今日の聖句は先週の続きです。バプテスマのヨハネの説教が具体的に記されています。先週は大雑把に「格差を直せ」というヨハネの主張を紹介しました。今週はもう少し生の言葉を掘り下げていきます。7-9節の内容はマタイ福音書3章7-10節とほぼ同じですが、10-14節の内容はルカだけが報告している貴重な証言です。そこで、今日は7-9節に関しては、マタイとの相違点に留意して、ルカ独自の主張を浮き彫りにしていきたいと思います。また、10-14節については、ルカ独自の主張として特に重視してお話をしたいと思います。
ヨハネの説教を野外に出てヨルダン川まで聞きに来た人々はどのような人々だったのでしょうか。マタイ3章7節によれば、当時のユダヤ教の宗派のうちサドカイ派とファリサイ派の人々だったとされます。サドカイ派は神殿貴族・祭司たちを中心にした人々です。ファリサイ派は中間層からの支持を集めている人々です。どちらも、サンヘドリンと呼ばれる植民地議会/政府/裁判所(70人)を構成できる宗派です。逆にエッセネ派(修道生活重視)や、ゼロテ派(熱心党と訳される。武装革命是認)は、議会の構成員になれませんでした。
マタイ福音書のヨハネは、ユダヤ植民地政府の権力層にのみ説教を語っています。史実としてはそうだったかもしれません。それをルカは不特定の「群衆」が聴衆だったとします(ルカ3章7節)。それによって、サドカイ派・ファリサイ派だけではなく、すべての人が聴衆になりうるということになります。普遍性を持たせることに、ルカの工夫があります。
「我々の父(先祖の意)はアブラハムだ」などという考えを起こすな(8節)。という主張は、ユダヤ人の選民思想・民族主義を批判しています。特定の民族だけが優秀だと考えることは、普遍性を持ちません。聖霊に満たされた人々は、さまざまな文化・言語に開かれていくはずです。ローマ帝国の駐留「兵士」(14節)にも開かれているはずです。ルカは使徒言行録に描かれたキリスト教会の誕生と展開まで見通して、ヨハネの聴衆を普遍的な意味に広げています。それによって、「群衆」(10節)の問いである「では、わたしたちはどうすればよいのですか」は、時空を超えて現代のわたしたちの問いにもなります。
7-9節はすべての人への警告です。「正義の神は、全ての人に生き直しを求めていて、悔い改めたことが実証されるような正義を行わないならば、どんな人も神の憤りに満ちた審判を受ける」という警告です。ユダヤ人であることは何の免罪符にもならないというのです。
ヨハネは雄弁家であり名説教者です。ここには語呂合わせがあり、聴衆の記憶に残るものとなっています。「石ころ」の複数形はヘブライ語で「アブニーム」と言います。神はアブニームからでもアブラハムを創り出せるのだから、アブラハムの子孫であることは誇りにならないと、ヨハネは言っているのです。
ラップやヒップホップがさまざまに韻を踏んで語呂合わせをするのは、米国黒人文化に根ざしていると思います。たとえばバプテストの有名な名説教者の一人、マーティン=ルーサー=キング二世は、「悪人が悪巧みするplotときに、善人は良い計画を立てるplan。爆弾を爆発させるときにbomb、家を立てるbuild」と語りました。非暴力抵抗運動の真髄です。plの音やbの音で韻を踏むことによって多くの聴衆の記憶に残るわけです。
マタイもルカも共通して、ヨハネの説教のこの部分を重要なものと考えそのまま記録しています。それだけ印象に残る名説教だったということでしょう。わたしたちもまた聴衆や福音書記者たちと同じ感銘を持って、ここでヨハネの説教を自分に語られた内容として受け取らなければなりません。7-9節の前半部分は、正義の神の前に立つことをヨハネは勧めています。
わたしたちが描く神の姿はどのようなものでしょうか。徹底的に優しい、包容力のあるお爺さんやお婆さんというものでしょうか。愛の神、愛の宗教という限りにおいて正しいとらえ方です。しかしどうでしょうか。愛の神は、愛さない者に対して、そのような振る舞いをも両手を振って肯定するでしょうか。愛の神は、神が何でも許してくれることに甘えて、確信犯的に悪事を行う者をも許すのでしょうか。そのような宗教はアヘンでしかありません。愛の神は、愛するという正義を求める方です。聖書の正義は愛と表裏一体なのです。愛することが正義であり、愛さないことが不正だからです。
人工的な格差によってある者が驕り高ぶり搾取をし、ある者が貶められ搾取されることは、不正です。愛がないからです。神はこのような不正に加担したり、不正を認めたりすることを認めません。わたしたちは、「不正を行い続ける木を斧で切り倒し、火に投げ込む農民」としての神、裁判官としての神の姿を取り戻す必要があります。今でも不正がこの世界にあるからです。
公正な裁判を行う裁判官に対しては、仮に厳しい判決をもらう被告人であっても、「納得」します。イエスが受けた不公正な裁判の裏返しが、愛の神の行う正義の裁判です。神の愛を信じるからこそ、その信頼に根ざして、わたしたちは正義の神の前に常に立つ緊張感を持つべきなのです。日曜日の礼拝がある種の緊張感を持つのは、この場でわたしたちの罪があばかれるからでしょう。そうでなくてどうして「今日から愛を行おう」と生き方を変えて月曜日に向かうことができるでしょうか。他ならない愛の神に裁かれるから、わたしたちは納得するのです。
7-9節はマタイ版とほぼ同じ内容ですが、ルカは「悔い改めにふさわしい実」を複数形に変えます。悔い改めた後の行動は、人それぞれさまざまなものがあって良いという考えに立っているからです。何が自分のできる愛や正義なのかは、人によって異なるし、異なって良いのです。この「複数形の実」が、10-14節の一人ひとりに対する助言が異なることと深く関わっています。
本多哲郎神父は、悔い改めという単語を「低みからの見直し」と翻訳します。格差によって不利益を受けている人々の視点に立って、自分の生き方を見直して変えることが必要です。ヨハネは、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」という群衆全体の質問に、低みから見直して、「下着/ふだん着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」(11節)と総論を答えます。この言葉はすべての人々にあてはまる活動計画です。
より大きな活動方針はすでに示されていました。高いところを削って、低いところを埋めよというものです(5節)。その具体的な活動は、持っていない者に持っている者が分けるということです。衣服であれ、食事であれ。再分配をすることが正義です。低みに立つ、低いところに押しやられている人の側から見直すから、このような活動計画が総論として全体にあてはまります。
では各論。群衆の中に徴税人という職業の人が居ました。ヨハネからバプテスマを受けて、新しく生き直したいと願っていました。「わたしたち徴税人はどうすればよいのですか」とヨハネに尋ねます。徴税人の心境は複雑です。彼らはユダヤ人でありながら「アブラハムの子ではない」とみなされていました。徴税人ザアカイへのイエスの言葉、「この人もアブラハムの子なのだから」(19章10節)は、今日の箇所と併せて読まれるべきでしょう。ユダヤ人仲間から、職業によって差別され排除されていた徴税人。なぜなら、徴税人がその仕事柄ローマ人と接触するからです。非ユダヤ人であり支配者であるローマ人は憎しみの対象です。憎きローマ帝国への税金を、ローマ人の代わりに同胞から取り立てる徴税人は、「支配者/権力の犬」とみなされ嫌われていました。
嫌われた徴税人は、その悔しさを晴らすためもあり、税金を規定以上に取り立てることがあったようです。ローマ人から示される税率は、徴税人しか知らなかったのでしょう。余分に取り立てた差額は自分の懐に入れることができました。ローマ帝国の狡猾な「分断統治」があります。住民同士が憎しみ合う構図をつくって、ローマへの反感がまとまった大きな力にならないように仕組まれています。
徴税人は、ヨハネの言葉「アブニームからもアブラハムの子を」という部分にひっかかりました。自分たちは石ころ扱いされ、アブラハムの子とみなされていないからです。もう少し徴税人に共感を寄せた語りはないものかと思うからです。そして、分け合うということは、差別されながらも裕福であるというわたしたち徴税人にとって、何をすることなのかを確認したかったのでしょう。
ヨハネは経済に絞って答えます。「規定以上のものは取り立てるな」(13節)。差別されていることは情状酌量や弁解にならないということです。分断を避けて高みを削るためには、経済的高さにいる者は自分の高いところを低くするべきです。もしファリサイ派はヨハネに尋ねたら、ヨハネは「徴税人や異邦人への差別を止めなさい」と言うことでしょう。精神的高さを削るべきだからです。
異邦人ローマ兵もヨハネに尋ねます。「このわたしたちはどうすればよいのですか」(14節)。支配者ローマ帝国の兵士が、植民地ユダヤの宗教家に生き方を習うためにバプテスマを受けに来ていたことは驚きに値します。ローマ兵は支配されている人々の現実という低みから見直さなくてはいけません。
被支配者の現実の厳しさは、マタイ福音書5章39-42節のイエスの言葉から類推されます(新約8ページ)。ここに出てくる「悪人」はローマ兵のことを指すと推測できます。突然に理由もなく右の頬を殴られることがユダヤ人の日常にありました。下着/ふだん着を取ろうとする占領者がいました。通りがかっただけで軍の荷物を1ミリオン運べという兵士がいました。「借りるだけ」と言ってゆすり取る者が身の回りに毎日いたのです。沖縄の現実と重なります。イエスは被害を受けているユダヤ人たちに助言をしました。
それに対してヨハネは加害者ローマ兵に助言します。「誰からも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな/告発するな(田川建三訳)。自分の給料で満足せよ」というものでした(ルカ3章14節)。ローマ兵は、ユダヤの民も含め世界中の属州に住む人々の右の頬を殴るな・下着/ふだん着を取るな、植民地の民を牛馬のごとくこき使うな・恐喝するな・警察権力を使って弾圧するなと、ヨハネは教えます。兵士であるだけで十分な給料をいただいているのに、それ以上の余計な収奪を行うのは不正義だということです。
経済のことに絞っているので、いささか弱い主張です。根本的な問題であるローマ軍駐留反対を語っていません。しかし被害者が今困っている低みを的確に言い表した「加害者更生プログラム」なので、現実にローマ兵の日常生活を変える言葉です。ヨハネの優れている点は(徴税人に対しても)、その人の日常生活の小さな実践から生き方が変わることを重視して、「わたしにもできる悔い改めの実」を職業ごとに複数種類示していることです。置かれている条件の中で良心的に愛を実践して生きることが職業や民族を超えてできるはずです。「これ以上は取り過ぎ・不正」と考え、降りることが誰でもできるのです。
今日の小さな生き方の提案は、このわたしにとって「持っているものを分けること」が何であるのかを考えることです。そしてそれを実践することです。低みから見直し自分の高いところを削って低くされている命に配りましょう。