役割の分担 出エジプト記6章28-7章7節 2015年5月3日 礼拝説教

今日の箇所までが、「P版モーセの召命記事」(6:2-7:7)と呼ばれるものです。あらすじは「JE版モーセの召命記事」(3:1-6:1)とほぼ同じです。ある時、ヤハウェという名を持つ神(エロヒーム)がモーセを出エジプトの指導者として召し出します。モーセは当初断ります。しかしヤハウェは兄アロンを紹介し、アロンに協力させるという条件をつけてモーセを説き伏せます。このような経緯で、アロンとモーセがエジプト王のファラオに出エジプトの交渉をすることになったのです。二人は自分たちの民イスラエルとの間に緊張をはらみながら、困難な交渉事にあたっていくことになります。以上が、共通するあらすじです。

今日はPがJの言葉遣いを意識しながら変えているところに注目していきます。聖書本文は複数の著者たちのこだまによって成っています。先に書いたものへの応答として、同じ出来事についての自分たちの意見を書き込んでいくのです。こうして今ある聖書の本文は立体的になります。福音書が四つあることもそのような豊かな出来事として捉えるべきでしょう。

4章10節でJはモーセを「弁が立つ方ではない(直訳:言葉の男性ではない)」「口が重い」「舌が重い」と評します。意味合いは明らかです。能力的な意味で話が下手だということです。Jによれば、モーセはミディアンの地に亡命しているので、ヘブライ語が苦手だということも前提にしています。つまり単に口下手という以上に、第二言語を使わざるを得ない言語的少数者が指導者となることの困難をJは主題に取り上げています。そこで、「雄弁な」(直訳:語りに語る)生粋のヘブライ人アロンを、ヤハウェが紹介するという流れになるのです(4:14)。兄弟は神の山ホレブでヤハウェの前で再会を果たします(4:27)。舞台はエジプトの外ということもJの特徴です。

Pの召命物語においてモーセはずっとエジプトに居ます(6:28)。アロンもエジプトから一歩も出ていません。こうしてモーセがミディアン人だから口下手であるという意味合いが後ろに退いていきます。モーセが神からの召命を断る理由は、「唇に割礼が無い」というものです(6:12・30)。この表現は聖書の中でここにしか出てきません。意味が不確定です。それは解釈の余地が広いということでもあります。能力的な意味で口下手ということにPは関心がありません。別の意味合いが「唇の無割礼」に込められているはずです。

イザヤ書6章5節(1069ページ)には、「汚れた唇」という表現があります。預言者イザヤの召命記事です。神を見てしまったことにうろたえるイザヤに対して、神は祭壇の炭火を彼の口に触れさせることによって、彼を宗教的な意味で清め、預言者として「有資格者」とします。「見よ、これがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」(イザ6:7)。この通過儀礼を経て、イザヤは預言者として召し出されます(同6:8以下)。

前6世紀に生きるP集団は、前8世紀に書かれたイザヤ書を読んで知っています。イザヤの召命記事を頭におきながらモーセの召命拒否を描いています。能力の問題ではなく罪の問題によって、モーセは自分が無資格者であると言っているのです。Pにおいてはアロンが雄弁だったという情報もありません。能力が問題なのではないからです。モーセは現人神ファラオの前で語るには自分は罪深すぎると言っているのです。ここにモーセがエジプトの王ファラオの権威に、実に宗教的な意味合いにおいても屈服していることが表されています。「どうしてファラオがわたしの言葉に聞き従うだろうか」とは、モーセの偽らざる感想です。ただし率直であれば常に良いというわけではありません。モーセの態度は信仰上極めて大きな問題をはらんでいます。

そこでヤハウェはモーセに批判的に応答します。「見よ、わたしは、あなたをファラオのための神にした/与えた。そしてあなたの兄アロンはあなたの預言者となるだろう」(7:1)。この言葉は、J版召命物語のヤハウェの言葉(4:16)への改変・もじりでもあります。「彼(アロン)こそあなたのためにあなたの口となり、あなたこそ彼(アロン)のために神となるだろう」。口下手の問題を取り上げるJはアロンをモーセの雄弁な代理人と考えます。二人には上下関係があります。

Pはアロンの地位を引き上げています。「アロンがイザヤやエレミヤのような預言者だからファラオとの交渉にあたるべきだ」と言うのです。預言者とは権力者に対して面と向かって批判できる精神を持った人々です。Pの描くモーセはファラオのありがたみに負け、自分が悪くもないのに「罪深い無資格者」などとうなだれているので、その限りにおいて交渉役にふさわしくないのです。

ヤハウェはモーセを励ましてもいます。「ファラオのための神」とするからです。この言い方をわたしは、「あなたも神の似姿である。人間ファラオのためにもそのように言わなくてはいけない。モーセもファラオも神の似姿である。現人神なんぞというものはありえないし、有害だ。すべての人は神の似姿であり、等しく尊厳を持っている」ということを示していると解釈します。

だからモーセは自分を無資格者と卑下する必要がありません。美徳の一つである謙遜な態度のようでいて、実はそうではありません。自分に1タラントが与えられていることに気づかないという的外れを犯しています。能力が無いことが問題なのではありません。神と人の前で、穏やかで毅然とした態度を取れないことが問題なのです。Pは一貫して、「神へと目を向けよ、神を仰げ、神の子らよ」と勧めています。

さてPは「ヤハウェがファラオの心をかたくなにする」(7:3)という言い方を好みます。この一見理解困難な言い方も、今までと同じような方向性で解釈していくべきでしょう(なおイザ6:9-10も参照)。なぜファラオは出エジプトを許可しないのでしょうか。Pはファラオの個人的資質(頑固さ)に理由を求めません。個人の資質に理由を求めると、逆にモーセとアロンの個人的資質(奇跡を行えること、雄弁さ)によって出エジプトができるかのように誤解されてしまいます。なぜイスラエルは出エジプトを果たしえたのでしょうか。ファラオの許可が問題だったのでしょうか。そうではありません。徹頭徹尾出エジプトは神のなさった救いの業です。そこに目を向けるべきなのです。ヤハウェが導き出したから、出エジプトという脱出がなしえたと言うべきです。

歴史的に言えば少数民族の夜逃げに過ぎない出来事です。エジプトの歴史文書には一切記載されていない小さな事件です。しかし、信仰的に言えば、この夜逃げはヤハウェが贖ったという救いの出来事なのです。贖い主に目を向けよ、贖いの業を仰げ。

大きな目で見るなら、アロンとモーセがファラオと交渉するということは、単なる「前座」にしか過ぎません。アロンとモーセが奇跡を何回も繰り出し、その度にファラオの態度が軟らかくなったり硬くなったりするわけですが、そのようなやりとりに一喜一憂する必要もありません。すべては歴史を導く神の手のひらの中の出来事だからです。これは「聖なる茶番劇」です。

「わたしが命じることを語れ、言うことを聞かないファラオに語れ、わたしがエジプトからイスラエルを導き出す、実にわたしだけがそれを行う。わたしはヤハウェ。以上署名捺印」(7:1-5)。

こう考えていくと次の疑問が浮かびます。アロンとモーセが、ヤハウェの命じる通りに行い(7:6)、ファラオとの対話を続ける積極的な意味は何なのでしょうか。相手がかたくなになるために語るのならば、そもそも対話に意味がないでしょう。物語の盛り上がりのため(「前座」「聖なる茶番劇」に含意)だけではない、もっと有意義な意味づけがあるのでしょうか。

わたしはここにモーセに対する教育的な意味を見出します。ヒントは年齢の記述です。P集団は系図も好きですが年齢や数字のたぐいを書き加えるのも好きです。今まで読み進めてきましたがモーセとアロンの年齢については読者に知らされていませんでした。ここで初めて二人がおじいさんであることが判明するのです。彼らは80歳と83歳、現在の日本人男性の平均寿命とほぼ同じです(7:7)。驚くべき情報をPは隠し持っていたのです。

日本に住む高齢者の多くが天皇という存在にありがたみを感じる、自然にそのような感情を持っているように思えます。皮膚感覚というべきか、現人神時代の残り香と言うべきか、そこには権威主義が残っています。一般に年を取ると気力が衰えます。一概に悪いことではありませんが、こと権威主義に対抗しなくてはいけないという場面においては、気力の衰えは弱点にもなりうるでしょう。ある人物の持つ有形無形の「力」に屈服しやすくなるからです。その人が「力」を濫用して自分や他人を抑圧しても抵抗しきれず、むしろしぶしぶと/喜んでひれ伏してしまうからです。

神はファラオのありがたみにひれ伏しがちなモーセを、ファラオと対面させます。実際に語るのはアロンでしょう(7:2)。それでもモーセも同行しなくてはいけません。そこでモーセが成長するからです。ファラオと何回も顔を合わせるたびに、モーセはエジプト王がヘブライ人奴隷と同じ人間であることを学んでいきます。神以外にひれ伏すべき相手などはいません。どんなに力を持っていても人間は人間にすぎません。ありがたみという権威主義こそ罪です。ありがたみを悪用して人を支配することは罪です。そしてありがたみに屈服して人に支配されたがることも罪です。この両者が組み合わさって不正義な社会・愛の無い社会を形作るので罪なのです。逆に、すべての人が神の似姿として尊重される時に、正義と愛が実現する社会となるわけです。

こうして神の救いは、必然的に神の「審判」(7:4。公正な裁判が原意)を含みます。モーセを召し出し・贖い・派遣する神は、モーセの悪いところを指摘し正す神でもあります。謙遜であることは悪いことではありませんが、卑下すること・怠慢になること・傲慢な相手をつけあがらせることは悪いのです。むしろ、神のみにひれ伏し、人間同士では支配することも支配されることも望ます、お互いに穏やかで毅然とするべきなのです。この態度を身に付けるということも、わたしたちの目指す救いの一つでありましょう。

今日は日本国憲法の施行記念日です。再び国家主義が押し寄せてきました。天皇のありがたみも色あせていません。天皇個人の「日本国憲法を尊重したい」という意見とかかわりなく、このありがたみが政治利用され国家主義に絡め取られているので問題です。自由民主党の2012年版改憲案によれば、天皇は国の元首とあります。また2016年に改憲のための国民投票を「国家緊急権限の付け加え」で行いたいと、船田元自民党議員は公言しています。「緊急時(災害)には憲法の停止を」というのは、一見賛成したくなります。しかし、国家が個人の権利を制約する手段を得る点で、憲法の原理に反します。憲法とは個人が国家を縛る手段だからです。

今日の小さな生き方の提案は、あの心身ともに弱いモーセが最高権力者の前に何度も立たされて学んだことに倣うということです。あらゆるありがたみを批判し穏やかに毅然とした態度で一日一日を過ごすことです。