【はじめに】
本日は聖霊降臨祭(ペンテコステ)の日、教会の誕生記念日です。この日はキリストの教会とはどのような存在であるのかを考えるためにふさわしいと思います。本日の聖句によれば教会は「地の塩」「世の光」でありましょう。マタイ教会の考える教会像を、マタイ版イエスの言葉によって考えてみたいと思います。似たようなイエスの言葉は、マルコ福音書にもルカ福音書にも点在しています。しかしマタイにしか無い言葉があります。マタイ福音書を少しずつ読み進めているわたしたちは、マタイ独自の言葉に着目しそれを福音として受け取っていきたいと思います。結論を先に言うならば、マタイ独自の福音とは、「あなたたちこそ地の塩である」「あなたたちこそ世の光である」という強い言い切りです。
13 あなたたち、あなたたちこそその地の塩である。さて、もしもその塩が愚かにされるならば、何においてそれは塩味が与えられるだろうか。それは何のためにも全く力がない、その人間たちによって踏まれるために外へ投げられる以外には。
【あなたたちこそ】
多くの日本語訳聖書で訳出されていませんが、13・14節の冒頭の一文は、主語が強調されている強調構文です。少しうるさく訳せば私訳のように、「あなたたち、あなたたちこそその地の塩である」と翻訳できます。ではことさらに強調されている「あなたたち」とは誰のことを指しているのでしょうか。直前の文脈で「幸い」と呼びかけられている人々のことを指すとするのが素直です。イエスの目の前にいて謙遜な人・社会正義を求める人が、「あなたたち」と言われています(3-12節)。
さらに文脈を遡ると、ローマ帝国の属州シリアでイエスの評判を聞いた人々、ガリラヤ地方・デカポリス地方・ユダヤ地方・ペレア地方から集まって来た病気の人、病気の人を連れて来た人、それらの多くの群衆です(4章24節-5章1節)。イエスの後ろに従って山に登って、そこでイエスの教えを聞いている群衆が「あなたたち」と呼ばれています。
ここに教会の原風景があります。教会はイエスに癒された人々の集まりです。また、教会は友人をイエスに癒してもらおうと連れて来た人々の集まりです。癒された人、友人の癒しを願う人は、「幸い」という言葉をかけられます。まったくこの社会では「幸い」を感じない人々が、教会ではそのような形容詞で修飾されます。そして教会で、幸いな人々が徐々に謙遜になり、社会正義に敏感になっていくのです。小さな愛の器、小さな義の器となる。それぞれは素朴な土の器のままで、その中にキリストの愛と義が宝として盛り込まれていく。これが主の周りに座る群衆のありようです。
わたしたちにイエスは、「あなたたちこそが地の塩・世の光である」と断定しています。「地」も「世」も「世界」や「社会」を意味すると考えられます。「その人間たち」(13・16節)によって構成される交わりのことです。イエスはわたしたちに「世の中にとっての塩や光になれ」とは命じていません。今礼拝を捧げ座っているわたしたちがすでに世の中にあって塩であり光であると言うのです。これはどのような意味でしょうか。
【塩】
まず塩から。マルコ福音書9章50節とルカ福音書14章34-35節に、塩が良いものであることが言われています。そして塩気の無い塩は何の役にも立たないとも言われています。イエスは塩についておそらく次のような教えを述べていたのだと思います。「塩は唯一無二の役割を果たす一方で、正にそれゆえに、塩は塩気を失うと直ちに役立たずになる」という教えです。マタイ版イエスは、「塩が良いものだ」(マルコとルカ共通)と言う代わりに、「あなたたちは唯一無二の塩である」と直接目の前にいる相手に語りかけています。
人間の体は基本的に塩水なのだろうと思います。だから塩と水を常に欲しています。かつて同じ教会員だった、フィリピンのボルネオ島に従軍した方から聞いた話です。飢え渇きもつらかったけれども、最終的には塩分の不足がつらかったとのことでした。熱中症対策などを考えても、塩は唯一無二の必要不可欠な栄養素です。
教会に集う一人ひとりは、一つの体である教会にとって唯一無二の必要不可欠な存在です。それと同時に、教会という一つの交わりは、日本社会にとって唯一無二の必要不可欠な集まりです。わたしたちはイエスに抗弁するかもしれません。わたしたちのような小さな教会があってもなくても下馬の地域、世田谷区、東京都、日本にとってあまり関係がないのではないですか、と言いたくなります。しかしイエスはきっぱりと、いや、あなたたちはこの地の塩であると言い切ります。どういうことなのでしょうか。
14 あなたたち、あなたたちこそその世界の光である。山の上に横たわっている都市が隠されることは不可能だ。 15 誰も彼らは灯火を灯しまたそれを彼らはその升の下に置かない。むしろその燭台の上に(彼らは置く)。そしてそれはその家の中の全てのものを照らす。 16 そのようにしてあなたたちの光をその人間たちの前で照らせ。その結果、彼らはあなたたちの諸々の良い働きを見る。そして彼らはその諸々の天におけるあなたたちの父を崇める。
【光】
次に光です。マルコ福音書4章21-22節とルカ福音書8章16-17節を見ると、①「灯火は燭台に置くべきだ」という言葉は、②「それによって隠れたものは明らかになる」という言葉と一体化しています。マタイだけが前半①を15節におき、後半②を別の文脈に移動しています(10章26節)。もともとのイエスの言葉においては①②は繋がっていたのでしょうけれども、マタイ版イエスは②を別の意味に変えています。その変更に独特の意義があります。
つまり16節に注目すべきです。「そのようにしてあなたたちの光をその人間たちの前で照らせ」。灯火の意味合いが変わっています。隠されているものを明らかにするための灯火ではなく、自分自身を灯火として社会の前に明らかに現せというのです。「その結果」、人間社会がキリスト者の「良い働き」を見るために、そして神に栄光を帰すために。
マタイ版イエスは「燭台の上の灯火」を、「山の上に横たわっている都市」(14節)と同じ意味で使っています。「都市」(ポリス)は字義通りには都市国家のことを指しますから、とても大きなものです。まさに「横たわっている」という状態でしょう。松本市街から見上げる美ヶ原高原のことを少し想起していまいます。
わたしたちはイエスに抗弁するかもしれません。わたしたちのような小さな教会はとてもではないけれども都市国家ポリスの規模ではありません、山の上どころか下馬の地域にあっても埋もれた存在です、良い働きなどといえるものを見せられませんと言いたくなります。しかしイエスはきっぱりと、いや、あなたたちはこの世界の光であると言い切ります。小さな燭台が全世界を照らしうると断定します。これまた、どういうことなのでしょうか。
【世界は素晴らしい What a wonderful world】
再び文脈を思い起こしましょう。イエスはあまり幸いではなさそうな人々を「幸せな人々」と呼んでいます。イエスの人間に対する見方、世界に対する見方は、通常の人間とは異なるように思います。わたしたちは常識から外れていく冒険に仕向けられています。キリスト者が帯びている、教会の常識からも少し外れても良いかもしれません。
クリスマスという文化にどっぷりと漬かると、真っ暗闇の絶望の世界に小さな希望の光(イエス・キリスト)が来た、それのみが「光」の象徴するものだという思い込みが助長されます。この世界観は、世界というものは真っ暗なものだという方向にわたしたちを追いやります。破壊的カルトにからめとられる危険がここに潜んでいます。確かに世は悪であり闇である、これは聖書に記されています。しかし同じ聖書は、神がこの世界を創り、しかも「実に良い」ものとして創られたとも記します(創世記1章)。人間もまた良いのであり、人間の集まりも良いものです。人間が一人でいるのは良くないからです。神の創られた世界はからりと明るいものでもあります。人間のぐちぐちとした罪にもかかわらず、世界というものは素晴らしいのです。
「山の上に横たわっている都市が隠されることは不可能だ」(14節)という譬えは、昼間の情景です。からりと晴れた真昼間、見晴らしの良い場所に立派な町が輝いて見えるというのです。燭台の上の小さな灯火の話よりも、山の上の大きな都市の話が先に書いてあることも重要です。クリスマスの情景に引きずられないことです。闇の中の光ではなく、光の中の光です。マタイ版イエスは底抜けの楽観を持って、明るい良い世界を見て、良い世界の中の教会の良い働きを見ています。底抜けの楽観の根拠は、神にのみあります。良い方がわたしたちに悪いことをするはずがないという信仰です。その信仰の模範は、空の鳥であり、野の花であり、小さな子どもたちです。世界は良いものだと疑わない心です。
【今日の小さな生き方の提案】
人は謙虚に生きるべきではありますが、自己嫌悪に陥るべきではありません。また、神の断言を拒否する必要もありません。神がわたしたちに、「あなたは塩・光、必要不可欠、存在だけで良い働きをしている」と、一方的に言っています。からりと明るく、「アーメン、そうですね」と応えるだけで良いと思います。「なぜそんな断言があり得るのか」と訝らず、褒められた理由も詮索せず、楽観的に「ありがとう」と受け取る信仰が必要です。根拠があるとすれば、神が創った固有の存在だから、わたしたちは素晴らしいという創造信仰です。外では様々な評価の下疲弊させられても、教会ではそうなってはいけません。教会にとって「塩が愚かにされる」事態というのは、おそらく教会の中に世間の尺度や評価が入り込んで隣人や自分自身に「~しなさい」「~になりなさい」という時に起こるのでしょう。教会だけは「~である」というイエスの言葉に忠実でありたいと思います。「あなた自身である」ことに至上の価値があります。そのままで地の塩・世の光、唯一無二で必要不可欠の存在です。福音を受け取る余裕のある「日本一暇な教会」でありたいと願います。