは感謝を述べています。
今日の小さな生き方の提案は、自分のバプテスマを思い出すことです。一体あれは何だったのかを改めて振り返り、新たに意味づけをすることです。客観事実としての「〇年〇月〇日に〇〇教会で行われたバプテスマ式の記録」とは異なります。そうではなく主観的にあの出来事を、現在の自分自身の眼で解釈することです。
あの時誰が自分に働きかけてきたのか。どのような言葉をかけられたのか。なぜ自分はバプテスマを受けたいと思ったのか。あの時の情景を振り返って振り絞って思い出してみましょう。そうして、今とあの時の差を自覚してみましょう。それは自分の教会歴を振り返ることです。一体神は私に何を求めて、あの時バプテスマを授けたのか。あれからどのような歩みをしたのか。その歩みはあの時の思いと同じなのか異なるのか。信仰歴が長くなればなるほど、最も大切なことだけが思い出されるはずです。そして、最も大切なことに良い意味で尾ひれがくっついて分量が多くなるはずです。バプテスマの日を振り返り、明日からの一日を生き直しましょう。