先週の「罪人と呼ばれていた女性の物語」と今日の箇所は、マグダラのマリアについての不名誉な神話を生んだ根拠となりました。
まず、先週取り上げた「罪深い女」(7章37・39節)が娼婦であるという思い込みから神話は出発します。聖書本文には書いていませんが、聖書に親しんでいる読者ほどそのように理解しがちです。「罪深い女=娼婦」という公式が頭の中で出来上がっており、多くの注解書も無批判にそのように書いています。これは飛躍です。
次いで、本日の箇所である8章2節に登場する「マグダラの女と呼ばれるマリア」と、この「罪深い女」とが同じ人物であるという飛躍がなされます。その際に、よく似た物語がヨハネ福音書にもあることが影響していることでしょう(ヨハネによる福音書12章1-8節)。そこではベタニア村のマリアが香油をイエスの足に塗り、自分の髪でイエスの足をぬぐったという記事が掲載されています。つまり、マリアという名前の女性が行った出来事というようにまとめられ、マグダラ村のマリアが、「罪深い女」と同一人物ということになってしまったのでしょう(マルコ14章3-9節//マタイ26章6-13節も参照)。
こうして最終的な飛躍がなされます。それはマグダラのマリアは元々娼婦だったというものです。一方でイエスの母マリアがカトリック教会において性交渉によらずに罪なき神の子を生んだ「聖母」と崇められます。他方その正反対の例としてマグダラのマリアは性産業に従事していた罪深い女性とされたのです。女性に対する相反するイメージが固定化されます。一つは崇められる対象であり、もう一つは忌み嫌われる対象です。どちらも間違えています。女性も男性も、両者に含まれない人も全ての人はただの人です。
おそらく、マリアに対する名誉毀損は、ペトロを頂点とする教会組織の強化にとって、ペトロと比肩しうる有力な弟子マリアが邪魔者だったことに理由があります。その理由と女性差別が相まって、作られていった神話でしょう。彼女の名誉を回復するために、上記の神話を否定します。なお、わたしはマグダラのマリアがイエスの妻であったという俗説にも与しません。それも飛躍です。
今日の話の要点は神話や俗説を強化することではなく、ルカ福音書が報告している出来事の確認です。つまり、イエスの活動の最初期から女性たちも弟子となっていたという埋もれがちな事実の確認です。この出来事を確認することがわたしたちの教会形成にとって役に立つからです。
まず、彼女たちがイエスの弟子だったということの確認から始めます。わたしたちは「弟子」と聞くと、すぐに「十二人の男性弟子」(1節)を思い浮かべ、その人たちだけが弟子と呼ばれうるかのように誤解します。しかし、聖書の中には十二人以外にも「弟子」ないしは「使徒」と呼ばれている人々がいます。当然に女性の弟子も使徒もいたはずです。
しかし今日の箇所を読む限り、女性の弟子がいたようには読み取れません。ここには、どの本文を選ぶかという問題と、選んだ本文をどのように翻訳するかという問題の二つが存在します。
3節の後半「彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」とあります。「彼らに仕えた」が直訳です。そして、新共同訳が選んだ本文では「彼らに」としているところを(バチカン写本)、別の有力な本文は「彼に」としています(シナイ写本、アレクサンドリア写本)。「彼らに」を採ると、「女性たちは男性弟子たち一行に仕える」という上下関係を伝えます。そレに対して「彼に」を採ると、「女性たちはイエスに仕える=弟子となる」という意味を伝えます。この立場は、同じイエスに仕える仲間として、男性十二弟子と三人の女性弟子たちが対等の関係だったことを示唆します。
元来の本文は「彼に」であったと思います。ペトロを頂点とする男性中心主義が、教職を男性のみに限るという仕組みを作っていく中で、後に「彼らに」に変えた本文を主流として選び取っていったのでしょう。わたしたちは、「彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、イエスに仕えた(イエスの弟子となった)」という本文を選び直すべきです。なぜかと言えば、もはや教会においては「男と女がない」からです。以上がどの本文を選ぶかの問題です。
翻訳の問題に移ります。ギリシャ語グネーを新共同訳は「婦人」(2・3節)と訳します。「婦」の字のそもそもの漢字の成り立ちは、女偏に箒です。女性は掃除をする人という「女らしさ」を前提にして作られた漢字です。その延長線上で日本語の「婦人」にも、歴史的に「女らしさ」がべったりと貼り付けられてきました。男性が家事をしても何も問題ではないし、家を維持・管理することはどんな人も担うべきものです。「女子力」なんぞというものは女性のみに押し付けられるものではありません。
このような問題意識から日本バプテスト婦人連合は名前を日本バプテスト女性連合と改めました。各教会・伝道所の婦人会は女性会となり、今や全国で定着しています。歓迎したい大きな一歩です。womanをどう訳すか(interpret)、その点に「多くの女性たちを縛っている女らしさという呪い」に関する解釈(interpret)が入ります。それは、「女性らしさは男性たちに賢く上手に仕えることにある」という思い込みに基づく、先ほど述べた本文の選びにも関係します。未だ教会にも「男と女」があるのです。単純な事実として、日本バプテスト連盟の理事長や常務理事は今でも男性であり続けています。教会員の6-7割が女性であるにもかかわらず。
このような建設的批判に基づいて、また著者ルカの属していた教会が大切にしていたことがらに思いを寄せながら、今日の箇所に向き合いたいと思います。
ルカは、男性の「十二人」(1節)をひとまとめの匿名扱いにしている一方で、三人の女性については名前を挙げて紹介しています。「マリア」「ヨハナ」「スサンナ」(2-3節)の三人です。三人という数字にも意味があります。十二弟子の中での中心人物三人(ペトロ・ゼベダイの子ヤコブ・ヨハネ。8章51節)や、初代教会の中で柱と目される三人(ペトロ・主の兄弟ヤコブ・ヨハネ。ガラテヤ2章9節)と対抗するという意味です。イエス復活の証人の女性たちも三人の名前が挙げられ(マリア・ヨハナ・ヤコブの母マリア。24章9節)、加えて「一緒にいた他の婦人(ここもか!)」と記載されています。
ルカは一方で男性弟子「十二人」を使徒として祭り上げますが(6章13節)、他方で女性弟子三人の名誉も重んじます。「女性版十二弟子」もいたかもしれません。この均衡を取ろうとする姿勢に、ルカの属していた教会の考え方が現れています。使徒言行録にも貫かれている編集・著作の姿勢です。たとえばユダヤ人と非ユダヤ人、エルサレム教会と非ユダヤ人教会、ペトロとパウロ、ローマ帝国とキリスト教会などなど、緊張感あふれる主題の均衡を取ろうとしています。ルカ教会がさまざまな主題の均衡を取ろうとする根拠には、イエスが開始した「神の国の到来を告げる福音宣教」(1節)の内容と、その神の国運動を担った人々の多様性がありました。その根拠に基づいてルカの教会は多様性を重視する教会形成を実際にしていたのでしょう。たとえば女性指導者を積極的に認めることもそこに入ります。
個別の人物にも焦点を合わせましょう。三人の女性は、「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた」(2節)という共通の経験を持っています。当時病気の原因は悪霊によると考えられていました。そして、三人の中でも最も重病だったのが「マグダラ出身と呼ばれていたマリア」です。「七つの悪霊に憑かれていた」と評されているからです(マルコ16章9節も参照)。マグダラはガリラヤ地方の村の名前です。おそらくイエスが「町や村を巡って」(1節)いる中に、マグダラ村もあったのでしょう。そこに居た瀕死の重病人マリアをイエスが癒したと推測されます。
癒しという救いに感謝したマリアは、シモン・ペトロの姑のように、あるいはベタニア村のマルタ・マリア姉妹のように、イエス一行のための「定住の支援者」となることもできました。しかし、彼女は十二弟子と同じくイエスに同行する「放浪の弟子」の一人となりました。この思い切りが評価されています。「マグダラ出身」というあだ名に、彼女への敬意が込められています。「生まれ故郷を棄てた」という意味合いを含意するからです。
「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」はどうでしょう。このヘロデはガリラヤ地方の領主であり、ヘロデ大王の息子にあたります。「家令」がどの程度の地位なのかはよく分かりませんが、彼女は夫クザを捨ててイエス一行に加わります。クザと結婚していることはヨハナがヘロデ党の者だったことを示唆します。領主ヘロデを信奉する政治団体であり、武力革命を肯定し民族自決を主張するゼロテ派(熱心党)とは政治的意見が対立していました。イエスの周りには相対立する政治的立場の者も共存できました。
なおルカ福音書だけが領主ヘロデを十字架前夜のイエスの裁判に登場させており(23章6-12節)、ヨハナも十字架・復活を見届けた弟子としています(24章9節)。彼女は夫クザと、あの晩たまたまエルサレム城内に居合わせた可能性があります。その時にもヨハナは夫クザのもとには行きませんでした。ヨハナは、弟子となってから一貫して夫ではなくイエスを選び取ったということが鮮明に言われ、その点で評価されています。彼女は「父の家」「夫の家」を棄てて「神の民が歩む約束の地への旅」をしたのです。
スサンナについては新約聖書中ここにしか登場しないので残念ながら人物像を描くことができません。しかし名前がここに挙げられているということは、読者にとってスサンナがよく知られた弟子、つまり後の初代教会の指導者だったことを示唆します。十二弟子の影で埋もれがちな女性の弟子たちをわたしたちは名前を挙げて記念し続けなくてはいけません。また、名前も紹介されないけれども、イエスと共に放浪の旅をした非常に多くの女性の行動も記念し続けなくてはいけません(3節)。
説教題に掲げた「彼女たちを記念して」は、フィオレンツァという神学者の名著『彼女を記念して』のもじりです。聖書に多くの男性が登場する反面少数の女性しか登場しないことや、「やっと登場させてもらえた女性」でさえも不当に貶められた形で紹介されたり、解釈の歴史の中で貶められたりすることへの批判が書名に表れています。フィオレンツァの問題意識はルカ教会の問題意識と重なります。埋もれさせてはいけない重要な人々を掘り起こす歴史をルカは描きたかったし、教会はそれを分かち合いたかったのです。
今日の小さな生き方の提案は、神が名前を挙げてわたしたち一人ひとりを覚えていることに気づくことです。そして、埋もれがちな出来事こそ記念するということです。世界は注目されがちな少数著名人のニュース性の高い出来事で構成されているのではありません。圧倒的多数の無名者の日常によって成っているのです。神に覚えられている者として胸を張って歩み、見過ごしがちな出来事にこそ丁寧に目を留める毎日を過ごしましょう。多様性に開かれましょう。