「そしてヤコブは彼の道に歩んだ。そして神の使いたち(マルアキム)が彼に遭遇した。そしてヤコブは、彼が彼らを見た時に、言った。『これは神の陣営(マハネー:単数)だ』。そして彼はその場所の名前をマハナイム(陣営:双数)と呼んだ」(2-3節)。
ユダヤ教の伝統では28章10節から32章3節までを一回の安息日礼拝で読み切ります。確かにベテルでの神の使いたちと、マハナイムでの神の使いたちは呼応しています。天使たちは別に何もしないけれども、群れをなしている姿がヤコブに見られるという点でそっくりです。物語の枠組みを作っています。ここまでが一括りであるとすると、マハナイム(二つの陣営)という名付けは、「ラバンとヤコブの二つの陣営」という意味でしょう。同じ神(エロヒーム)を、多神教の神々と考える陣営と、唯一神と考える陣営です。
ただしこのマハナイムが次の物語の伏線にもなります。
28章10節から32章3節までの主題は、ヤコブがアラムの地でラバンと葛藤を続けながら共に生きたことです。ある意味で、この3章分のアラム滞在物語は長い脇道です。物語の本筋は、イサク・リベカの後継者は誰なのかということにあります。双子の兄弟エサウとヤコブ、どちらが後継争いで勝利するのかということです。だからヤコブが約束の地カナンに帰ってくるということは、エサウと対決するということなのです。
つまりヤコブとエサウの二つの陣営があるということもマハナイムは示唆します。さらに、ヤコブの生き延びるための知恵も、このマハナイムに込められています。聖書本文に章と節を設けたのは中世のキリスト教の知恵でした。参照したり、言及したり、記憶したりするのに便利だからです。ここに32章という区切りを入れた人々は、マハナイムの出来事を後続の物語の方に引き寄せています。区切りも解釈の一つです。
わたしたちはマハナイム(二つの陣営)が、ヤコブ物語全編を通じる鍵語であると了解すれば良い。二つの陣営に分かれての対立や逃走や和解が、ヤコブの人生を貫く主題です。イサク陣営とリベカ陣営の間でエサウとヤコブの双子は葛藤します。レア陣営・ラケル陣営、ラバン陣営・ヤコブ陣営、ヨセフ陣営・それ以外の兄弟の陣営、ヘブライ人の陣営・エジプト人の陣営。このような大きな見取り図を持って、個々の聖書箇所を読み解いていきましょう。
「そしてヤコブは使いたち(マルアキム)を遣わした、彼の面前に、エサウ・彼の兄弟に向かって、セイルの地へ、エドムの野(へ)」(4節)。
本来ならば母リベカが使いをヤコブに遣わすはずでした。エサウの怒りが収まった頃に母から呼び戻されることをヤコブは待っていました。しかし20年経っても母から使いは来ませんでした。ヤコブは母(と父)の死去を覚悟しながら、直接エサウに自分から使者を遣わします。神が遣わした使いたち(マルアキム)を見た直後に、自分も使いたち(マルアキム)を派遣しようと思いついたのでしょう。エサウは未だにヤコブに殺意を抱いているのか。ヤコブはエサウに対して失礼の無いように念入りに使いたちに伝言をします。
「そして彼は彼らに命じた。曰く。『あなたたちはこのように私の主人に、エサウに言え。「このようにあなたの男奴隷ヤコブは言った。私はラバンと共に寄留した。そして今まで私は遅くなった。そして牛とロバ、羊と男奴隷と女召使いが私の所有となった。そして私は私の主人に告げるために、恵みをあなたの目の中に見つけるために、遣わした」と』」(5-6節)。
ヤコブはエサウの顔色を伺っています。「主人」「奴隷」という上下関係を示して低姿勢を示しながら、「自分はラバンに引き止められて長い間帰ることができなかったのだ」という言い訳をしています。これは探りです。特に自分の財産にエサウが興味を持っているかを知りたいのです。最悪の想定は、使いたちが殺されたり、エサウの殺意や財産強奪の意思が告げられたりすることです。帰国の遅滞は、ヤコブを詰問する一つの口実になりえます。結婚相手を見つけた後にすぐに帰ってこられたはずなのに、なぜ遅れたのか。母リベカの死に目になぜ立ち会わなかったのかという厳しい質問が予想されます。マハナイムからエドム・セイルまでは100km以上あります。死海の東南にあたる場所です。ヤコブはマハナイムに天幕を張って、数日間使いたちの帰りを待ちます。
「そして使いたちはヤコブのもとに戻った。曰く、『私たちはあなたの兄弟のもとに、エサウのもとに来た。彼もまたあなたに会うために歩いている。そして400人の男性が彼と共に』」(7節)。
使いたちはエサウに殺されず、無事に戻ってきました。彼らはエサウと会って話をしたようです。しかし、エサウがどのような考えのもと、400人の男性と共にヤコブに会おうとしているのかは、全く分かりません。両親の安否も分かりません。ただ使いたちはエサウからも伝言を頼まれたのでしょう。自分もマハナイムに向かって、ヤコブに会うこと、その時に400人の男性を同伴することを、エサウはヤコブの使いたちに伝言しました。その口調や表情からは、エサウが何を考えているのかを使いたちは推測できませんでした。
「藪蛇となってしまったか」とヤコブは舌打ちをしました。かえってエサウの殺意を掘り起こし、巧妙な策略を導いてしまったかと、ヤコブは後悔します。会うために来る兄に会わずに素通りすることは拙い。これまた殺害の口実になりえます。こんなことだったら、何も言わずにカナンに戻れば良かった。その後でエサウの様子を調べれば良かった。ヤコブは悔い、そしてエサウに対して心の底から恐怖します。400人の男性が、もしエサウ並に狩猟の上手な者たちであれば、十分「私兵」となります。この軍事力に優る力をヤコブの郎党は持ち合わせていません。むしろ戦争では足手まといとなる「女子ども」が多いのです。20歳の長男ルベン以下子どもたちにも、レア・ラケルにも相談できずに、ヤコブは一人で悩みます。
「そしてヤコブは非常に恐れ、そのために悩み、彼と共にいる民と羊と家畜とラクダを二つの陣営(マハネ:複数形)に分けた。そして彼は言った。『もしもエサウが一つの陣営に来て、それを撃っても、もう一つの陣営の逃走のためになる』」(9節)。
ヤコブは自分が名付けたマハナイムという地名からヒントを得ています。全滅という最悪の事態にならないように家族と財産を二つに分けるのです。次善の策にはなるでしょう。しかし根本的な解決策にはなりません。ヤコブは自分の発案にも疑問を持ちます。自信が持てないのです。
新共同訳「思った」(9節)と「祈った」(10節)は、同じ単語「言った」です。9-10節は連続しています。祈りの中でアイディアが生まれ、祈りの中で迷いが生じているのです。直後の14節を読んでも神の答えはありません。おそらく、ヤコブの祈りに対する神の答えは23-33節にあります。あの謎の人物との格闘は神への祈りの場面です。32章全体がヤコブの祈りです。十字架前夜のゲツセマネの祈りに似た状況です。私たちは神に祈るヤコブの姿と、沈黙を守る神の姿を今日の箇所では思い浮かべなくてはいけません。
「そしてヤコブは言った。『私の父アブラハムの神よ、私の父イサクの神よ。私に向かって「あなたはあなたの地に、あなたの故郷に帰れ。そうすれば私はあなたと共に(全体を)良くする」と言っているヤハウェよ。あなたがあなたの男奴隷になした全ての信実と全ての真理よりも、私は小さい。なぜなら私はこのヨルダン川を杖で渡ったけれども、今や二つの陣営となったからだ』」(10-11節)。
ヤコブは神と交渉を始めます。神は自分の言葉に責任を負うべきだというのが大まかな主張です。神の命令通りに故郷を目指している私ヤコブを、神は約束通り共にいて「良くする」責任を持っているというのです(31章3・10節)。神にはそれができます。なぜなら裸一貫で故郷を飛び出して一人ヨルダン川を越えた男性が、今や多くの家族と家畜を得て、故郷に錦を飾ることができるのも、神の信実・神の真理のおかげだからです。ヤコブはこの20年間で自分の小ささを知りました。その謙虚さが大いなる神の信実を告白させます。
「どうか私を救え、私の兄弟の手から、エサウの手から。なぜなら私は彼を恐れ続けているからだ。彼が来て、私を撃たないかと、息子たちに接する母(を撃たないかと)。そしてあなた、あなたこそが言った。『私はあなたと共に必ず良くする。そしてあなたの子孫を、多さにより数えられない、海の砂のように据える』と」(12-13節)。
ヤコブはさらに28章13-15節の神の言葉を引き合いに出しています。ここで子孫が砂のように多くなることや無事の帰国が約束されているからです。先程の31章3・13節とも共通する言葉は、「私があなたと共に」という約束です。子孫の繁栄・土地の取得・神の伴いこそ、「良くする」という約束の具体内容です。そのためにはここでエサウに殺されないで無事に帰国することが大前提となります。共なる神こそ、ヤコブを救い出すべきなのです。
雄弁に語るヤコブに神は、共にいるはずの神がちっとも答えません。だからこそでしょう。ヤコブの言葉には、後半本音がどんどん出てきます。「エサウに対する恐怖」は現在進行形で書かれています。ヤコブが妻子にも言えずに20年間ずっと抱え続けている恐怖であることが示されています(27章41節)。みっともない言葉です。「息子たちに接する母」とあります。息子は複数、母は単数です。ここでヤコブは娘ディナを無視した上で、11人の息子たちに接する一人の母のみを心配しています。一人の母とは四人の妻のうちのラケルだけを指すのでしょう。偏愛と差別を示す醜い言葉です。そして「良くする」(10節)から「必ず良くする」(13節)へと神の約束を勝手に膨らませています。自分勝手な誇張の言葉です。
こうしてヤコブは神からの答えをもらえずに次週の箇所でさまざまな小細工を施すこととなります(14-22節)。それがその後の神との格闘に繋がっていくのです(23-33節)。それはともかくとして、今日までの箇所で私たちは何を学ぶべきなのでしょうか。
今日の小さな生き方の提案は、神にだけ自分をさらけ出すということです。実に神はそのために沈黙を守ることがあります。ヤコブは自分の道を自分で切り開く人でした。今までの物語でも彼は、決して弱音を吐いたり、神に祈ったりしていません。しかし、数日後に殺されるかもしれない状況にあって、「怖くてたまらない」「神さま、助けて」「あの人だけは守って」「だってあなたが約束したんでしょ」などと、神にすがりつくように祈ったのです。これらは家族の前でも言えない本音です。父・夫・家長・族長の肩書きを打ち捨てて、子どものようにヤコブは祈りました。神が私たちに求めているのはこのような素直な態度です。キリスト者は弱くて強い存在です。自分の弱さを知っており、神の信実・神の真理を知っている者です。唯一、本当の本当をぶちまけることができる祈りの相手を持つこと。ここに人生を生き抜く強さがあります。