前半の言葉は(43-45節)、その人の行いからその人の心が知られるという譬え話です。後半の言葉は(46-49節)、イエスの言葉を聞いて行う人は困難があっても動揺しないという譬え話です。どちらも厳しい教えです。結果を問うているからです。結果によって人は良い人か悪い人か、イエスの言葉を聞いて行う人か聞いても行わない人かが判断されるというのです。
「結果が全てだ」「結果を出せ」と仕事場や学校で言われ続けているわたしたちにとって、聖書を開いても同じようなことを言われることは辛いものです。教会に来たら学校や職場のことを忘れたいし、ほっとしたいというのが正直な感想でしょう。「努力の結果が今は出ていなくても、神さまは努力している過程を見ている」と言われたいでしょう。わたしたちは本能的に慰められることを求めて、教会の礼拝に集っています。自分の望んでいる慰めを得られなければ、「今日の礼拝は恵まれなかった」と愚痴をこぼしがちなものです。
新約聖書でしばしば「慰め」と訳される言葉はギリシャ語パラクレーシスです。「傍らで呼ぶ」(動詞パラカレオー)という意味合いです。この言葉には大きく二つの意味があります。能動の意味では「励ます(勧める、求める)」、受動の意味では「慰められる」です(24節)。同じ動詞から派生した人間を表す名詞にパラクレートスがあります。霊である神を表し「助け主」「慰め主」「弁護者」と訳されます(ヨハネ16章7節)。本当の意味の慰めとは何かがここで教えられています。
人が独りで生きるのは良くないものです。傍らで自分の名前を呼んでくれる方が必要です。それは復活のイエスの霊である聖霊の神です。その呼び掛けは、深い慰めを与えてくれます。しかし、その内容は常に「あなたはそのままで良い」とは言いません。勧めがあり求めがあります。「次の一歩を進め」という励ましがありえます。十字架の神は、うずくまり一歩も動けないわたしたちの傍らで共に人生の十字架を担い、腰を屈めてくださいます。そして、復活の神は、一人では立ち上がれないわたしたちと肩を組み、下から起き上がらせて、人生を共に前へと歩ませてくださいます。
励ましは慰めを含むし、慰めは励ましを含みます。十字架と復活の主イエス・キリストにあってわたしたちはそのように信じ、日曜日の礼拝に臨むことができます。だから、厳しめの言葉の中にも慰めを受ける可能性を常に信じることができます。「そのままではだめだ、次の一歩を踏み出せ」という励ましを、素直に聞くことも時に大切なのです。
悪い実は悪い木からしか結ばれません。木はそれぞれその結ぶ実によって分かるものです。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは採れません(43-44節)。「実」は「行為の結果」という意味です。その最大の例は、人の語る言葉です。良い言葉を言う人は、良いものを入れた心の倉(「宝」の意)から、その良い言葉を出しています。人の口は、心からあふれ出ることを語るので、言葉によってその人の心が良いか悪いか分かるわけです(46節)。だから、「心にもないことを言ってしまった」という類の言い訳は成り立ちません。それは無責任な言い訳です。すべて人は自分の心にあることを言うものです。ひどい言葉を言う人は、ひどいことを考えているから言うのです。
自分が悪い言葉をよく使う人は、ぎくっとします。厳しい教えだと感じます。逆から見てみたらどうでしょうか。良い言葉をたまにでも使う時、わたしたちは自分を褒めて良いということになります。また、良い言葉を使う人に出会った時、わたしたちはその人を素直に良い人だと考えて良いのです。その人は、自分の心の宝から、わざわざ良い言葉を取り出して、その宝のような言葉をみんなに披露したのです。その人の良心を褒めるべきです。
ここにおいてもやはり励ましは慰めを含んでいます。良い言葉を使う時にわたしたちは正当に評価されるのです。ではどのような言葉が、いちじくやぶどうの実に譬えられる「良い言葉」なのでしょうか。ガラテヤの信徒への手紙5章22-23節に「霊の結ぶ実」が列挙されています。愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・柔和・節制という九つの実です。愛を示す言葉・喜びを表す言葉・平和を創り出す言葉・寛容で広やかな言葉・親切な優しい言葉・善意から出る言葉・柔和で柔らかな言葉・誠実で真面目な応答の言葉・日頃の節制がにじみ出る抑制の効いた言葉。イエス・キリストの語った言葉が正にこれらの九つの実にあたります。「あなたの敵を愛しなさい」「自分のしてもらいたいことを人にもしなさい」。
このような九つの実を結ぶ言葉が求められています。世界は良い言葉を求めています。米国の大統領選だけが問題ではありません。トランプだけが暴言王なのではありません。暴言を「良し」とする多数がいるからこそのトランプ現象であり、日本においても同じ状況があることを気づかなくてはいけません。わたしたちは悪い言葉を使う人は悪いのだという単純な教えに従うべきであり、人は自分の言葉に責任を負うべきなのだという単純な教えに従うべきです。
わたしたちは、良い言葉を用いて悪い言葉を使う人を教え諭さなくてはいけません。「汚い言葉・誹謗中傷・差別表現は許されない」ということを自分に向かって戒めながら、他人に向かってはなぜいけないのかを聖書に基づいて教える必要があります。良い言葉を使うことが良い生き方なのだと伝えなくてはいけません。そのような仕方で「責任をもって語る生き方に価値がある」ということを粘り強く、いい加減なことを使う人々や世間に対して、説得していかなくてはなりません。
良い言葉を使うことが求められる理由は、わたしたちが「主よ、主よ」と呼んでいるからです(46節)。「主よ」という呼びかけは、賛美歌の中にしばしばあります。最古の信仰告白は「イエスは主である」というものだったと推測されます(ローマ10章9節、フィリピ2章11節、使徒言行録10章36節)。その短縮形が「主よ」という呼びかけです。ナザレのイエスがキリストであり、自分の救い主であり、世界の主であるということを大前提にして、信者は「主よ(キュリエ)」と呼ぶからです。イエスを「主よ」と呼ぶ人は、キリスト信徒のことです。キリスト信徒はキリストの後ろに従いキリストに倣って良い言葉を使うことが求められ勧められています。
信徒にとって良い言葉はキリストが語った言葉です。わたしたちは聖書を通して良い言葉を毎週聞きます。「福音(良い知らせ)」と言っても良いでしょう。この良い言葉を語る時に、信徒はイエスの言葉を聞いて行う人となっています(47節)。
イエスの言葉を聞いて行う人は、「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人」に喩えられます(48節)。それに対して、イエスの言葉を聞いているのに行わない人は「土台なしで地面に家を建てた人」に喩えられます(49節)。この両者の違いは何でしょうか。
少し考えていただきたいのですが、土台なしで地面に家を建てる人が存在するでしょうか。マタイ福音書では「砂の上に家を建てた愚かな人」となっており、さらに非常識な人物像が批判的に描かれています(マタイ7章26節)。ありえない人です。東南アジア諸国に存在する川の上に家を建てる文化や、エスキモー・イヌイットなどの氷上に家を建てる文化とは異なります。パレスチナや日本でも土台を据えること・基礎を打つことは建築の基本です。この喩えの要点は、常識と非常識の対比にあります。イエスの喩えにはこのような極端な比較がよくあるのです。
信徒にとってイエスの言葉を聞いて行うことは常識の部類です。聞いても行わないことは非常識の部類です。そして常識を常識として、イエスの言葉を自分の立ち居振る舞いとする生き方には揺るぎない価値があります。この常識は世の中の常識とは異なります。世の常識と逆の振る舞いもありえることに注意は必要です。ただし常識なのですから、そこまで特別の努力がなくても周りの雰囲気によってできるようになります。例えば、わたしたちの文化では家の中で靴を脱ぎます。日本では常識です。いつからこの常識を身につけたのでしょうか。自分では覚えていないほど小さい時から何回も繰り返す中で、また周りの皆がしていることを真似した結果染み込んだ文化的伝統です。
ここにも励ましの中に慰めがあることを確認できます。「実現困難な高邁なイエスの言葉を聞いて行いなさい。さもなければ人生の苦難にさらわれるぞ」という警告・勧告の中心には、「あなたたちはイエスの言葉を常識として身にまとっている。キリストを着ている。力まなくても良い言葉を用いることができる」という神の人間への信頼・慰めが確かにあります。神は蒔かないところから刈り取るような酷な方ではありません。
教会が良い言葉に満たされている時、その中にすっぽりと包まれているわたしたちは、良い言葉で対話することを当然の常識として身につけます。「主よ、主よ」と賛美歌を歌うとき、わたしたちは良い言葉に包まれ、良い言葉を口ずさんでいます。誰も同時に賛美の言葉と呪いの言葉を、同じ口から発することはできないものです。この雰囲気の中で知らず知らずにわたしたちは地面を深く掘り下げる地味な作業を行い、土台を据えて人生を建て上げているのです。「しっかり建てる」の直訳は、「良く建てる」です(48節)。より良い人生の喩えとして語られていることが分かります。
自分自身が話すことが好きなお調子者なので申し上げにくいのですが、教会のひとつの理想は黙って礼拝だけ出て、誰とも話さないで帰るということにあるようにも思えます。言葉を発するという行為は、罪を犯す可能性を高めます。罪を犯すぐらいなら賛美歌だけ歌って、主の祈りだけ祈って、アーメンとだけ言った方が安全でしょう。それによってより良く生きる土台がどんどん大きくなるように感じます。霊性が深まるのです。
「川の水」は人生の苦難の喩えです(48・49節)。自分の存在そのものが流されるほどの危難です。その時、良い言葉が土台として蓄えられているなら、何とか持ちこたえるかもしれません。良い言葉が、自分の心の中に宝として収まっているなら、危機の時にも品位を保つことができるかもしれません。ここにキリスト者として生きる利点があります。
逆に言えば、人生の危機に乱暴な言葉はわたしたちを助けません。自暴自棄の手伝いになるだけです。そうです。わたしたちはどのような苦しみにあっても自棄になって自分の人生を棄ててはいけないのです。「そのままで良い」という慰めだけでは済まない問題が、ここにもあります。自暴自棄の状況は、決してそのままで良くないし、そこから脱さなくてはいけないからです。
今日の小さな生き方の提案は良い言葉(福音)を自己の内深くにためることです。人間の記憶力・心の倉には限界があります。良い言葉が悪い言葉を追い出していきます。慰め・励ましが土台となり、悪が横行している時に正義と愛を語り、苦難に直面している時に神に祈ることができるようになるのです。