復活の主が共に マタイによる福音書28章16-20節 2024年3月31日礼拝説教

イースターおめでとうございます。十字架で殺されたナザレ人イエスが、三日目に神によってよみがえらされたことは、わたしたちの信仰の中心です。わたしたちが毎週日曜日にイエスをキリスト(救い主)と告白して、賛美をささげて礼拝をすることは、復活が日曜日の出来事であったという聖書の証言に由来します。この意味で、毎週の礼拝は、十字架で殺された方と会う行為です。復活の主を見る行為、復活の主から見られる行為です。

 今年のイースターはマタイによる福音書の復活記事を取り上げました。本日の箇所はマタイ福音書にしかない部分であり、十一人の男性弟子たちがガリラヤの山の中で復活のイエスに出会うという場面を描いています。マタイにはエマオ途上の二人の男性弟子に現れた記事はありません(マルコ、ルカと相違)。ガリラヤ湖畔で七人の男性弟子たちに現れた記事もありません(ヨハネと相違)。パウロが受けた伝承、「復活のイエスは十二人の男性弟子たちに現れた」とも異なります(一コリント15章)。

 Aガリラヤのとある山で、Bユダを除く十一人の男性弟子たちに、C復活者は独自の命令を発しています。ここにマタイによる福音書を編んだ信仰共同体(「マタイ教会」)の強調点があります。本日はこれらABCの強調点に気をつけながらイースターのメッセージをくみ取りたいと思います。

16 さてその十一人の男性弟子たちはガリラヤの中へと、イエスが彼らに命じた山の中へと行った。 17 さて(彼らは)彼を見て、彼らは拝した。一方ある者たちは揺らいだ。 18 そして(彼は)前に来て、イエスは彼らに話した。曰く、「天の中で、またその地の上で、全ての自由がわたしに与えられた。 19 だから(あなたたちは)行って、全ての民族をあなたたちは弟子とせよ、彼らにその父とその息子とまたその聖なる霊の名前の中へと(あなたたちが)バプテスマを施しながら、 20 わたしがあなたたちに命令した全てのことごとを全うするように(あなたたちが)彼らを教えながら。そして見よ、わたし、わたしこそが世の完成まで全ての日々にわたって、あなたたちと共にいる。」

 A マタイ福音書において「ガリラヤの山の上」は特別な意味を持っています。5-7章に「山上の垂訓」と呼ばれる、イエスの教えの塊が配置されているからです。山上の垂訓の中でイエスは、「第二のモーセ」として神の意志を啓示します。シナイ山という山の上で神がモーセに律法を授けたように、ガリラヤ地方のとある山の上でイエスはモーセの律法を弟子となった群衆に向かって解釈します。シナイ山だけではなく山は神の意志を知るための場所です。天と地の結節点です。ガリラヤ湖畔ではなく山中であるという場面設定によって、マタイ教会は復活者の言葉が神の意志であることを強調しています。

山上の垂訓の中でイエスは、わたしたちにとってなじみ深い「主の祈り」を教えます(6章)。主の祈りにも、「天の中で、またその地の上で」(18節)という表現があります。しかも神の意志をめぐる文の中です。「あなたの意志が起こるように、天の中でと同様にまた地の上で」(6章10節)。天においてはすでに実現している神の意志が、地上でも実現するようにという祈りです。神の意志とは何なのでしょうか。

全ての自由がわたしに与えられた」(18節)とあります。山上の垂訓の「あなたの意志」に対応しているのは、「全ての自由」という言葉です。「自由」は、しばしば「権威」と訳されるエクスーシアというギリシャ語です。語源的には、自分の存在の外へと出ることを意味します(ek+be動詞)。そこで、「権利」や「自由」という訳語も文脈次第でありえます。ここから考えると、神の意志とはすべての生命に自由が与えられている状態なのではないかと推測します。ちょうど復活のイエスのからだのように。信徒に約束されている永遠の生命とは、「自由」の言い換えです。だからキリスト者は、世界中の小さな抑圧にも、「自由を与えてください」と祈ります。それが主の祈りです。

B ユダを除く十一人の弟子たちが復活者を見たことは、マタイ教会の持つユダを排除する姿勢を示しています。マタイだけがユダの死を福音書内で報じます(27章)。ルカは続編の使徒言行録において若干異なるユダの死を報じていますが福音書では記していません。ルカ版「最後の晩餐記事」は、ユダもパンとぶどう酒を取っていた可能性を残しています。マタイ教会には、ユダを貶めペトロをまつり上げる風潮があります。マタイ教会(ヨハネ教会も)のユダに対する厳しさは、ダメなものはダメという倫理の大切さを示しています。「心の中で思った悪意は、実際に行った悪事と同じである」と教えるイエスの厳しさと、軌を一にしています(5章21節以下)。

一方ある者たちは揺らいだ」(17節)という一言は、ユダ蔑視の裏返しでもあるペトロ重視の姿勢から説明されるべきです。揺らぐとは、二つの間でどちらにしようか迷う態度のことです。ペトロがイエスを三度否定する行為は、本質的にはユダの裏切りと変わりません。しかし、ペトロ以外にも復活者を見てさえも疑い迷う弟子がいたという逸話によって、ペトロの罪深さが薄まります。ペトロは、保身のための行動を採るか、それともイエスと約束した自分の言葉通りの行動を採るか、この二つで迷いました。同じように復活者の前で、複数名の男性弟子たちは迷ったのです。

マタイ教会の当初の執筆意図を超えて、この迷いというものは礼拝というものの本質を教えています。人生の岐路に迷う友が、会衆の中にはいるということです。あれかこれか、どちらかを迷いながら、復活者の意志を問うために礼拝を捧げている人が現におられます。わたしたちがキリストを信じているゆえに「全ての自由」を与えられ救われているので、迷うのです。教会の信仰は、マインドコントロールを用いる破壊的カルトとは異なります。一人のカリスマ・権威にひれふすピラミッド的組織でもありません。そうではなく、自由な交わりである神・イエス・聖霊の「名前の中へと」(19節)、自分の名前が編み込まれていく交わりです。現在・過去・未来にわたる教会員一人一人の「名前の中へと」自分の名前も入って行く、平等の交わりです。そこに自由があります。それだから迷う自由をも得ているからこそ、わたしたちは迷いながら二者択一を続け、迷うからこそ共に礼拝を捧げ続けて行くのです。

C そのような本質的な迷いの只中にあるわたしたちに、今日復活のイエスは現れて「全ての民族をあなたたちは弟子とせよ」(19節)と語られています。19節から20節前半までの一文の中に、多くの動詞がありますが、「あなたたちは弟子とせよ」だけが主語を持つ本動詞(主役)です。それ以外は分詞(脇役)です。この命令の意味するところが、イエスの言葉の一つの肝です。もう一つの肝は、「わたし、わたしこそが世の完成まで全ての日々にわたって、あなたたちと共にいる。」(20節後半)という約束です。

ギリシャ語は多種多様な時制を持つ言語です。現在・過去・未来だけではないのです。「弟子とせよ」という命令は、ただ一度の行為を意味する時制で表されています。全ての民族をキリストの弟子とすることは、ただ一度の行為では不可能です。復活者は、不可能なことをせよと命じています。それが、二者択一で迷う男性弟子たちに必要なチャレンジだったのです。このまま山を下り弟子を辞めて漁師に戻ろうかと迷っていた者もいました。弟子にふさわしくないと自己嫌悪に悩む者もいました。もちろんエルサレムで弟子として教会を創ろうと思っていた者もいました。そのような有象無象の十一人に対して、「ふさわしくないと思うあなたも含めてみな弟子だ。それを前提に、一回で全世界を含むような弟子の交わりを創ってみなさい。それこそ人間を一網打尽にする漁師の業だろう」と無茶な要求をイエスは示しました。

大きすぎる要求が、ばらばらの人間たちをまとめます。幻は大きいほど良いのです。迷っていた彼らは踏ん切りをつけてエルサレムに戻ります。そしてこの大きな幻・大きすぎる要求はペンテコステの日に、老若男女の120人の弟子たちがすべての民族の言葉を話して「イエスは主」と賛美した時に実現しました。その日に、3000人がバプテスマを受けてエルサレム教会が誕生したのでした(使徒言行録2章)。

もう一つのイエスの言葉の肝は、「わたし、わたしこそが世の完成まで全ての日々にわたって、あなたたちと共にいる」です(20節)。この約束は、明確にマタイ版「クリスマス物語」と対応しています。「インマヌエル(神は我々と共におられる)」というイエスのあだ名は、マタイだけが記しています(1章23節)。マタイ福音書はイエス降誕の布石をイエスの復活で回収しているのです。しかも強い強調をもって、「わたし、わたしこそが・・・あなたたちと共にいる(現在進行も含む)」と、イエス自身が約束しています。ここに神の強い意志をみることができます。聖書の神は旧新約を貫いて信徒と共におられる神です。アブラハムの神・サラの神・ロトの神・ハガルの神は、この人たちがどこにいても共に旅を続けられ日常を共にされました。

大きすぎる幻だけでは人は生きていけません。広大な言葉は、時に浅薄な言葉でもあります。もっと小さな希望であっても良いのでしょう。そうでなければ小さな日常生活を積み重ねるわたしたちの心に届きません。どんなに小さな約束でも、もしもそれがわたしたちの心に深く刻まれるのならば、それは福音です。わたしたちが二つの道の選択に迷う時に、復活のイエスは語りかけています。「どちらの道を採ってもわたしはあなたと共にいる。応援する。誰がいなくてもわたしだけは居続ける。わたしがその道であるから。わたしのあだ名はインマヌエル。この名前の中へと、あなたは編み込まれている。」

こういうわけで復活の主を信じて礼拝することは、迷いがちなわたしたちに思い切りの良さを与えてくれます。一つの何かを選び取る時に必要なことは思い切りです。別の何かを振り捨てる勇気です。そこには不安が伴います。安心が与えられなければ、人は選び取ることはできません。キリスト信仰が与える安心は、復活の主が常に共に居るという安心です。全ての自由を持つ方が、わたしたちの全ての自由選択に責任を持ち、必ず共に居てくださいます。そうであるならば、わたしたちは何を選んでも大丈夫です。復活の主イエス・キリストが、前に先立って導き、傍らにあって歩調を合わせて歩いてくださり、振り向けば必ず後ろにおられます。天からの光や雨や風となってわたしたちを包み、そしてわたしたちの足下の道となって必ず共におられます。道に倒れている時にこそ、わたしたちはイエスと接する面積が最も多いのです。選んだ道に苦難が多くともインマヌエルの神は必ず抱きかかえて起こしてくださいます。

今日の小さな生き方の提案は、復活の主イエスが今もそしてこれからもわたしたちと共におられることを信じるということです。そうすればわたしたちは自由を十分に用いることができます。迷いの中、自分や他人や環境を理由にして何も選ばないことは良くないことです。どの道を選んでも胸を張って堂々と思い切って歩けば良いのです。礼拝で選択し、次の礼拝で確認し新たな選択をする。復活信仰・復活者礼拝は、わたしたちの日常に好循環を与えます。