それを聖別するために、安息日を覚える。六日間あなたは働き、あなたのすべての仕事を行うだろう。そして第七の日は、あなたの神・ヤハウェのための安息日。あなたはすべての仕事を行うはずがない…(直訳風私訳)
今日は「第四戒」です。少しずつ進めながら、適宜十戒の全体に関わることがらも紹介しています。十戒は八つの否定文と、二つの肯定文から成ります。今日の箇所と来週の箇所が肯定文です。これが全体に関係する情報です。一見明白に肯定的・前向きな教えが、第四戒と第五戒には記されています。
今日の箇所「安息日を覚える(新共同訳「心に留める」は少し冗長)」は、命令形ではありません。ヘブライ語文法で言うと不定詞独立形というものが使われています。何が不定なのでしょうか。主語が誰なのか、また動作が完了しているのかどうかが定まっていない、曖昧な言い方なので不定詞と呼びます。命令の代用とも採れますが、「あなたは覚えよ」とは訳せないものです。
さらに細かいことを言えば、後半部分を新共同訳のように「これを聖別せよ」と訳すのは難しいのです。ここは不定詞合成形が使われています。英語のto不定詞の副詞的用法と同じです。「それを聖別するために」という翻訳が素直であり、それ以外の訳は困難です。たとえば英語の欽定訳やNASBは to keep it holyと訳します。これで直訳です。8節は全体に不定詞が使われ曖昧な言い方で統一されています。この文法上のゆるやかさに要点があります。
もう一つ十戒全体に関わることを申し上げます。十戒には別の版があり、申命記5章6-21節に収められています。出エジプト記版と申命記版はほとんど同じです。しかし著しい違いが第四戒と第十戒のみにあります。だから、第四戒を取り上げている本日、両者の違いにも留意したいと思います。申命記5章12節と、同14節後半から15節をお読みします(289頁)。
大きな違いは二点です。一つは、安息日を「守る」と申命記版がしていることです。もう一つは、安息日規定の理由付けの部分です。出エジプト記版は、天地創造のしめくくりの神の休みが理由です。申命記版は、神がエジプトの奴隷を解放したことが理由となっています。このような差異がある場合には(福音書を読んでいる場合にもあてはまりますが)、現在共に読みすすめている版を重視しながら解釈していく姿勢が必要です。申命記版を参考にしながら、出エジプト記版を重視して読み解きましょう。
安息日に行うことが期待されている行為があります。それは神を礼拝することです。「安息日を守れ」という命令は、「毎週の礼拝を絶対に厳守せよ」という意味で用いられがちです。その理解を申命記版は補強します。さらに、神の救いという「仕事」が理由付けとなるので、「安息日は何事かを行う日」という理解の根拠にもなりやすいものです。申命記版は「忙しい日曜日」を促します。
しかし、安息日は守るものなのでしょうか。わたしたちもしばしば「礼拝を守る」、「主日礼拝を守る」と言います。本当にそれで良いのでしょうか。また、礼拝ならばまだ理解できるとしても、礼拝の前後にさまざまな会議や集会、勉強会がある時に、それらを守ることが本当に休みや安息になっているのかが、改めて問われなくてはいけません。安息日は人のために定められたのであって、人が安息日のためにあるのではないからです(マルコ2章27節)。
出エジプト記版は、「安息日を覚える」とあります。動詞ザカルは、「思い出す」という意味をも持ちます。実際の行為を伴う「守る」よりも、ゆるやかな概念です。思い浮かべるだけで良いからです。心の問題であるという点で、第十戒「欲しがる」と関連しています。安息日を覚える/思い出すことの理由付けは、神の休みにあります。天地創造の際、神は六日間勤勉に働いたのだそうです。一所懸命に労働したということもあって、神は七日目にゆっくりと休まれました。この日だけは特別な日であり、「自分へのご褒美」として記念しました。「主は安息日を祝福して聖別された」(11節)というのは、神にとって安息日が自分へのご褒美であるということです。七日目は、「ヤハウェのための安息日」(10節、私訳)です。第四戒は天地創造を懐古する神の述懐です。
自分へのご褒美として他の曜日と区分するために、安息日を思い出すことが求められています。自分のために休むことが安息日の趣旨となります。安息日は人のために定められたからです。「働き者の神と同じように、あなたも六日の間働く。そうであれば自然に七日目はあなたのための安息日。あなたはいかなる仕事もするはずがないだろう」ということが第四戒の趣旨でしょう。のんびり休むことが大切です。
この内容のゆるやかさが、文法に影響しています。きちんとした定動詞を用いて、「あなたは安息日を守れ」「あなたは必ず礼拝せよ」と書けなかった事情はここにあります。厳しい命令を課す時に、のんびり休むことの趣旨が失われてしまうからです。軍隊で、上官に「休め」と命じられると、肩幅程度に一斉に足を広げます。あの強制的な行為は、通常考えられる「休み」ではありえませんが、上官は「休め」と発します。倒錯した表現だと思います。その類の倒錯です。日曜日をできる限りひまに過ごすことは、第四戒の趣旨にかなっています。安息日は覚えるぐらいで丁度良いのです。
歴史的には、安息日規定は二種類の方向に枝分かれして理解されました。一つの方向は、「何もしない日」「日常を断絶させる日」という流れです。イエスが批判したユダヤ教徒がその典型例です。ここでいう「仕事」が何に当たるかを厳密に列挙して、それらをしないことに血道を上げるのです。たとえば、「調理は仕事にあたるから、安息日の前に二日分調理をする」などの決まりをつくるわけです。または「歩く行為も度を過ぎると仕事になるので、800メートル以上は歩いてはいけない」などの決まりもつくります。
これは皮肉です。十戒の中の数少ない肯定文なのにもかかわらず、第四戒を基にして「してはいけないリスト」をつくりだしているからです。確かにユダヤ教徒たちの安息日に対する真剣な思いには敬意を表したいとは思います。安息日を「時間にそびえる宮殿」として、その24時間を非日常の時間帯として取り分けている敬虔さには心打たれるものもあります。その敬虔さはキリスト教にもイスラム教にも継承されています。日曜日に絶対に仕事をしないと決めているキリスト者もいます。尊敬には値しますが、そこまでのおすすめをわたしはしません。「してはいけない」という禁止命令は、人を萎縮させるからです。それは消極的な生き方を推し進めています。
もう一つの方向は、安息日に礼拝と加えてさまざまな活動を行うという流れです。日常と異なる活動ならば、それは休みにあたると考えるわけです。この傾向は、プロテスタントの中のバプテスト派に最もよくあてはまります。17世紀に英国で誕生したバプテストは、民主主義の旗手でした。心の自由を訴え、政教分離と自治の精神で英国国教会から飛び出し、自分たちのしたい礼拝をつくりあげたからです。そして自分たちで牧師を選び、給料を払って雇用しました。バプテスト教会は「民主主義/自治の幼稚園」です。
自治は尊いものですが、その分だけ会議が増えました。すべてを自分たちで決めるのですから、日曜日の午後に会議を開く機会が増えました。さらにアメリカのバプテスト教会は、識字運動・反貧困運動の一環として教会学校を始めます。礼拝前の時間も忙しくなりました。日曜日は「何かをする日」です。
忙しさの遠い原因として、バプテスト教会が初代教会と同じく、非合法だったこともあるかもしれません。平日に地下で礼拝をすることもあったことでしょう。そうなると、「礼拝をする日に何もしない」という発想は育ちにくいものです。
こうしてバプテスト教会の日曜日は、人によっては平日以上に忙しくなるという事態が起こっています。それで良いのかと思います。休むという大切な趣旨が完全に埋没してしまっているからです。特に深刻なことは、教会員の連れてくる子どもたちに対する配慮がないことです。息子も娘も、男女の奴隷も、家畜も、寄留者も、一緒に休むということができなくなることがあります(10節)。両親ともに教会の奉仕に熱心である場合を考えてみましょう。子どもは大人の礼拝中や、さまざまな会議の間中、また大人の勉強会の間中退屈を余儀なくされます。親を教会に奪われた感覚です。仮に大人たちが奉仕に忙しいことを「質の異なる休み」と考えたとしても、子どもにとっては全然休みになっていないでしょう。家族全体の休みということも、安息日を覚えることの趣旨です。
家族中の休みの根拠は神にあります。天地の創造主である神は、天を家とし、地と海に住むすべてのいのちを家族となさっています。この全体の休みが安息であり、全体の安息のために安息日が定められたのです。安息日は人のためにも、その他のいのちのためにも定められました。地球という家族中で休むためです。わたしたちは被造物たちとのんびりと過ごす神を想像できるでしょうか。
まとめて言えば、日曜日は「禁欲的に礼拝以外をしない日」でもなく、「世の中と同じく礼拝以外のことをあれこれとする日」でもありません。家族で休む日です。礼拝を行うことで休み、たまの休日を家族でのんびりと過ごし、地球全体に休みを与える日です。
クリスマスによく読まれる聖句を紹介します。イザヤ書11章6-8節です(1078頁)。ここに安息日の理想が描かれています。これこそ、わたしたちの安息日礼拝が目指す目標です。
今日の小さな生き方の提案は、日曜日を有意義に過ごすこと・礼拝で休むこと・休みとなるような礼拝を行うことです。大前提として、礼拝前後になるべく予定を入れないことです。家族で世田谷公園に行ったほうが良いからです。
その上で、礼拝をする人々の心構えと、礼拝の内容を吟味してみましょう。真面目なことは良いことですが、生真面目なことは時々罪つくりです。「絶対に礼拝を守るべき」とまで思いつめなくて構いません。どうしても抜けられない仕事がある場合、そのふとした時に「今、礼拝の頃かな」と思い出すだけでも、大したものです。安息日を覚えているからです。
礼拝に参加している時には、これは自分へのご褒美と思ってください。「一週間お疲れ様」と言う、神さまからのねぎらいを感じてください。礼拝は分刻みの進行表で几帳面に進めば良いというものでもありません。「礼拝を守る」ではなく、「礼拝によって神に守られている」ことを実感するのです。
だから礼拝の内容は家族みんなで過ごせるものであり、どんな人をも歓迎できるものでなくてはいけません。わたしたちの教会はこの理想に向かっています。日本バプテスト連盟の中では少し変わり種かもしれません。しかしこうして仲間が増えている現実に、わたしたちは自信をもって良いでしょう。