平安があるように ヨハネによる福音書20章19-23節 2025年4月20日イースター礼拝説教

【はじめに】

今日は復活祭・イースターの日です。キリスト教の暦において、最古最大の祭日です。そしてイエスが日曜日に復活したということに因んで、教会は創立当初から毎週日曜日に復活のイエスを礼拝しています。イエスは主であると告白し、イエスの名を賛美し、イエスの名によって祈り、イエスの食卓を守っています。今に至るまで、教会はイエスの死を告げ知らせ、イエスの殺害を記念し、イエスの復活を喜ぶために、毎週の日曜日を欠かしていません。あのナザレのイエスが十字架上で殺害され、三日目に神によってよみがえらされたキリストだからです。

本日の箇所は、ヨハネによる福音書版ペンテコステです。ルカ文書(ルカ福音書と使徒言行録の二部作)と異なり、ヨハネ福音書はイエスの復活の直後に聖霊が弟子たちに吹きかけられたと告げています(22節)。復活したイエスが息を吹きかけ、それを弟子たちが吸い込むと、一人一人が生き返り、教会を創ろうという力が与えられたというのです。不思議な話です。そして信仰生活や教会についての大切な教えです。

 

19 それで同じ日に、その週の最初に夕方になりながら、そしてその諸々の戸は閉められたまま、そこにはそのユダヤ人たちの恐怖によってその弟子たちが居続けていたのだが、そのイエスが来た。そして彼はその真ん中の中へと立った。そして彼は彼らに言う。平安があなたたちに。 20 そして彼らはこれを見た。彼はその両手とその脇とを彼らに見せた。それでその主を見た後その弟子たちは喜んだ。 21 それでそのイエスは彼らに再び言った。平安があなたたちに。その父が私を遣わしたままであるように、私もまたあなたたちを遣わしている。 22 そしてこれを言いながら、彼は吹いた。そして彼は彼らに言う。あなたたちは聖霊を受けよ。 23 もしも誰かのその諸々の罪をあなたたちが放置したならば、それらは彼らにとって放置される。もしも誰かをあなたたちがつかまえるならば、彼らはつかまえられたままだ。

 

【それで】

繰り返されている表現は、その段落の鍵となる言葉です。三回繰り返されている「それで」(19・20・21節)と、二回繰り返されている「平安があなたたちに」(19・21節)が、この段落では鍵となります。「それで」は以前にあった何事かの出来事を受けています。「その後で・それだから」という意味合いの順接の接続詞です。本日の箇所の前には、イエスが女性の筆頭弟子であるマリアに現れた記事が書かれています(20章1-18節)。男性の筆頭弟子ペトロとヨハネは目撃し損ねたにもかかわらず、マリアはイエスを見、そしてその他の弟子たちに合流しています。さらに遡ると、殺害されたイエスの遺体をヨセフとニコデモという二人の男性弟子が引取って埋葬したという記事があります(19章38-42節)。この二人も、ユダヤ人たちを恐れて同じ部屋に逃げていたかもしれません。ヨハネ福音書は、締め切った部屋にいた「その弟子たち」(19節)の人数を記していませんし、マグダラのマリアのように女性たちも居たことでしょう。ベタニヤ村のマルタ・マリア・ラザロもそこにいたかもしれません。イエスの母マリアも、ゼベダイの妻もサロメも、とにかく教会創立のメンバーと目される人々は、みなそこに居たのです。

「その後で・それだから」イエスは、奇跡的にその部屋に入り、真ん中に立ちます。老若男女の多様な人々の集まりの真ん中に、復活者は常におられるからです。また、恐怖に囚われて心を開くことも、部屋の戸を開くこともできない人々の真ん中に、その恐怖を解くために復活者は来られるからです。そしてうずくまっている人々が立ち上がって教会を創るために、まさにそのためにイエスは死者たちの中から、神によって起こされ、よみがえらされたからです。

 

【平安があなたたちに】

復活のイエスは、体を見せるだけではなく、独特の言葉を発し、弟子たちに声をかけます。イエスの言葉が恐怖から人々を解放する力を持っているからです。生前のイエスも言葉の人でした。切れ味鋭い言葉によって、新しい律法解釈によって、含蓄のある譬え話によって、イエスは人々を魅了しました。その一方で、恐怖に陥っている人々に対してイエスは、簡潔に力強い宣言のみを語る人です。たとえば嵐が吹き荒れる湖の上をイエスが歩く場面、恐れる弟子たちにイエスは一言「わたしはある。あなたたちは恐れるな」とだけ語ります(6章20節)。

ヨハネ福音書に何回も繰り返される「わたしはある」は、イエスが真ん中に立っている安心と重なります。傍にいてくれるイエスを見る安心です。自分にはいつも味方がいるという心強さです。そして単に見るだけではなく、改めて「わたしはある」と言葉でも言われることで、さらに恐怖が減っていくのです。人間は弱いものです。見るだけでは足りません。聞くことや触ることで、初めて安心するものです。赤ん坊は保護者の顔を見ることだけでは満足しない場合があります。その時々の必要な声かけや、手を握ること・抱き上げることなどの触れ合いによって、やっと安心が与えられる場合があります。

「わたしはある」と同じような宣言として、「平安があなたたちに」があります。この親しい方からの声掛けが弟子たちの恐怖を取り除きます。恐怖というものは人生の歩みを止まらせるものです。弟子たちが抱える恐怖は死の恐怖でした。イエスと同じように処刑される恐怖です。死を免れても地位をはく奪される恐怖もあります。職業を奪われる恐怖、偏見と差別を受ける恐怖、およそ一般的なユダヤ人として生活する自由を奪われる恐怖です。彼ら彼女たちは無気力となり閉じこもっていたのです。

さて、恐怖の反対語は何でしょうか。イエスによればそれは「平安」です。そして聖書によればその平安は、自分の内からは生まれないものです。復活のイエスの言葉が外から掛けられる時に、わたしたちは平安を与えられます。

原文には「あるように」(新共同訳)という動詞はありません。動詞が無いことで、かえって強く「平安が確固として存在する」ことが言いあらわされています。イエスは平安が弟子たちに与えられることを祈っているのではありません。そうではなく、平安というものは既に与えられているものだし、今も受け取っているものだし、これからも確実に常に弟子たちのために約束されていると一方的に告知しているのです。

信仰というものは信じていない人から見れば「根拠のない安心」だと思います。自己肯定感とも言えます。復活のイエスが、今この会衆の真ん中に立っていて、その近さから「平安があなたたちに」と語る言葉を聞いているという「想像」、その希望によって恐怖を打破することです。

 

【遣わされたままの方が遣わしている】

日曜日にこの部屋に集まり復活者に出会って恐怖を取り除かれた者たちは、月曜日のそれぞれの生活に向かって放り投げられます。復活のイエスは、神から遣わされた救い主です。それは十字架・復活の前後で変わるところはありません。「遣わされたまま」なのです。そこで生前のイエスの生き方がわたしたちの模範となります。エルサレムで恐怖を取り除かれた弟子たちは、ガリラヤへと放り投げられます(21章)。ガリラヤでイエスが行ったように生きることが、毎週の新しい生き方となります。イエスの霊を吸い込んだ者は、聖霊がイエスの生き方を推し進めたように同じ言動になっていくのです。

一つの例が、やや衝撃的な形で本日の23節に示されています。「もしも誰かのその諸々の罪をあなたたちが放置したならば、それらは彼らにとって放置される。」「諸々の罪」とあることから、ここでイエスは唯一根源的な罪という意味の「原罪」のことを言っているのではありません。パウロの手紙が厳密に書き分けているように、原罪の場合は単数形で示すものです。そうではなくガリラヤでイエスが諸々の罪を放置した/そのままにした/許した(ギリシャ語「アフィエミ」)出来事を思い起こさせているのです。

イエスは全身が麻痺した男性に「息子よ、あなたの諸々の罪は放置されている/そのままにされている/許されている」と宣言しました(マルコ2章5節)。明確に原罪のことではありません。そうではなく、さまざまなルールを設けてその定規に従って「諸々の罪」なるものをこしらえること、そして特定の人々を「罪有り」とレッテル貼りして、病気の人や特定の職業の人や特定の出身地の人を見下すことをイエスは批判しています。中風の男性はその病気のゆえに「罪人」と決めつけられていたのです。徴税人レビはその職業のゆえに「罪人」と見下されていました。「そのような人間が作った諸々の罪など放置してしまえ。神は放置している。あなたはあなたのままで神の子/人の子である。あなたの信があなたを救った。」

復活者を礼拝し恐怖を除かれた人は、寛容を身につけます。自分のせせこましい物差しで他人を測ることを止めます。人を測って、自分との上下関係を気にする人は、結局恐怖からそれを行っています。何かしら脅かされているという妄想が他人と自分とを比較させるからです。圧倒的自己肯定感を与えられた神の子/人の子は、地上で「諸々の罪」を放置し有害な尺度をどうでも良いこととして無視する自由を持っているのです。完全な愛は恐怖を締め出します。

もしも誰かをあなたたちがつかまえるならば、彼らはつかまえられたままだ」(23節)は、ユダヤ人たちからの逮捕に怯える弟子たちを励ましています。恐怖によって人々を支配しようとする者たちを、キリスト信徒は「つかまえる」強さを持っています。自ら仕えるという自由。様々な人々を認める寛容。「平安」の実態です。これらのより高い倫理は、世界に遣わされているわたしたちが、平安を奪う人々をつかまえるたびに世界に行き渡っていきます。

 

【今日の小さな生き方の提案】

「平安があなたたちに」と言って真ん中に立っておられる方を賛美しましょう。わたしたちは毎日怯え恐怖に震え寝床から立ち上がれず、一歩も前に進めません。くたびれて殻に閉じこもり、ようやく今日イースターの朝仲間のもとに集まることができました。復活者は恐怖を打ち砕く平安を今与えています。キリストはわたしたちを怯えさせ脅し上げている「諸々のレッテル」をはがしました。「イエスが主」と歌うたびに一枚ずつはがれていくのです。主の食卓で給仕するたびに自由と寛容が身についていくのです。こうしてわたしたちは立ち上がり、明日に向かって歩み出す勇気を与えられ、教会の交わりが強くなっていきます。今日もまた復活の主を賛美しましょう。主を喜ぶことがわたしたちの力です。