思い悩むな ルカによる福音書12章22-34節 2017年9月3日礼拝説教

今日の箇所はほとんど同じ内容でマタイ福音書6章25-34節(ルカ12章22-32節に対応)と、同19-21節(ルカ12章33-34節に対応)に掲載されています。マタイとルカが共有していた、共通の文書に由来する、イエスの教えです。元来のイエスの教えはアラム語かヘブライ語で語られたはずです。それがギリシャ語に翻訳され、マタイ・ルカ共通文書となりました。それを、マタイもルカもそれぞれの特色で味付けし、自分たちの福音書に掲載していったのです。今日はこの文書の成長ということに着目して、「思い悩むな」という教えについてお話をします。

ギリシャ語の「思い悩む」(メリムナオー)は、ヘブライ語動詞ダアグの翻訳語の一つです。おそらくユダヤ人イエスが語った時点で、使った動詞はダアグだと思います。ダアグの基本的な意味は、①「心配する」、②「恐れる」の二つです。どちらも否定的な意味合いで使われます。そして時々交代可能です。二つの意味は類似していると考えられているからです。ルカ福音書12章4節から34節までの間に、「恐れるな」「思い悩むな」という二つの否定命令が繰り返されている理由は、恐れと思い悩みの意味が重なっているからでしょう。日本語においても「おそれ」には、「危虞」の「虞」の字をあてる場合もあります。あれこれの否定的可能性を心配する/将来への不安という意味で、おそれと思い悩みは通じます。おそれは心配の原因にしばしばなりえます。

元来のイエスの教えにおいては、思い悩みやおそれというものは否定的なものと捉えられています。否定的な意味の心配や不安を捨てろという命令です。心配性を止め、神を信じて楽観的に生きなさいということです。楽観的な生き方の模範例が、空の鳥・野の花です(22-29節)。そして楽観的な生き方を勧める理由が色々挙げられます。たとえば、思い悩んでも寿命を伸ばすこともできないのだから(25節)、ソロモン王よりも野の花の方が着飾っているから(27節)、人間は鳥や花より優れているから(24・28節)、思い悩みは非ユダヤ人がすることだから(30節)といった具合です。

イエスの凄みは、この途方もなく楽観的で、あっけらかんとした「その日暮しの勧め」を、自分自身そのまま生きたことにあります。イエスは「アッバ」と呼ぶ神を素朴に信じて、必ずパンが与えられると信じた上で(11章11-12節)、「今日のパンをください」と毎日祈っていました(11章3節)。この素朴な信によって、失業者かつホームレスの集団であるイエス一行は旅を続けることができたのです。与えられたパンを感謝してイエスは仲間たちと分かち合っていました(9章10-17節)。「アッバである神は、命と体、つまりわたしたちの全存在を必ず世話してくれる。なぜなら命の創り主なのだから。それゆえに、命・体よりも価値の低いことがらに振り回されるな。思い悩むな」。これが、イエスが最初に語った時点の教えの趣旨です。

教えというものは、誰がどのような状況で語るかによって説得力が異なります。失業者イエスが、「わたしも大丈夫だから、あなたも大丈夫」と言う場合に、説得力があります。もちろんイエスは鳥と花の儚さ、つまりわたしたちの弱さをよく知っています(28節)。イエスも十字架でその弱さを担いました。わたしたちの日常の心配事をよくご存知の方が、心配性のわたしたちと同じ目線で言われています。弱さを突破せよ。それは、弱さを認めながら、なお神にあっけらかんと信頼することによってなされます(6節)。

マタイ・ルカの共通文書段階で、共通文書を作った人々はヘブライ語ダアグをギリシャ語メリムナオーに翻訳します(マタイ6章25-34節・19-21節参照)。そして、「思い悩むな」という否定命令だけではなく、肯定的な命令を合流させます。「ただ神の国を求めよ」(31-32節)、「富を天に積め」(33-34節)という命令です。これらは、おそらく別々の口伝だったのですが、共通文書の段階で近くに配置されたのでしょう。「思い悩むな・恐れるな」という教えは、「委ねよ・何もするな」というだけに聞こえます。共通文書は、積極的な勧めを隣に置くことで対案を示しバランスを図っています。色々と心配事をするよりも一つのことに集中せよということです。つまり「アッバの支配する社会の実現のために、貧しい人に富を施せ」という教えです。

この部分は、イエスの放浪の旅を支えた定住の支持者たち(10章38-42節:ベタニアのマルタ・マリア)、特に富んでいる支援者たちへの勧めです(19章1-10節:エリコのザアカイ)。そして、共通文書を作成した教会の人々の中の富んでいる定住者たちへの勧めでもあります。この教会は、多くの放浪の伝道者たちを派遣していたと推測されています。その目的は、「アッバの国の到来・実現」です(11章2節)。力による支配ではなく、仕えることによる共生。教会が示す「あべこべの世界」(愛による支配)をこの社会に実現させようと、彼ら彼女たちは放浪の布教活動をしていたのでした。

共通文書の編纂から生まれる教えも今日的です。富の使い方について世界的な間違えがあるように思えるからです。それがわたしたちの思い悩みの原因の一つです。つまり軍事予算、武器輸出入、死の商人の問題です。武力の比較と武力による威嚇、抑止力理論が横行しています。イージス・アショアを買わせたいために北朝鮮にミサイルを打ってもらったようにも勘ぐりたくなります。完全に把握し、ミサイル発射前日にのみ首相公邸に宿泊しているのですから。わたしたちに「思い悩むな」というのは無理というものです。では、どうすれば良いのか、解決を提示しなくてはいけません。例えばそれは、力を持つ者が率先して武装解除していくことです。米・ロ・中・英・仏から核兵器を捨てていくことが必要です。富を武力に用いるな、武器の製造で富を得るなということです。そこが世界の「思い悩み」の根源だからです。

ギリシャ人ルカは、あるいはルカ福音書を生み出した教会の人々は、さらに「思い悩むな」を発展させていきました。「思い悩む」という単語を、ルカとパウロは好んで用います。否定的な意味だけではなく、やむを得ない事情で心配するという意味も(11節「心配する」)、配慮するという肯定的な意味もあります(10章41節「思い悩む」、Ⅰコリント12章25節「配慮し合う」)。ルカとパウロは互いによく知っている友人でした。だからルカがこの単語を使う場合には、パウロを批判しつつ、「肯定的な意味まで含めて、思い悩むなと、イエスから命じられている」と考えられます。

ルカだけにある「マルタの思い悩み」(10章41節)については既に取り上げました。多くのことに心が配られている状態を「思い悩み」と呼ぶのでした。マルタとマリアの物語では、「多」か「一」かが問われました。マルタの場合も、否定的な思い悩みのみが多かったというよりは、肯定的な配慮をも含んで多くのことに思い悩んでいました。つまり、マルタは弟子として、イエスの放浪の旅をどのように支えて、段取りをつけて支援をしようかと、肯定的な配慮をたくさんしていたのでした。しかし、イエスはその肯定的な思い悩みをも批判し、「一つのことに集中すべきだ」とたしなめ、「マリアが一つのことに集中することを妨げるのは良くない」と教えました。

教会には親切な人が多いです。よく気を遣い合い、配慮し合います。それは基本的には良いことです。しかし時に面倒なことにもなりえます。特にパウロが勧める「教会形成の視点」が、かえって人間関係を悪化させたり、教会をその他の人間の組織と「類似品」にしてしまったりする場合がありえます。誰か偉い教会指導者が、「教会形成のためにあなたはあの人に仕えなさい。各自はよく組み合わさっていかなくてはいけないから」と力を背景に勧められる時に、個人の自由は制約されます。奉仕の強要は形容矛盾でしょう。ルカはパウロを批判しています。「思い悩むな、配慮もし合うな」という具合に、です。

「一」を選んでいる事例として、空の鳥・野の花が挙げられています。そのままの姿で生きるということに集中しているという例です。本能のままに、自由に生きるとも言えます。鳥も花も、人間のように配慮をしません。十戒を守ろうとしたり、「隣鳥になろう」「隣花になろう」とは思ったりしません。それが、ただアッバの国を求めるという行為、「一」を選ぶことです。マタイは「神の国とその義を求めなさい」と言いますが、ルカは「彼(あなたがたのアッバ)の国を求めなさい」としか言いません(31節)。本能のままに生きることは、人間社会では「義」が無い状態です。わがまま勝手で配慮が無いからです。しかしアッバの社会ではそれで良いのです。

ルカは、パウロの影響からか、鳥の種類を「烏」という一つに特定します(24節)。律法では「汚れた鳥」です(レビ記11章13-15節)。烏も烏のまま生きることが良いのです。非ユダヤ人(ルカも)に対しては、無理にユダヤ人がしている割礼を施さないのと同じです。配慮し合うことの問題は、烏を鳩に「同化」「帰化」させてしまう危険性です。「一」を選ぶということは、それ以上割ることのできない自分という存在を大切にするということでもあります。烏も鳩も同じ箱舟に乗っている姿が、アッバの社会です。

アッバの社会は、二人の息子を持つ父親の家庭です(15章11-32節)。ただ生きたい、ただ生きるだけで良いという本心に立ち返った弟息子は、そのままで受け入れられました。わがままのし放題でしたが、彼のアッバは寛大でした。弟息子は本能的に父親の寛大さを知っていたのです。そこに信を寄せて、思い切って帰宅したことに、彼の信の大きさが表れています。

兄息子からみれば依怙贔屓です。「義」にもとる裁定です。ただ兄息子は彼のアッバを誤解していました。彼もわがままに過ごして良かったのに、赦されていることを知らなかったのです。この意味でアッバを信じていませんでした。兄息子の父親への奉仕は、本心からではなく嫌々仕えていただけなのです。

烏・花・弟息子に共通しているのは、アッバに対する大いなる信に基づいて、自由に生きるということです。教会形成上、いただけない教えです。組織としての教会を大きく成長させるためには、規律が必要です。自己統治ができるように、一律の規則を定め、意思決定機関と権限を定め、構成員の選出方法を定め、機関と構成員を上手く組み合わせないといけません。事実教会は、パウロの教えに基づいて、そのような組織化を行って、組織としての教会を発展させ存続させていったのでした(Ⅰコリント12章27-31節、ローマ12章4-8節、エフェソ4章1-16節、Ⅰテモテ3章1-13節)。

ルカの教会は、とても「小さな群れ」だったようです(32節)。自由を強調する当然の結果です。自由は積極的な配慮でさえも、「上から目線の庇護はまっぴら」と拒否する理由になりえます。組織の決議にも従わない根拠にもなります。しかしその一方で自由は、思い悩みに打ち克つ大いなる信を保証します。

今日の小さな生き方の提案は、思い悩みを克服する生き方を身に付けることです。組織としての教会に連なることは、人生の思い悩みを解決しません。むしろ増やす要因になります。なるべく簡素な組織形態を勧めるゆえんです。大切なのは、わたしたちのわがままを認めるアッバへの全面的素朴な信です。一人一人がアッバの社会の構成員になる時、思い悩みは克服されます。