【はじめに】
「山上の垂訓」「山の上の説教」と呼ばれる箇所が始まりました。5章から7章までの長大な教えです。本日の箇所はその冒頭部分にあたり、ルカ6章20-23節にも同じ内容が記されています。マタイとルカに共通の部分です。大まかに言うと、マタイはルカを膨らまし拡張しています。節にしてほぼ倍です。拡大されている部分にマタイ教会の強調点があります。そこに留意して読み解きましょう。
3 その霊の点で貧しい者たちは幸い。なぜならその諸々の天の支配は彼らに属するから。 4 その嘆き続けている者たちは幸い。なぜなら彼らこそが呼びかけられるだろうから。 5 その謙虚な者たちは幸い。なぜなら彼らこそがその地を受け継ぐだろうから。 6 その正義に飢え続けており、また渇き続けている者たちは幸い。なぜなら彼らこそが満たされるだろうから。 7 その憐れみ深い者たちは幸い。なぜなら彼らこそが憐れまれるだろうから。 8 その心の点で清い者たちは幸い。なぜなら彼らこそがその神を見るだろうから。 9 その和ませる者たちは幸い。なぜなら彼らこそが神の息子たちと呼ばれるだろうから。 10 正義のために迫害されたままの者たちは幸い。なぜならその諸々の天の支配は彼らに属するからだ。
【七つの幸福】
3節と10節に同じ表現が繰り返されています。「なぜならその諸々の天の支配は彼らに属するからだ。」です。「その諸々の天の支配」とは、イエスを囲む食卓の交わりのことです。3-10節は全体として、イエスからの神の国への招きと呼びかけです。「わたしの後ろを歩き、わたしの周りに座り、互いに仕え合おう」という呼びかけが、山上の垂訓の冒頭になされています。四人の漁師と群衆たちが従ったことの直後として、文脈に適うと思います。わたしたちの礼拝式順で言う「招きの聖句」と同じ効果です。
イエスの招きの言葉は「幸い」を告げ知らせ、幸いの理由(「なぜなら…から」)を述べ、人々に人生の幸福を約束しています。ルカにおいては三つの幸福です。①「貧しい者」、②「今飢えている者」、③「今泣いている者」です。それをマタイ教会は八つに拡張しています。ただし10節の「迫害されたままの者たちは幸い」は、10-12節までのくくりで考えた方が良いので省きます。というのもこの部分はルカ6章22-23節と対応しているからです。3-9節までで、元来の三つの幸福を七つに拡張したという方が正確です。
まず共通の三つをみます。ルカの①は3節に、②は6節に、③は4節にそれぞれ対応しています。しかし、「その霊の点で」(3節)が付け加わっています。また「正義に」(6節)が付け加わっています。ここにマタイの重要な強調があります。一つは精神的に捉えるということです。マタイは社会的貧困だけではなく、霊的貧困を問題にしています。人間は神に敬虔であるべきだ、神の前に謙虚であるべきだという教えです。
こういうわけで、「霊の点で貧しい者たち」(3節)は、「謙虚な者たち」(5節)と同じ意味です。その人々は「天」と「地」の所有し相続する者、つまり世界を持つ者となります。自分は何も持っていないということを知っている人が、実はすべてを持っているのです。そのことを言い換えたのが8節でしょう。「その心の点で清い者たちは幸い。なぜなら彼らこそがその神を見る」。「霊の点で」と「心の点で」は類似表現ですから、天地の所有・継承と「神を見る」ことが類似しています。エデンの園で、神と向き合う生活をしていた時に、人間は世界を収奪しようとは考えていません。神と一緒に共同管理をし、被造世界に調和していたのです。
神を見、神に見られる時、人間は自分が土くれに過ぎないことを知っていました。謙虚です。神のように目を開きたいと考え、神のように善悪の知識を得ようと霊的に思いあがる時に、人間は神を見ることができなくなり、心が聖くないことに恥ずかしくなり神から隠れます。そして男性による女性の支配が始まります。
マタイが施している精神化は深い内容を湛えています。神への敬虔な思い、隣人への謙虚な態度、これらが無ければ塩は塩気を失います。
マタイによる、もう一つの付け加えは社会正義です。「正義」(6・10節)に飢え渇くことが幸いであるとすることで、マタイは「嘆き続けている者たち」(4節)と「憐れみ深い者たち」(7節)と「和ませる者たち」(9節)とを結びつけ、これらの人々はみな社会正義に飢え渇き、社会正義をそれぞれの場で実践している人々であると結論付けています。
世の中のおかしさ、社会の不正を嘆き続ける者がいなければ、誰も気づきません。正にそのような敏感な人が神に「呼びかけられ」(4節)、預言者として召されていくのです。「憐れみ深い者たち」はマタイ福音書においては慈善の施しをする者たちという意味合いで用いられます。不条理の苦しみに遭う人々に共感し、今自分にできる親切をして隣人になる人々のことです。これも社会正義の実現の一つです。「和ませる者たち」(9節)は、「平和」と「つくる/なす」という言葉を合成させた形容詞です。日本語一言に翻訳することは難しい単語です。戦争や紛争を止めさせることでもあれば、競合関係を協調関係に変えることや、日常のピリピリした雰囲気をがらりと明るくしたり、冷笑/嘲笑を微笑/談笑に変えたりする努力も含まれるでしょう。これらもまた社会正義です。
「正義」(6・10節)という単語を日本社会は嫌うと思います。自分の正義をそれぞれがふりかざすから争いが絶えないと、まことしやかに言われます。唯一神教も唯一の正義を振りかざすという理由で敬遠されます。先ほど述べた通り何を信じていても威張って自己批判をせず謙虚でないならば批判されるべきです。それとは別に「社会における正義とは何か」は真剣に追及されるべきです。神の国と神の正義を求めなさいと言われているからです(6章33節)。またファリサイ派の正義にまさる正義を求められてもいるからです(5章20節)。
社会正義を行うということは社会の歪みを矯正すること、まん丸であるべき球をまん丸にし、まっすぐあるべき道をまっすぐにすることではないでしょうか。玉に瑕があれば丁寧に埋めて磨き直し、道に石が転がっていれば拾って平らにすることです。傷ついて嘆いている人がいれば癒し、不足を訴える人を満たし、尖って怒っている人を笑わせる、そのような仕組みを共に考えて創り出すことです。高いところを削り、低いところを盛り土して、右からも左からも上からも下からも真っ直ぐという道をつくることです。この道路建設事業を、「嘆き続けている者たち」、今最も苦しんでいる人たちを基準にして行うことが聖書の示す「正義」です。
マタイ教会は、三つの幸福を七つの幸福に広げながら、実は二つにまとめました。一つは、深い霊性を持って謙虚に生きる時にわたしたちが幸せであるということです。もう一つは、わたしたちを苦しめる、でこぼこだらけのこの社会において正義を追い求めている時に(仮に嘆くだけであっても)わたしたちは幸せであるということです。実例はナザレのイエスの人生です。「神の息子」(9節)イエスによって、わたしたちは誰でも同じ神の子になることができます。
10 正義のために迫害されたままの者たちは幸い。なぜならその諸々の天の支配は彼らに属するからだ。 11 彼らがあなたたちを罵り、また彼らが迫害し、また彼らが、わたしのために偽証をし続けながら、あなたたちに対してあらゆる悪を言う時に、あなたたちは幸いである。 12 あなたたちは喜びなさい。そしてあなたたちは歓喜しなさい。なぜならあなたたちの報酬はその諸々の天において多いから。というのもそのようにしてあなたたち以前の預言者たちを、彼らは迫害したのだから。
【迫害】
10-12節には、ルカ6章22-23節とほぼ同じ内容が記されています。しかし「迫害」という言葉を多用していることにマタイの特徴があります(10・11・12節)。迫害とは何でしょうか。一つにはユダヤ社会で権利を奪われることです。異端とされたユダヤ教ナザレ派(後のキリスト教)が、正統的なユダヤ教の会堂から追放され、ユダヤ人としての権利を奪われることです。もう一つは、ローマ帝国からキリスト教が邪教とみなされ、ローマ社会で権利を奪われることです。
イエスの食卓運動が始まったばかりである、「山上の垂訓」を語る場面においては、多くの聴衆にとって、迫害を予告するイエスの言葉は実感を持たない未来予測でした。イエスが殺された時にはじめて弟子たちは迫害を自分事として捉えることができました。預言者エリヤや、預言者エレミヤの受けた権力による迫害が、イエスに起こったからです。イエスはユダヤ植民地政府によって罵られ、偽証され、嘲笑され、最終的にローマ軍によって虐殺されました。ガリラヤからエルサレムまで一緒にいた弟子たちは、同じ目に遭うかもしれないということで恐怖しました。喜ぶことも歓喜することも全然できません。復活のイエスに出会ってはじめて、彼ら彼女たちは「迫害」についての予告を思い出したのではないでしょうか。
迫害というものに喜びがあるとすれば、もしかすると復活のイエスと出会う機会となるかもしれないという点でしょうか。しかしもっと大切なことは、思想・信条・信仰を理由に迫害しうる社会を生み出さないことです。
【今日の小さな生き方の提案】
キリスト教信仰を持って生きることは幸福であると思います。仮にその信仰によって不利益を被ることがあったとしても、わたしたちにはバネが与えられています。バネとは、「そのような不利益を与える人や仕組みの方がおかしいのではないか」と、問いただす弾力性です。謙虚な者は腰を屈ませられても、その低い姿勢のまま踏みつけようとする者を問い続けるでしょう。「自分も間違えているかもしれないが、あなたのふるまいは平たくない」と正義を求めるのです。
信仰は自分の心を深く耕します。わたしたちを霊の点で貧しく、心の点で清くさせます。信仰は社会のありようを教えます。そこにおいていかに自分が傷つけられ貶められ嘆かせられているのかを教え、平たい社会の実現を祈り求める思いを、信仰が授けます。隣人を笑わせ和ませる人へとつくり変えます。信仰は神の子としての自分を恢復させます。