律法の完成 マタイによる福音書5章17-20節 2025年6月29日礼拝説教

【はじめに】

本日はイエスの聖書(正典/神の言葉)に対する理解を教えています。5章21-48までは、旧約聖書(イエスの生きた時代に存在していた唯一の「聖書」)の個々の聖句についてイエスは独特の解釈を施しています。イエス独特の聖書解釈によって、ナザレ派はユダヤ教正統から「異端」と断罪されました。そうしてキリスト教会が誕生したのです。ユダヤ教の正統諸派(最高法院に議席を持っていたサドカイ派・ファリサイ派)は、イエスと彼の弟子たちに向かって「あなたたちは律法あるいは預言者たちを破壊している。正典をないがしろにしている」と非難したことでしょう。特にファリサイ派は。この非難に対する総括的反論が本日の箇所です。「いやわたしは正典信仰を軽んじてもいないし、聖書の文言を読み飛ばしもしていない。むしろすべての言葉を文字レベル・字画レベルに至るまで満足させ、正義を実践している」と、ナザレのイエスは反論しています。イエスの聖書に対する態度について考察し、正義とは何かを考えたいと思います。

 

17 わたしがその律法〔ノモス〕あるいはその預言者たちを破壊するために来たということを、あなたたちはみなすな〔ノミゾー〕。わたしは破壊するためにではなく、むしろ満たすために来た。 18 というのも、アーメン、わたしはあなたたちに言う。その天とその地が過ぎ去るまでは、一つのイオタ〔最小の文字〕あるいは一つの角〔字画〕は、その律法から決して過ぎ去らない。それが全ての事々と成るまでは。 

 

【正典信仰】

その律法」(ヘブル語トーラー、ギリシャ語ノモス)とは、創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記のことです。「(モーセ)五書」とも言います。「その預言者たち」(ヘブル語ネビイーム)とは、「ヨシュア記・士師記・サムエル記・列王記(前の預言者たち)」、「イザヤ書・エレミヤ書・エゼキエル書・十二小預言書(後の預言者たち)」のことです。ファリサイ派は、律法に書かれていることをさらに拡大し厳密化して守るべき戒めを増やしていました。口伝律法と言います。律法の中には安息日に労働から離れて休むことの具体は書かれていません。それを900メートル以上歩かないことと厳密に規定することが、こういった拡大の一例です。イエスが安息日に医療行為をしたことが咎められたのも、その流れの中にあります。「彼は安息日規定を破壊している」というわけです。もっともファリサイ派も律法を解釈して、その解釈に基づいて生活しているという点で、イエスと変わりません。

ファリサイ派はサドカイ派と異なり「預言者たち」(ネビイーム)も正典とみなして尊重していました。もしもイエスがサドカイ派に立場が近かったりエルサレム神殿貴族だけを批判したりしていたならば、「預言者たち」については言及しなかったことでしょう。つまり、イエスとファリサイ派は近い関係です。どちらも律法・預言者たちを正典とみなし、どちらも正典を解釈し、その解釈を実践しているからです。たとえば、ファリサイ派のとある律法学者の中に、宗教的に汚れていると自ら解釈する水を飲まないということを徹底的に守って、獄中で水を飲まずに死んだ人もいるそうです。基本構造として、イエスの十字架の死と似ています。

破壊する(カタルオー)」(17節)は、原意を汲むと「下へと解く」という意味です。想像の翼を広げます。「正典」という名前の大きな壁があったとして、その壁の気に入らない部分をほじくり落としている人を思い浮かべましょう。ぼろぼろと落としていくうちに、結局壁は崩れ、自分もひどい目にあうのではないでしょうか。特定の表現・単語・文字・字画でさえも、そのような形でほじくり落とさないという点で、イエスとファリサイ派は同じです。どんなに差別的で課題のある文言でさえも、正典である限りにおいて棄てない。少しでもこぼすことは全体を毀損する(こぼつ)ことになるからです。現代の目で見て「欠け」「余分」に見える一点一画を読み飛ばすことではなく、むしろそのような一点一画が「全ての事々と成る」(18節)ようにと目指す、全体にとって大切な一部であることが分かるように解釈する。これこそが正典に対する誠実な態度です。つまり、正典にその時代・その地域にふさわしい解釈を施すのです。聖書は、どのように読まれるか解釈されることを欲している本です。解釈し、その解釈をそのまま生きることが、正典を「満たす」行為です。イエスの解釈は当然最重要の物差しですが、さらにそれを起点に考え続け時代ごと地域ごとに再解釈を繰り返すことです。それがイエスに倣う道です。

キリスト教会は正典信仰を受け継ぎ、丸ごとの旧約聖書とさらに新約聖書も正典に加えました。読みにくい書、理解困難な言葉、自己の信条と対立する表現を読み飛ばしたり無視したり軽蔑したりするのではなく、むしろがっぷり四つに取り組み、生活の指針を得るように考え、読み解く必要があります。1節も飛ばさずに講解説教をしている理由です。

 

19 それだから、これらの戒めのうちの最も小さな一つを壊す者、またそのようにその人間たちに教える者は誰でも、その諸々の天の支配において最も小さな者と呼ばれるだろう。さて、する者また教える者は誰でも、この者こそその諸々の天の支配において偉大な者と呼ばれるだろう。 20 というのもわたしはあなたたちに以下のことを言うからだ。もしもあなたたちの正義がその律法学者たちやファリサイ人たちよりもはるかに凌駕していないならば、あなたたちは決してその諸々の天の支配の中へと入らない。

 

【正義とは】

17節にも19節にも語呂合わせがあります。駄洒落やラップのように、「律法」(ノモス)と「みなす」(ノミゾー)がかかり(17節)、「最も小さな一つを壊す者」と「最も小さな者」の中に同じエラキストスという形容詞が用いられています(19節)。旧約聖書の預言者たちと同じく、イエスの説教は、人々の記憶に残りやすい形で言い伝えられ、最終的には福音書に文書化されています。米国留学時代の恩師が、「ラップこそ預言/説教」と力説していたことを思い出します。そのアフリカ系の新約聖書学者が「次の大統領は黒人」と預言し、オバマ大統領が誕生し、見事に預言が成就したことも思い出します。マタイ教会はイエスの語ったアラム語/ヘブル語を、語呂合わせも生かしながらうまくギリシャ語に翻訳しています。

さて19・20節には「その諸々の天の支配」が繰り返されています。「神の支配」はイエスの「食卓運動」の言い換えであり、キリスト教会の交わりと言っても構いません。教会は「主の晩餐」によって神の支配を体現しているのです。だから19・20節はキリスト教会における大切なことを確認しています。それは、第一に聖書に書かれている命令をすべて遵守することと(19節)、第二にファリサイ派のもつ正義をはるかに凌駕すること(20節)に、まとめられます。第一の点については、21節以降の具体的な聖句に対するイエスの解釈を読みながら考えていきたいと思います。聖書に書かれている命令を遵守することとは、決して字義通りに生きることを意味しないことが分かるはずです。本日は第二の点に焦点を絞ります。つまり律法学者ファリサイ派の正義をはるかに凌駕する正義とは何か、そもそも正義とは何かということです。

NHKの朝の連続テレビ小説「あんぱん」に、正義という言葉の胡散臭さが語られる場面がありました。「正義というものはすぐにひっくり返る」と、敗戦後に主人公が語るのです。とかく日本社会は「正義」という言葉を嫌っているように感じます。「己の正義を振りかざすな」、「正義と正義がぶつかり合うと戦争が起こる。それだから唯一神教は怖い」など、正義という言葉や考え方が浅薄に扱われているように思えるのです。人間社会において絶対的倫理はないのか、正義なるものはあるべきではないのか、正義がなくなってしまったら何が起こるのか考え込んでしまいます。

イエスは「神の正義を求めよ」(6章38節)とも言っているので、人間社会に普遍的倫理・正義が必要であると考え、それを追い求めることを要求しています。先ほどのドラマにおいても主人公は、「自分は決してひっくり返らない正義を追い求めたい」とも言っています。ではひっくり返らない普遍的倫理である正義とは何なのでしょうか。

イエスの行動を基準にして考えるならば、正義とは愛するということです。イエスにおいて正義と愛は反対概念ではなく、むしろ二つで一つのものです。旧約聖書においても「義(ツェデク/ツェダカー)」は慈善や施しの意味でも用いられます。そして「慈しみ(ヘセド)と信実」「正義(ツェデク)と平和」は類義語です(詩編85編11節)。

愛の欠如に対して愛は寛容かもしれません。愛の欠如に対して正義は憤ります。律法学者が特定の人々を汚れていると断罪する時、その愛の欠如にイエスは憤っています。愛の欠如を問題にする概念がなければ愛は実現しません。正義という概念は、愛が欠けている時に発動されます。聖書において愛(アガペー/ヘセド)は普遍的であるので、正義も普遍的なものとなります。ある人の尊厳(神の似姿性)が貶められ、人権がないがしろにされているかどうか、わたしたちは愛に基づいて判断し、正義に基づいて欠けを修復します。

正義と呼ばれる「絶対的な倫理」とは、相手を尊重すること・愛することです。これらを否定する律法はありません。だから愛することは、律法学者の正義をはるかに凌駕する正義なのです。彼らがもたらす社会の欠けを修復して平和を実現する誠実な行為だからです。この正義に照らして悪・罪とは、神の似姿である相手を差別すること・支配すること・貪ることです。

 

【今日の小さな生き方の提案】

読み飛ばさずにこつこつ聖書を読みながら、理解しがたい箇所を愛という考え方によって解釈し、小さな愛を行いたいと願います。イエスならどう読むかを意識する時に、愛に基づく解釈が身につきます。そして愛の欠如について敏感になることができます。聖霊の働きによって自分の内側から、正義の発動が起こるようになります。

正義は胡散臭い言葉ではありません。「己の正義を振りかざすな」と言われますが、自己絶対化を避けることは正義という言葉への批判なしでもできます。戦争は教理上の神の数によらず、正義のぶつかり合いによらず、むしろ支配欲や差別や金儲けによって発生し続けています。これらの愛の欠如は正義にもとる行為です。愛のないところに正義が燃え上がり、愛のあるところに神が伴います。こうしてひっくり返らない愛と共に、ひっくり返らない正義が与えられます。