【はじめに】
26章で人口調査を終え、27章からは新しい話題です。導入が少しだけなされていたツェロフハドの娘たち五人の逸話です(26章33節参照)。この物語にはいくつかの前提があります。一つは、夫と死別した女性は、夫の家名を残すために夫の兄弟と結婚しなくてはいけないという法律です(創世記38章、申命記25章5節、ルツ記、マルコ12章18-27節)。「レビラート婚」という、男性中心の習慣と法律の存在が大前提です。
父親だけではなく五人の姉妹の母親も既に他界しているようです。もし母が父の死の時点で生きていれば、「父の兄弟たち」(4・7節)の誰かと結婚を強いられ、息子が生まれるかもしれないからです。古代人女性の結婚年齢は若く、15歳ぐらいで結婚すると考えれば、五人を生んだ女性の再婚後の出産は不可能ではありません。だから彼女たちの母は既に亡くなっていたと思います。両親がいないということが話の前提です。
五人の姉妹はこの時点で全員結婚していないと思われます。もし結婚していれば、その夫の家に入ることとなり、父の財産を主張することができないからです。全員が属すべき「家」が無い状態にあることも前提です(36章11節の時点で彼女たちは結婚をします)。
彼女たちはこのまま「約束の地」に入っても、籤引きで定められた場所を所有することはできません。「嗣業の所有地」(7節)は部族ごと・氏族ごと・家族ごとに割り当てられるからです。制度の隙間から取りこぼされようとしている人々が、当事者として主張するということがこの物語の大筋です。
1 そしてヨセフの息子マナセの氏族に属する、マナセの息子マキルの息子ギルアドの息子ヘフェルの息子ツェロフハドの娘たちは近づいた。これらが彼の娘たちの諸名前。マフラ、ノアとホグラとミルカとティルツァ。 2 そして彼女たちはモーセの面前と、その祭司エルアザルの面前と、彼らの長たちとその会衆の全ての面前に立った。会見の幕屋の入口(にて)曰く。 3 わたしたちの父はその荒野において死んだ。そして、ヤハウェに接してコラの会衆の中に集合し続けているその会衆の真ん中に、彼は居なかった。実に彼の罪において彼は死んだ。彼の息子たちは彼のために居なかった。 4 なぜわたしたちの父の名前は彼の氏族の真ん中から消し去られなければならないのか。なぜなら彼に属する息子がいないからだ。貴男がわたしたちに所有地(を)与えよ。わたしたちの父の兄弟たちの真ん中で。
【マフラ、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァ】
聖書の中で女性の名前はあまり報告されません。「ロトの妻」「ヨブの妻」「イザヤの妻」などと呼ばざるを得ないことは、読者としても不本意です。そう考えると、「娘たちの諸名前」(1節)全員の紹介は稀有の事態です。わたしたちは感謝して「彼女たち」(2節)を記念するべきです。ヘブル語においては、男性である「彼ら」と、女性である「彼女たち」を文法的に厳密に分けて表現します。この特徴に留意しながら、読み解きます。
「ツェロフハドの娘たちは近づいた」(1節)とあります。彼女たちは、「モーセ」「エルアザル」「彼らの長たち」と呼ばれる男性たちの指導者層・男性たちで構成される「会衆」に自らの意思で近づき、面と向かって対峙します。意思決定機関の中から完全に締め出されているマイノリティが、また家制度・法律の保護の外にいるアウトローが、たった五人で意思決定機関全体に立ち向かう図です。手も足も声も震えるような場面、しかし語るべきことを聖霊が彼女たちに与えます。そして堂々と語るのです。「わたしたちの父の家と父の名を女性であるわたしたちにも継承させてほしい。」
父ツェロフハドは「荒野の四十年」と呼ばれる期間に自然死したようです。それは他の同世代の者たちと同じです。「彼〔ツェロフハド〕の罪」とあるのは、約束の地にすぐに入ろうとしなかった罪のことを指しているのでしょう。このことは一般的なことです。父は特別な罪を犯していない。つまり、コラの反乱には与せず「コラの会衆…の真ん中に、彼は居なかった」のです(16章参照)。三回繰り返される「真ん中」は鍵語です。コラの会衆の真ん中にいなかった「父の名前」が、父の兄弟たちの真ん中から消え去るべきではないと、彼女たちは訴えています。息子がいないと本人の名前が消えるのは変ではないかということです。そして生きていれば父が所有する土地、父に息子がいればその息子が所有する土地を、モーセに堂々と要求します。男性でなければ相続できないというのも変ではないかということです。「貴男がわたしたちに所有地(を)与えよ。わたしたちの父の兄弟たちの真ん中で。」(4節)。
立派な主張だと思います。彼女たちの血の通った言葉を読むと、周縁に追いやられ力を奪われている人々こそ社会の「真ん中」に置かれ、守られ、尊重されるべきだと思わされます。彼女たちの支えは、「会見の幕屋」(2節)にいるヤハウェの神への信仰です。マジョリティとの対峙において、マイノリティを支えるのは「信」です。五人の仲間がもつ信頼、対話相手への信頼、社会を動かす信実の神への信頼です。あなたの信があなたを救う。たった五人の女性たちの勇気ある行動が、新しい法律・制度を創ります。同じ境遇に遭っている女性たちをも救う法改正です。
5 モーセは彼女たちの公正をヤハウェの面前に近づけた。 6 そしてヤハウェはモーセに向かって言った。曰く、 7 正しくツェロフハドの娘たちは語り続けている。貴男は嗣業の所有地を彼らのために確実に与えるべきだ。彼らの父の兄弟たちの真ん中で。貴男は、彼女たちに彼女たちの父の嗣業を移せ。 8 そしてイスラエルの息子たちに向かって貴男は語るべきだ。曰く、仮に男性が死んだならば、かつ息子が彼のためにいない(ならば)、貴男らは彼の嗣業を彼の娘に移すのだ。 9 そしてもしも彼のために娘がいないならば、貴男らは彼の嗣業を彼の兄弟たちに与えるのだ。 10 そしてもしも彼のために兄弟たちがいないならば、貴男らは彼の嗣業を彼の父の兄弟たちに与えるのだ。 11 そしてもしも彼の父のために兄弟たちがいないならば、貴男らは彼の嗣業を彼に向かって最も近い、彼の氏族からの彼の親戚に与えるのだ。そして彼は彼女〔嗣業〕を所有する。そして彼女はイスラエルの息子たちのために公正の掟となる。ヤハウェがモーセに命じたとおりに。
【公正〔ミシュパート〕】
「彼女たちの公正」(5節)は特別な綴り方がなされています。「彼女たちの」にあたる一文字(ヌンというNの音)が、特別に大きいのです。申命記6章4節にもある現象です。「読者よ、悟れ」と言わんばかりの、特別な注意を払うための目印です。そしてこの個所の大きな文字の理由は誰も分かりません。わたしは冒頭に述べた通り、実名入りの女性たちの逸話が稀有であることを想起し続けよという意味に採ります。もう一つの注意喚起は、「公正〔ミシュパート〕」という事柄の重要性に対するものです。
「公正〔ミシュパート〕」は5節と11節に用いられ、5節から11節を囲い込んでいます。新共同訳は、5節を「訴え」、11節を「法」と訳していますが、同じ段落の近い文脈の単語なので共通の訳語が望ましいでしょう。この名詞は「裁く」という動詞から派生しています。「裁判による統治において実現する制度的公正」という意味合い。聖書の神の性質を指す重要単語でもあります。
モーセは自分のところに、勇気を奮って近づいてきた女性たちの公正を見ました。彼女たちは裁判を信頼して最高裁長官であるモーセに訴状を提出し判決を待ちます。モーセは「女のくせに」と言わずに公正な態度で、彼女たちの公正な主張(女性たちを男性たちと同じように扱うように)を、公正な裁判官ヤハウェに近づけます。
ヤハウェの判決は画期的なものでした。「正しくツェロフハドの娘たちは語り続けている」(7節)。語順を重視すると私訳のようですし、最古の翻訳であるギリシャ語訳も同じ立場です。言い分が正しい(新共同訳)というだけではなく、言い続けている行為が正しいし、言い続けている際の態度が正しいと、ヤハウェは褒めているのです。毅然としながらも穏やかに彼女たちは、相手にわかるように諄々と自分たちの考えた言葉で語り続けたのでしょう。
現代に置き換えるならば、13歳から6歳までの五人の少女たちが、最高裁判所判事や国会議員や官僚たちを目の前にして、公正な社会の実現やそのための法改正を主張する姿を、わたしたちは想像しなくてはいけません。
誰もが心動かされる場面です。モーセもヤハウェも心が動かされ、その日のうちに法律が変わります。9-11節を要約します。
「全体の公正のために(「彼らのために」7節)、彼女たちに嗣業の所有権を移管せよ。息子がいない男性の所有地は、その男性の娘に相続される。相続順を次のように定めた法律を制定せよ。すなわち、被相続人の①息子、②娘、③兄弟、④伯父・叔父、⑤最も近い親戚。」
女系の家名存続・女性の相続権を定めたこの法律は古代にあって画期的でした。この後、モーセからヨシュアに指導者が変わった後に、マフラ、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァは、本人たちの主張とヤハウェの判決通り、父の兄弟たちの真ん中に嗣業の所有地を与えられています(ヨシュア記17章3-4節)。もっとも民数記36章でこの法律は骨抜きにされるのですが。
【今日の小さな生き方の提案】
「権利にあぐらをかく者を法は保護しない」と言われます。自分の権利とは主張し続けなくては簡単に奪われてしまうのだから、奪う者だけではなく権利を主張しない者にも課題があるという趣旨です。憲法も同じように、人権は不断の努力によって獲得すべきものと謳います。わたしには侮られない権利がある、わたしには幸せになる権利があると主張し続けない限り、その権利を失うことを覚悟しなくてはなりません。「人権、人権と権利ばかりを主張するな」と言う人は人権・権利というものの本質を誤解しています。あの五人のように勇気を奮って穏やかに語り続けたいと願います。学校や職場や家庭や地域で、自分が公正に扱われていない時に「はて」と思う感性と、疑念や批判を言葉にする論理と、穏やかに語る品位とを求め続けたいと願います。その語り続けは自分自身の魂を救うものでありながら、公性を持ちます。同じ葛藤を抱えている人や将来同じ壁にぶつかるであろう人々をも救うからです。教会はそのような「彼女たち」のために祈る礼拝共同体です。教会は「彼女たち」を救う公正な神を賛美する礼拝共同体です。共に御前に近づきましょう。