今日は、「神は聖である」ということがどのような意味なのかを、考えたいと思います。神の性格として「聖」というものを強調するのは、旧約聖書の特徴です(イザヤ6章3節他)。レビ記(19章2節他)と出エジプト記の中にも、「聖」「聖なる」「聖別する」(10・14・23節)など、一連の単語が多く使われています。すべてヘブライ語でq-d-shという語根からの派生語です。
バプテストの教会は「聖」という単語を批判してきました。「聖餐式」と呼ばずに「主の晩餐式」と言います。「聖日」と呼ばずに「主日」と呼びます。牧師職も身分としての聖職なのではなく、一職業と捉えます。「貴族あるところに賤族あり」だからです。宗教的な清さがあるところに宗教的な穢れがあります。イエスも指摘するとおり「聖」はきわめて胡散臭いものです。「神は聖なる方である」という考えは確かに古臭いものですが、現代に通じる意義もあると思います。そしてまた、イエスの「聖」に対する批判や、教会の贖罪信仰を理解するためには、イスラエルが「聖」(と「罪」)をどのように考えていたかを知っておいたほうが良いでしょう。
「聖」の語源には「区別」があります。神は人間とは区別されるべきという主張がここにあります。シナイ山の周囲に境を設けることは、神と民との区別です(12・23節)。その区別は程度問題を超えた重大な差です。正反対のものとして、神と人(および家畜)が考えられています。すべての人は宗教的に汚れている一方で、唯一神だけが宗教的に清いとされます。
衣服を洗わなくてはいけないのは、人間が神と異なり汚いからです(10・14節)。性差別を含む言い方ですが、「女に近づいてはならない」(15節)ということは、性交渉が宗教的に汚いとされていたからです。汚い者が境界線の内側の、聖なる地域に入ることは許されません。聖なる神を汚すことになるからです。古代イスラエルは人間の罪というものを極めて深刻に捉えていました。
この禁止命令を破る者は死ななくてはなりません(12-13・21-22・24節)。理解しがたいほどに激しい罰則です。罪の支払う報酬は死なのです。しかも聖なる神ご自身が自分の民を殺すと考えられています(22・24節「主が彼らを撃つ」。なお12章も参照)。死刑執行人が神であるというのです。死刑制度賛成論者でさえも賛成しにくい内容です。
この神は人間から遠い神です。その遠さは愛のゆえです。距離を保たないと人間を殺してしまうからです。そのこととも関係して「神を見る人は死ぬ」とも信じられていました。神は恵みとして「濃い雲の中に」(9・16節)います。山全体も「煙に包まれ」(18節)、神は見られないように現れるのです。天変地異も神の超絶さを示す演出です。雷鳴と稲妻という天からの嵐と、火山の鳴動と地震という地からの揺さぶり(16・18節)。この神は遠い神です。そしてそれゆえに聖なる神です。
古代の人々は山の山頂で神に出会えると考えました(20節)。それは神の遠さを前提にしています。山頂は天と地の結節点です。地上で一番天に近い地点です。罪深い人間社会に最も離れている場所です。角笛を吹き鳴らすことだけが、山に入り山頂を目指す人を暫定的に「聖なる存在」に仕立てます(13・16・19節)。山のふもとに残った人々は、山登りをするモーセとアロンのために(24節)、必死で長く角笛を吹き継いでいったことでしょう。
日本の山岳信仰に似たものがここにあります。神と出会うためには、非常に高いハードルをいくつも越えなくてはなりません。それほどに人間の罪は深いということを言いたいのでしょう。また、人は決して神のようになってはいけないということをも言いたいのでしょう。唯一神だけを聖なる方として崇めなくてはいけないのです。すべての人が罪人だからです。
聖なる神への信仰は、人間が罪人であるという反省と一体のものです。信仰は人間に謙虚さを求めます。この点は現代に十分通じる教えです。独裁者を見るときにわたしたちは神をも恐れない傲慢さを思い起こします。「憎むべき破壊者」(マルコ13章14節)を、神の位置に立たせてはいけません。
また科学技術への過信も問題でしょう。原子力(核分裂反応)の恐るべき力を人工的に引き出すことは、神の領域に踏み込むことだったと思います。わたしたち人間は、聖なる領域の設定を間違えてはいないでしょうか。角笛なしに、神の山に登ってはいないでしょうか。信仰は反知性主義なのではありません。真の知性は謙虚さを兼ね備えているからです。「聖」という言葉は、現代人に謙虚さを取り戻させるきっかけを与えます。
さてその一方で、イエスが「聖」に対して果敢に挑戦をしたことをも考え合わせなくてはいけません。そして教会も、「自分たちの組織を聖なるものとみなす」という過ちを時々犯しながらも、「聖」ということがらに対しては、発生の時から今に至るまで真面目に取り組んでいます。神は愛です。神は愛をもってすべてのいのちを創造し、すべてのいのちを救い出します。だから神は愛です。その神が自分に近づきたいという自分の民を殺すというのは、どう考えても行き過ぎです。また、罪を帳消しにするために、動物犠牲などの儀式を数多く必要とすると考えるのも、行き過ぎです。
しかもイエスの時代、自分は聖なる人間だと思い上がっている祭司たちが、大量の法律違反の罪人を作り出していました。その方が支配階級である祭司たちにとって、都合が良かったからです。貧しい人を「罪有り」と判定することで、さらに踏みつけにして合法的に搾取できたのです。どちらの方が罪深いのでしょうか。イエスはあえて「罪人」の仲間・友となり(マルコ2章13節以下)、「聖職者」たちを公然と批判しました。徴税人・娼婦・罪人の方が先に神の国に入るのです。イエスの信じ従う神は、聖なる方ではなく愛の方です。この言行によってイエスは政治犯として(ユダヤ人の王と僭称)、また、神を冒涜した罪を被せられ(神の子と僭称)、ゴルゴタの丘で処刑されました。
イエスを殺した祭司たち、律法学者たちは、今日の箇所に忠実でした。彼らから見れば、神の子と名乗るイエスは、神の山に登ろうとして無断で神の山に入った無法者です。祭司だけに許された「罪の有無の判定」を自らし、衣服も手も洗わず、汚れた者と触れ合い食事を共にし、多くのタブーをあえて破っています。このような不届き者は木に架けて処刑されるのが当然です(申命記21章23節)。
イエスの弟子たちはシナイ山の情景を重ね合わせながら裏返して信じます。唯一罪の無い、聖なる神ご自身が、祭司たちを初めとする罪深い者たちによって殺されたと考えます。汚れた者が神に触れたから殺されたのではなく、聖なる神が罪人たちに触れたから殺されたと信じます。イエスは下から十字架を担いでゴルゴタの丘を登りました。十字架に架けられた時に全地は真っ暗になりました。殺された時には地震も起こりました。汚れた存在とされていたローマ兵百人隊長が、聖なる信仰告白をします。シナイ山で締め出された女性たちが、最後まで神の子の死を見届けます。ゴルゴタはシナイの裏返しです。
イエスの男性弟子たちは、自分たちの罪について深刻に反省しました。ペトロを筆頭として、彼らはイエスを裏切り否定し見捨てたからです。彼らは祭司たちと同じ罪が自分たちにあることを思い知りました。積極的に殺そうとしなくても、消極的に見殺しにするならば、結局同じです。「悪を前にして、善人の沈黙が最も罪深い」とキング牧師が語る通りです。聖なる方を殺した罪を悔いる後悔。弟子たちは悩み苦しんでいました。
そこへ復活のイエスが現れます(ヨハネ20章19節以下)。神に会うための「三日目」(11・15・16節)は、三日目によみがえらされたイエスと重なり合います。復活のイエスは、証言能力が無いとみなされていた女性弟子たちに現れました。次いで男性弟子たちに現れ、彼らが謝る前に「あなたたちに平和があるように」と語りかけ、無条件に赦し、聖霊という息を吹きかけます。この聖霊は神ご自身です。その息を吸い込んだ者の中に神が住みます。弟子たち一人ひとりが「神の山」となるのです。シナイ山に降られた神は、一人ひとりの内側に降られました。使徒言行録によれば、一人ひとりに聖霊が降った時に、「激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ」たそうです(使徒言行録2章2節)。この情景はシナイ山の雷鳴・嵐と角笛の轟音と重なっています。遠い神が、近い神となりました。
この体験が贖罪信仰を生みます。イスラエルの伝統に根ざして、弟子たちは罪というものを深刻に考え、聖なる神という信仰内容を継承していました。その上で、イエスのいのちだけが罪人を聖別する力を持つと信じました。「聖なる神がやはりイエスを殺した、しかしそれは別の意味で殺したのだ」と信じました。イエスだけは罪が無い神の子なのですが、罪があるから殺されたのではなく、全世界分の罪を十字架で背負って殺されたと信じたのです。それは神に出会うハードルを限りなく低くするための行いです。
十字架は罪を教える最後の犠牲であり、復活は罪人を赦すいのちの分配です。すべての人間は罪があるままに、「罪赦された罪人」とされます。神と神の子と神の霊の共同作業によって、人間たちと無関係に罪が赦されてしまったのです。もはや罪を清めるために衣服を洗う必要はありません。聖霊が内に住むことによって、わたしたちはイエス・キリストを着るのです。もはや限られた人々が山に登って神に出会う必要はありません。わたしたち普通の人が、イエス・キリストの名を呼び、名を通して祈り、名を賛美する時に、復活のイエスと出会うことができます。今がその時です。わたしたちが礼拝をしている時に、誰か神に殺されたでしょうか。そんなことはありえません。
今日の小さな生き方の提案は、謙虚さを身に付けるということです。それは人の生き方として正しいものです。「すべての人には罪がある・神のみが聖なる方である」という表現は、わたしたちに知性・理性・品性を求めています。教会の教える「罪」とは、刑法上の犯罪を含む場合もありますが、もっと広く・深く倫理的なものです。心の中の卑劣さまでも含むからです。この意味の罪を知り、神の前に良心に照らし合わせて謙虚になることが必要です。
それと同時に、罪がすでに赦されているということを知ることもお勧めいたします。罪の自覚というものを突き詰めすぎると心の病を引き起こしかねません。わたしたちは、年間自死者3万人以上の異常社会に住んでいます。謙虚さを保つ程度の罪の自覚で十分です。自己否定にまで至ってはいけません。不要の卑下もまた正しくないのです。
神の領域を侵さなくても良い理由は、神がわたしたちの中にすでに住んでいるからです。わたしたちはただ「ナザレのイエスよ、わたしを憐れんでください」と叫ぶことや、「わたしのことを思い出してください」と願うこと、「ただ言葉だけをください」と頼むことで十分です。聖霊が宿って、そのような信仰告白を語らせ、その信によってわたしたちは救われます。こうしてわたしたちは自信と尊厳を取り戻し自由に生きることができます。罪赦された罪人は謙虚でありながら堂々と生きている人です。全ての人がそこへと招かれています。