先週は過越祭という儀式について立ち入って考えました。今週は子どもと一緒に礼拝をすることの意義や、「ヤハウェが過ぎ越す」ことの意義について考えてみます。ユダヤ教徒にとっての過越祭はキリスト教徒にとっては毎年のイースター(十字架を含む)であり毎週の礼拝(主の晩餐を伴う)です。そのことは今日の箇所からも補強されます。
「ヒソプ」(22節)という植物は清めの儀式に用いられます(レビ記14章、詩編51編)。そしてヨハネ福音書によれば、十字架上のイエスはヒソプによってぶどう酒を飲んだのでした(ヨハネ19章29節)。ぶどう酒は血の象徴です。そうだとすれば、罪人の頭として神に呪われた形式で処刑されたイエスが、皮肉なことに死刑執行人たちによって罪を清められたということになります。彼らは死刑囚を神の子として承認しているのです。無意識に神の子を認めた殺害者たちは、無意識に神の救いの計画を後押ししました。彼らが殺害することによって過越の小羊イエスが犠牲として捧げられました。そのイエスの血が、すべての者を清める力を持っていると、キリスト教徒は信じています。
ヒソプを用いたヨハネは不思議な循環を語っています。殺す者が殺される者に活かされます。殺す行為は重大な罪ですが、その罪なしに救いは成り立ちません。そしてその救いは殺す者にまで及ぶのです。神の正義が報復的ではないからです。十字架上のイエスを、イエスの復活前に唯一神の子と信じたのが処刑責任者であるローマ兵百人隊長だったことは、不思議な循環をよく物語っています(マルコ15章39節)。
神はこのイエスを起こし・よみがえらせます。それは過越の犠牲を止めさせるためです。じつは動物の血をヒソプで振りかけても根源的な罪というものは清められないことに、人々は気づいていました。自己肥大化し隣人を踏みつけながら、血を流す動物犠牲の儀式を行い、「昨日隣人を踏みつけた自分の罪は今日神に清められた、だから明日からも隣人を踏みつけよう」と抜け抜けと語る者たちが昔からいたからです(イザヤ1章11-17節)。この種の偽善(罪)を終わらせるためにイエスは最後の犠牲となったのです(ヘブライ9章11節-10章18節)。復活によっていのちを分かち合う生き方を示され、復活した後に弟子たちと朝食を食べたのです(ヨハネ21章)。これが新しく永遠のいのちを生きることです。主の晩餐は給仕をする生き方の実践です。
「儀式」という言葉が繰り返されています(25・26節)。アボーダーというヘブライ語は「仕える」「労働する」「礼拝する」(アバド)の名詞形です。アバドについては、ファラオのための強制労働とファラオを崇拝することが同じであるという説明のために、以前も取り上げました。だから、今日の箇所も文脈しだいではアボーダーを「毎週の礼拝」とも翻訳できます。
ユダヤ教徒の子どもたちが大人たちに「この儀式にはどういう意味があるのですか」(26節)と問うことは、教会に集う子どもたちが「この礼拝全体には/礼拝のこの部分にはどういう意味があるのですか」と問うことに似ています。その時わたしたちはどのように答えることができるでしょうか。しばしば子どもたちは無邪気に「なんで」と聞いてきます。その問いが大人を鍛えます。
27節には要約された模範解答があります。「ヤハウェがエジプトを撃った時、彼はエジプトにおけるイエスラエルの子らの家の上を過ぎ越した。そして彼はわたしたちの家を救った」(私訳)。申命記6章20-25節には、より十全な長さの模範解答があります。キリスト教徒ならば、「イエス・キリストが十字架で殺され、三日目に神によってよみがえらされ、聖霊を弟子たちに吹きかけられた」という救いの出来事を模範解答として持つべきでしょう。この模範解答は子どもにキリスト教教理を伝えます。
しかし模範解答は方向性を示しても、子どもの「なんで」に対しての誠実な応答にはなっていません。答えにならない答弁の繰り返しは良くないでしょう。なぜ祈るのか、なぜ歌うのか、なぜ聖書を読むのか、なぜパンを食べぶどうジュースを飲むのかという問いに対して、あまりにも曖昧です。こうして大人たちも含めてすべての人が、自分の頭で考えるように要求されます。もちろん大人も同じように問うて構いません。子どもが答えても良いのです。わたしの信じるイエスとは誰か、わたしたちの礼拝しているキリストとは誰か、常に吟味が必要ですし、考えているだけでなくそれをかたちに表す儀式が必要なのです。
改めて、ヤハウェが過ぎ越すということの持つ意味を吟味したいと思います。それによってわたしたちの礼拝がより豊かなものとなるためです。
最初にエジプトを撃ったのは誰なのかという問題です。本文はヤハウェ(27節・29節)と並んで「滅ぼす者」(23節)を執行者として挙げています。似たような場面として創世記18章があります。結局最終責任は神のみに帰されるので、「ヤハウェがエジプトを撃った」という理解で構わないでしょう。
ヤハウェはエジプトを撃ったのですが、入口の二本の柱と鴨居に血を塗った家だけは過ぎ越しました(23節)。神が過ぎ越すことがなぜ救いとなるのか、立ち入って考えてみましょう。
古代人は神を見ると死ぬと考えていました。ヤコブが真夜中神と相撲をとった時に、「わたしは神を見たのに死んでいない」と言って、見過ごしてくれた神に感謝をしている通りです(創世記32章31節)。神はヘブライ人と顔を合わせるときにヘブライ人の神であるにも関わらずヘブライ人を殺さなくてはいけないと考えられていました。だから神は登場する際に「通り過ぎ」(動詞アバル)なくてはなりません(出エジプト記34章6節。マルコ6章48節)。過ぎ越しが救いであるということは、神と向き合えないわたしたちの罪を教えます。すべての人は何かを踏みつけにし、犠牲を強いており、利己的なのです。
「過ぎ越す」はヘブライ語パサハという動詞です。この動詞の語源は大まかに二つあります。そのために翻訳も揺れています。①「飛び越える」「覆う」や、②「足をひきずる」「ふらふらする」というまったく正反対の意味があるので訳語の選定が難しいのです。
たとえば、イザヤ書31章5節の「万軍の主はエルサレムの上にあって守られる」は、「覆う」という意味を採ったのでしょう。逆にサムエル記下4章4節の「(彼は)足が不自由になった」は、「足をひきずる」という意味を採ったのです。前者の飛び越える/覆う/守るがヘブライ人たちの救いとなったということは理解しやすいものです。それは暗闇の災いの時に「イスラエルの人々が住んでいる所にはどこでも光があった」という事態と重なります(10章23節)。ヤハウェがヘブライ人たちの家だけを覆って守っているからです。
丁寧な読み解きが必要なのは、なぜヤハウェが足をひきずることが救いをも意味するのかということです。ある学者は、「ヤハウェが足をひきずるということは、踏みつけにする力が弱くなることを意味するので、ヤハウェによる負担の軽減、救いが連想される」と説明します。この仮説は考慮に値します。なぜなら、わたしたちが罪とは隣人を踏みつけにする行為と考えるからです。また、わたしたちが常に健常者をモデルにして神の姿を思い浮かべるからです。しょうがい者差別を温存し助長する体質が教会にさえ現在もあります。
わたしたちはエジプトを力強く裁くヤハウェが、ヘブライ人たちの家の入口の前でだけは足をひきずりよろめくという姿を想像しなくてはいけません。聖書はそのような足の不自由な神の姿を描き、わたしたちの「強い神」観を揺さぶります。それはエジプトによって踏みつけられたおのれの民を、これ以上踏むことができずに守る神です。十字架に磔にされたイエスがその傷を抱えたままでよみがえらされ弟子たちに見られたとき、わたしはふらふらしていたと思います。足の骨も砕かれていたからです。その方の息にすべての罪を赦す力・永遠のいのちがありました。
ヤハウェは足をひきずりながら(パサハ)エジプトを「巡る」(アバル)のです(23節)。アバルの複数名詞形はイブリーム、ヘブライ人という意味にもなります。エジプト人に鞭打たれ足が不自由になった奴隷もいたことでしょう。そのイブリームの一人となって、ヤハウェはエジプトを巡ります。このことは神と相撲をとったヤコブ(別名イスラエル)が、それ以降の人生で足をひきずる者となったことと対応しています(創世記32章32節)。神に過ぎ越され救われた者は、同じような神の似姿・神の子とされ、踏みつけにされている隣人を過ぎ越し・隣人と共に弱さを抱えながら支え合う人生に変えられていくのです。ヤコブが踵で隣人を踏みつける生き方から、変えられたのと同じです。十字架と復活のイエス・キリストに救われた者が、二度と誰をも犠牲にしない生き方へ悔い改め、パンを分かち合う生き方へと変えられたのと同じです。
わたしたちの礼拝全体は過ぎ越しの神への感謝であり、神の求める小さな生き方への小さな修正です。いつもお勧めする「小さな生き方の提案」とは、「小さな生き方」の提案でもあり、小さな「生き方の提案」でもあります。
「なんで礼拝をするの」と子どもが尋ねるとき、神さまがわたしたちを救ったからと答えます。「救いってなあに」と子どもが尋ねるとき、わたしたちは自分が神に救われた経験や、今救われている現実や、これから救われるという希望を答えることになります。その時自分の神像が現れます。ナザレのイエスをどのような方として信じているのか、聖霊の神とどのような仕方で共にいるのか、イエスがアッバと呼ばれた神とは誰なのか、自分の言葉で・しかも子どもが分かる言葉で語らなくてはいけません。
バプテストのキリスト信徒にとって、このようなその場その時の即興の信仰告白こそ、教理や信条以上のものです。子どもと一緒の礼拝は、子どものための礼拝というだけではなく、このような即興の問いと答えに満ち溢れた、わたしたち全体を鍛え上げ練り上げる礼拝です。
「なんで賛美するの」「なんで祈るの」「なんで聖書を読むの」「なんでパンとぶどう酒を口にするの」などの、個別の儀式を尋ねることもあるでしょう。答えの幅は限りなくあります。「みんなで歌うと気持ちいい」や、「祈ると苦しい気持ちが軽くなる」「いつも新しい神さまのすがたを教えられて、気分が新しくなる」「お腹がすいていたのが、ちょっとなおった」などなど、自分の頭で考えることが必要です。
いずれにせよ方向性は決まっています。「イエス・キリストという神がわたしを救った」ということに対してふさわしい応答であることが、礼拝の全体と部分に求められています。イエス・キリストの振る舞いに似ている行いをすることが礼拝というものです(27節末尾、民はひれ伏して礼拝した)。
今日の小さな生き方の提案はキリストに似た礼拝をすることです。キリストが毎食時に感謝し賛美したように賛美を歌いましょう。弱さを吐露したように祈りましょう。聖書を説き明かしたように聖書を読み・聞きしましょう。共に食べたように食卓を囲みましょう。低い姿勢で神を崇め、人を踏みつけず過ぎ越し尊重しましょう。それこそわたしたちのなすべき霊的な礼拝です。