左の頬をも マタイによる福音書5章38-42節 2025年8月24日礼拝説教

【はじめに】

本日の箇所は「反対命題」シリーズの五つ目です。第五反対命題は「目には目、歯には歯」という旧約聖書の律法を批判しています。いわゆる「同害復讐法」は、復讐を是認しているように読めます。「旧約の神は復讐の神、新約の神は寛容の神」という短絡の根拠聖句です。まずは旧約聖書に書いてある法律の趣旨を正しく捉えるべきです。その上で本日の箇所の意義を考える二段構えが大切です。なお、ルカ福音書6章29-30節と比べると、旧約聖書の引用はマタイ教会の付け加えであることが分かります。「マタイ福音書編纂委員会」のうちの「旧約担当チーム」の仕事です。

旧約律法の中に三か所「同害復讐」が規定されています。出エジプト記21章23-25節、レビ記24章19-20節、申命記24章12-13節です。これらの条文は他の諸条文に紛れていますから、復讐が旧約聖書全体の中心的原理となっているわけではありません。さらに、同害復讐法は旧約聖書以外にも見られます。それらに一貫している元来の趣旨は、報復の連鎖や復讐の拡大再生産を止めるというものです。一つの目を潰されたら、相手の二つの目を潰すことは行き過ぎである、それをすると報復の連鎖は止まらなくなるということを戒めているのです。「目には目」(口語訳、岩波訳。ギリシャ語の直訳ではある)という含みではなく、「目には目のみで」という含みです。

有名なハンムラピ法典も、紀元前18世紀という昔にバビロンにおいて同害復讐を規定した法律です。そしてハンムラピ法典においては、人間に格差がつけられており、「賎民(ムシュケヌム)」や「奴隷(ワルドゥム)」に傷を負わせた「自由人(アウィルム)」は、同じ傷害を受ける罰を受けません。金銭で済まされます(196-199条)。それに対して旧約律法は「各人」(イーシュ)全員に等しく同じ同害復讐を課しています。千年を経て人類は進歩しているのです。

それならば旧約律法を守っていれば良い生活を過ごせそうです。ところが、そう上手く運ばない場合があります。法の外の存在、国内法よりも上の存在、つまりローマ軍というユダヤ人にとっての「災害」です。

 

38 あなたたちは、昔の人たちに以下のことが述べられたということを聞いた。目の代わりに目を。そして歯の代わりに歯を。 39 さてわたし、わたしこそがあなたたちに言う。その悪い者に逆らうな。むしろ、あなたの右の頬の中へと、あなたを平手打ちする者が(いるなら誰でも)、あなたは彼に別の(頬)をも向けよ。 40 そして、あなたを訴えることや、あなたの服を取りたいと望んでいる者に、あなたは彼にその外套をも委ねよ。 41 そしてあなたを一ミリオン〔約1500m〕徴用するであろう者が(いるなら誰でも)、あなたは彼と一緒に二(ミリオン)行け。 42 あなたに求めている者にあなたは与えよ。そしてあなたから借りることを望んでいる者をあなたは拒絶するな。 

 

【目の代わりに目、歯の代わりに歯】

「目には目のみで」という含みが趣旨であると申し上げました。もう少し深掘りすると、ヘブル語原典においては、「目の代わりに目を。そして歯の代わりに歯を」(38節)という具合に、「代わりに」(タハト)という言葉が使われています。それを直訳してギリシャ語の「代わりに」(アンティ)という言葉が使われているので、本日の箇所も「代わりに」とした方が良いでしょう。そうすることによって、「代償」という法の趣旨がはっきりします。「復讐」「報復」の範囲を法律で是認するということではなく、傷害を負わせた場合の適切な「代償」「賠償」が法律で規定されているということです。

償いという考え方は、人間社会を成り立たせる大きな要素です。何らかの罪を犯したのならば、その代償として何らかの罰を受けなければなりません。そうでなければ相手も第三者も、そして本人も納得しません。そのために司法という権力や、警察という治安のための組織や、刑務所という教育施設が必要とされます。償いという考え方を大前提にするからこそ、「償いようのない悪事」の深刻さがあぶりだされます。

わたしたちキリスト信徒は、イエスを殺害した罪を深刻に覚えて日々悔い改めています。誰かに何か酷いことをしたと気づいた時、どんなに小さい悪事でも「またイエスを殺してしまった。償いようのない悪事を繰り返した。わたしは災いだ。罰を受けてしかるべき」と反省します。この謙虚さを常に持ちたいものです。この感覚・霊性は、法の求める倫理以上の倫理です。

 

【その悪い者】

イエスが日常生活の中で直面していた「その悪い者」(39節)とは誰だったのでしょうか。冠詞「その」が付いているので、具体的な誰かを指していると思います。植民地ユダヤにとって、自分たちの法律以上の存在であるローマ軍こそが、「その悪い者」でしょう。ティベリアスという町があります。新約聖書では影が薄いもののガリラヤ地方の中心です。ローマ皇帝ティベリウスに因んでつけられた名前にふさわしく、ガリラヤ地方を占領するローマ軍はこの町に駐留していました。ギリシャ風の競技場もあったと言われます。ガリラヤ住民にとってローマ兵は身近な存在です。

ローマ兵は代償など実施しません。農家から牛を連れて行っても、その代金を払おうともしません。ローマ兵に殴られても、泣き寝入りです。ユダヤ人の法廷で、ローマ兵を殴り返す判決は下りません。ローマ兵はローマの法によってのみ裁かれるからです。ユダヤ人は極めて屈辱的な立場に置かれていたのです。沖縄の人々の境遇に似ます。米軍は「災害」です。

 

【暴力・窃盗・徴用】

右利きの人が相手の「右の頬を…平手打ちする」(39節)ことはどのようにして可能でしょうか。掌ではなく、甲で打つことによって可能です。これはただの平手打ちではないのです。当時、掌を使うよりも屈辱的とされていた甲で相手を平手打ちすることが、ここで描写されています。相手を侮蔑していなければしない殴り方、あるいは無抵抗の相手にしかできない殴り方です。イエスは、圧倒的な上下関係のあるローマ兵に屈辱的に扱われたら、別の頬をも差し出せと言い、更なる被屈辱を求めます。「二つの頬」>「一つの頬」という不等式も成り立っています。

」(40節)は普段着のことです。「下着」(新共同訳他)も兼ねている、上から下までのワンピースです。「外套」(新共同訳「上着」)は、貧しい人たちにとっては寝るための寝具でもありました。だから、旧約律法は「外套だけは全ての人に保障されるべき」と、特別に保護をしています(出エジプト記22章25-26節、申命記24章12-13節)。「外套」>「」という上下関係や、「二枚」>「一枚」という不等式が、ここにもあります。卑劣にも服を奪うローマ兵に遭遇したら、もっと大切な物をも差し出せと言うのです。屈辱的な教えです。

同じように、ローマ兵が「徴用する」(41節)場合、強要された距離の倍を行けともイエスは言います。「徴用する」という動詞は、公権力による強制的な労役のために使われる専門用語です。だから明確にローマ兵によるガリラヤ住民に対する徴用という場面がここで想定されています。ちなみに、同じ動詞はイエスの十字架を無理矢理担がされたキレネ人シモンに対しても用いられています(27章32節)。あの場面もローマ兵が当然のように住民を徴用しているのです。だから、イエスが語る強制的な無賃労働も日常的だったと考えられます。ローマ兵は勝手気ままに、自分が運ぶべき荷物を億劫がって住民に運ばせていたのでしょう。イエスは、この屈辱も倍返しで実践せよと言います。ここも「二ミリオン」>「一ミリオン」という不等式です。

「被屈辱の倍返し」の理由は何なのでしょうか。イエスはローマ帝国の軍事支配を是認していたのでしょうか。そうだとすればこの個所は沖縄の人々には福音となりません。では、イエスは、慈悲と寛容を勧めているのでしょうか。たとえば42節のように、気前の良い人になれと言っているのでしょうか。イエスは、復讐ではなく無条件の赦しを求めているのでしょうか。それにも違和感を持ちます。ローマ兵の狼藉にまで気前良くなる必要がないからです。

 

【逆らうな】

その悪い者に逆らうな」(39節)という理解困難な言葉を、「屈辱に耐えて生き抜け、その方が尊厳を保って殺されるよりもましであるから」という意味に解します。イエスたちが直面していた現実は、ローマ兵に逆らえば即座に殺されるという厳しいものでした。基本的人権が憲法によって守られていない、古代社会の話だからです。ローマ市民以外には権利は保障されないことが普通の社会です。どんなにローマ兵が悪くても殺されたら元も子もありません。これは現代的に言えば「災害」レベルの不幸・不条理な苦しみです。

「生きろ」という命令に深い意義があります。屈辱的に扱われ、殴られ奪われ徴用され殺され続けるユダヤ人強制収容所の現実の中で生まれた「614番目の戒律」と同じ路線を、イエスは勧めていると思います。旧約律法を数えると613の命令があるそうです。大迫害という、個人の力では何ともできない「災害」下、律法を守り信仰を保ち続ける意味を見失うユダヤ教徒たちを励ます言葉が、「意味は問わずにとにかく生きよ。これが614番目の命令として今ユダヤ人教徒に付け加わった」というものです。償わない強者への応答です。

 

【今日の小さな生き方の提案】

現実に立ち向かう気力が出ないことがわたしたちにはしばしばあります。自分に屈辱を与える相手に逆らうことが卑劣な報復を呼び込み、さらなる被屈辱もたらすと思える時、言い逆らう勇気が削がれます。「わたしはこう思う」となかなか言えない場面がありえます。相手の悪さへの憤り、自分の弱さへの嘆き、何のために生きているのかという叫び、これがわたしたちの日常です。

償いという公正な考えを持たない強者・その悪い者に、イエスは「意味を考えずに被屈辱の倍返しをして生き抜け」と言います。悪を行う者はいつか公正に罰せられますが、それだけではなく現在の行為自体がその者に対する罰です。品位がどんどん下がるという罰です。「殴りたければもっと殴れ、奪いたければもっと奪え、運ばせたければもっと運ばせよ。それによってわたしは生き、あなたの魂は死ぬ」。イエスはわたしたちの死ではなく、わたしたちが生きることを願い、わたしたちの人生を応援しています。