弟の帰還 創世記33章1-11節 2019年8月11日礼拝説教

 ヤコブは彼のために昇った太陽に照らされ、ヤボクの渡しを渡ります。足をひきずりながら、家族のいるところに合流します。25章から始まったヤコブ物語は33章で頂点を迎えます。誕生時から続くエサウとの葛藤の結論です。

 「そしてヤコブはその眼を上げ、見た。見よ、エサウが来つつある、彼と共に400人の男性も。そして彼は子どもたちを分けた、レアに関するものとラケルに関するものと侍女たちに関するものと。そして彼は置いた、侍女たちと彼女たちの子どもたちを先頭に、またレアと彼女の子どもたちとを後ろに、またラケルとヨセフとを後ろに」(1-2節)。

 エサウと400人の男性を前にして、ヤコブは子どもたちを、その母親に応じて3つにグループ分けしました。①レアと7人の子どもたち(ルベン・シメオン・レビ・ユダ・イサカル・ゼブルン・ディナ)、②ラケルとヨセフ、③ジルパと2人の子どもたち(ガド・アシェル)およびビルハと2人の子どもたち(ダン・ナフタリ)です。まずレア群、次にラケル群、最後に召使群という順番は、この家族の力関係を映しています。

レアがヤコブの長男ルベンを生み、しかもレアは最多の7人という過半数を生んでいます。最大勢力です。次にレアの妹ラケルとたった一人の息子、しかも末っ子のヨセフ。どんなにヤコブが愛していても、家制度の中では二番手集団です。身分制のもと、最後に二人の召使と4人の息子たちが「非嫡出子」として雑な扱いでまとめられています。ジルパはレアの召使であり、ビルハはラケルの召使でした。ヤコブは当初当時の常識に照らした序列順に分けました。

 しかし、その後ヤコブはこの順番を変えます。ヤコブから見て「大切ではない順番」にするのです。嫌らしい操作です。というのも、エサウから略奪される危険が高いのは、先頭に置かれるグループだからです。ヤコブは、③召使群、①レア群、②ラケル群の順番に並べます。ラケルとヨセフを最後に置くのは、ラケルとヨセフを最も愛していたからです。

②ラケル群への偏愛は、当時の常識に対する挑戦です。この世界で小さくされている妹や弟を選ぶ神の業がここに示されています。この意味でヤコブの行為は評価されるべきです。しかし、もう一方でこの行為は批判されるべきでもあります。ヤコブの偏愛は、双子の兄弟が争うようになった原因を思い出させます。父イサクがエサウを露骨にひいきし、母リベカがヤコブに肩入れしたところに、争いの原因がありました。同じ罪がヤコブに引き継がれています。この主題は、後のヨセフ物語にまで引き継がれていきます。ラケル群への偏愛が、その他の子どもたちの恨みとなって、ヨセフに報復が向かうからです。

 「そして彼自身は彼らの前を渡り、地に七度拝した、彼が近づくまで、彼の兄弟(が近づく)まで」(3節)。ヤコブは、妻子の目の前を通り過ぎて、先頭に立ちます。「拝する」は、土下座をするような姿勢で拝むことであり、礼拝するという意味で用いられます。七度拝する行為は最上級の敬意を表す、古代西アジアの習慣だそうです。股関節を痛めているヤコブにとって、かなり苦しい行為です。真の謝罪は、痛みを伴うものです。ヘブライ語「七」(シェバア)は、「誓約」(シェバア)とまったく同じ綴りです。二度とエサウを騙さない、長男の権限・父親からの祝福を騙し取ったことを心から謝罪する。妻子を前にして恥をかきながら、また肉体の苦痛を覚えながら、七度も土下座する行為は、自分の罪を心から謝罪し二度と同じ罪を犯さないという誓いです。

 ヤコブは大きくは二回しか騙していませんから、七回も土下座するのはやり過ぎです。しかし謝罪する者の態度というのはこういうものでしょう。なぜなら謝罪を受け取るかどうかは被害を受けた人の側の権利だからです。日韓関係についてもこれは当てはまります。「1965年に協約を結んだではないか」という言い方は、「未だに一度も面と向かって謝罪をしていないじゃないか」という反論のまえに無力です。エサウはこの謝罪を受け入れるのでしょうか。

 「そしてエサウは彼に会うために走り、彼を抱き、彼の首の上に落ち、彼に口づけした。そして彼らは泣いた」(4節)。

 放蕩息子の例え話を彷彿とさせます(ルカによる福音書15章20節)。イエスは紛れもなくこの場面を下敷きにしたのです。法外の優しさを示す父親は、自分の財産を半分喪失させた弟息子を、全面的に赦します。それは神の愛、つまり神の無条件の赦しを示す例え話です。兄エサウと、例え話の父親は重なり合います。エサウが自分にひどいことをした弟ヤコブを全面的に赦しているからです。エサウを神に似た人物と理解して良いのでしょうか。問い方を換えると、エサウはヤコブを全面的に赦したと考えて良いのでしょうか。

ヘブライ語の写本には、「彼に口づけした」という単語の上に傍点が付いています。全聖書中で15回しかない珍しい注意書きです。注意書きの趣旨は、教理的に問題があるから要注意という意味です。エサウが本心から全面的にヤコブを赦したかどうかは、深く吟味すべき問題です。主人公でもないのに、なぜ神のような赦しができるのか。その後のエドム王国(エサウの子孫)とイスラエル(ヤコブの子孫)の葛藤はどうなるのか。エサウの評価が関わってきます。母や弟に騙される愚かしい兄が神の似姿で良いのでしょうか。

 物語自身が、エサウの顔が神の顔のようであると述べているので(10節)、「神のような赦しをエサウはこの時実行したのだ」と解します。文脈にも適います。前の夜神の顔を見たヤコブが、この朝エサウの顔を見ることは、神とエサウの顔が似ているということを示しています。実際今までもエサウは素直で人の好い人物でした。そして36章にエサウの子孫たちが好意的に載せられていることも、エサウが肯定的に評価されていることを裏付けています。繰り返しですが、イエスが(イエスの聴衆も)エサウの行動を、神の行動に重ねているということも根拠となります。

 エサウはヤコブを全面的に赦すことができました。それはなぜか。その赦しはどの段階でどのようになされていたのでしょうか。ヤコブの贈り物や土下座を見て赦したのか、それともそれ以前なのか。ヤコブがアラムに行っていた20年、聖書はエサウについて何も語っていません。私たちは推測するしかないのです。推測の鍵となるのは、父イサクが生きているということと(35章27節以下参照)、母リベカがおそらく死んでいるということ、そしてイシュマエルの娘マハラトとの結婚です(28章9節)。

 ヤコブがエサウから騙し取ったものを考えてみましょう。長男の権限は、父イサクが死んだ後に財産の全てを相続するという権限です。父は死んでいないのですから、ヤコブにもその権利は発生していません。そのような状況下でも、エサウは財産を築いています(9節)。それならば、別に長男の権限にこだわらなくても良いでしょう。同じように、父からの祝福についても考えられます。家長の祝福は子孫の繁栄を約束するものですが、別にそれ無しにもエサウは家族を多く与えられています(36章参照)。しかもセイルの地に移住したことで、家制度から離れて、かえって自由に生きることができています。

 母リベカは死の床でエサウに、ヤコブを唆したのが自分であることを話したと思います。そしてヤコブを赦してやるように諭したことでしょう。考えてみれば、ヤコブから暴力を振るわれ生命を脅かされたわけでもありません。

 妻マハラトは、イシュマエルとイサクの兄弟が、祖父アブラハムの葬儀を共同で行ったことを良い思い出としています。「同じようにヤコブと共に父イサクの葬儀を行った方が良い」と勧めていたと思います。

弟ヤコブが帰ってくることがあれば、「何も言わずに歓迎して赦してやろう。共に父の葬儀を行おう」とエサウはすでに決めていたと思います。赦しというものは、常に先立つものです。十字架の赦しが、私たちの悔い改めよりも先立っているのと同じです。だからこそエサウは、ヤコブからの贈り物についても、別に受け取る必要はないと考えます。贈り物によって、赦すか赦さないかを判断していないからです。土下座の謝罪もエサウは求めていません。土下座はヤコブたちがエサウを礼拝するために行っているのです。それによって、エサウが神に似ているということを示すためにです。

 「そして彼(エサウ)はその眼を上げ、女性たちと子どもたちとを見、言った。『これらの人々はあなたにとって誰なのか』。そして彼(ヤコブ)は言った。『神があなたの男奴隷に恵んだ子どもたち』。そして侍女たち、彼女たちとその子どもたちは近づき、拝した。そしてレアもまた、その子どもたちと近づき、拝した。その後でヨセフとラケルが近づき、拝した」(5-7節)。

 神のような寛大さでエサウはヤコブに言葉をかけます。「わたしが出会ったこの全ての陣営は、あなたにとって誰か」(8節)。「私には多くがある。私の兄弟よ、あなたに属するものはあなたに属するものとなるように」(9節)。ヤコブのためを思った温かい言葉です。

 ヤコブの発言もエサウの「神性」を強化しています。「私の主人の目に恵みを見出すために」(8節)。「もし私があなたの目に恵みを見出すなら、私の手ずからの贈り物を取ってください。なぜなら、それゆえに、神の顔を見るように私はあなたの顔を見、あなたは私を歓迎したのだから。どうか取ってください、あなたにもたらされた私の祝福を。なぜなら、神が私を恵んだのだから。なぜなら、私に全てがあるのだから」(10節)。

ヤコブは文字通り、神を見るようにエサウの顔を見ています。エサウの眼差しが温かい恵みをたたえているのを確認しています。早朝見た神の眼差しと同じです。それは、自分をハランの地で祝福した神の眼差しです。無条件の赦しという恵みをエサウの目の中にヤコブは見出しました。

ヤコブが贈った家畜は、全財産を半分に分けたうちのほとんどです。財産の半分をエサウに贈ったことになります。それをヤコブはあえて「祝福」と呼びます。かつて騙し取った祝福。もともとエサウに属するものを今お返ししますという意味でしょう。こういったことも含めて、放蕩息子の例え話はヤコブ物語を下敷きにしています。ヤコブが財をなして半分をエサウに贈ったことと正反対に、弟息子は父親の財産の半分を失わせてしまったのでした。

二つの物語の結論は同じです。弟が何をなしたかにかかわらず、兄/父は弟の存在そのものを歓迎し、無条件に肯定します。弟は死んでいたのによみがえった。いなくなっていたのに見つかった。喜び祝うのは当たり前だ。だからエサウは、ヤコブが相変わらず抱えている偏愛の罪にもかかわらず、もっと大きな度量でヤコブとその家族の存在を大きく包んでくれたのです。

今日の小さな生き方の提案は、エサウに示される神の無条件の赦しを、素直に受け取ることです。これは恵みです。私たちの人生を活かすのは信仰です。その信仰というのは、私たちが信じる前から私たちを歓迎し受け入れてくださっている方の信頼を受け取ることです。神は私たちが何をなしたかで評価を変える方ではない。神は私たちの存在そのものを喜んでおられます。私たちはただ家に帰るようにして、神の懐に飛び込むだけで良いのです。