ヨハネ福音書を読むときにわたしたちは聖書の読み直しを迫られます。十字架の場面でさえ、マルコ福音書と詳細においてかなり異なることに気づくからです。わたしたちはその場に居た証言者としての著者ヨハネを重視して、十字架の場面を再構成しなくてはいけません(35節)。「その者」(35節)と呼ばれている人物は、著者=愛する弟子=ヨハネでしょう。
史実と同時に、イエスの十字架が信者にとってどのような意味があるのかについて、著者だけではなくヨハネ福音書に付け加えをした人々の考えも考慮に入れる必要があります。今日の箇所は三箇所旧約聖書を引用しています。原著者ヨハネはほとんど「旧約の実現」という視点を持っていません。旧約引用も付け加えた人々の傾向なのです。前にも申し上げたとおり、付け加えた人々はヨハネの手紙一を書いた人々です。今日は、この文書にも目を配ります。
「十字架上の七つの言葉」という言い方があります。四つの福音書に記されているイエスの言葉を数えると七つになるからです。イエスが最後に何を語ったのか。史実を探るという観点ではマルコとの比較が重要です。マルコは「わが神、わが神、なぜあなたがわたしを見棄てたのか(エロイ、エロイ、レマ・サバクタニ:全体アラム語)」という言葉しか報告していません。マルコによれば、そばにいる者がこの言葉を聞いて「そらエリヤを呼んでいる」と誤解して、酸いぶどう酒を海綿に浸して葦の棒につけて飲ませようとします。しかし、イエスはそれを飲まずに死ぬ、これがマルコの筋立てです。
史実にしては不自然です。アラム語の「エロイ」を「エリヤ」と聞き間違えるのか、説明が難しいからです。そこでマタイは、ヘブライ語の「エリ」と書き直します。それは、ヘブライ語・アラム語のちゃんぽんという新しい問題を生んでしまっています。アラム語のサバクタニを、ヘブライ語のアザブタニにしなくては筋が通りません。
むしろヨハネ福音書の筋立ての方が自然です。イエスは「わたしは喉が渇いた」と言います。そこで人々は酸いぶどう酒を含ませた海綿をヒソプにつけて飲ませようとしたというのです(28-29節)。ヒソプというのは潅木の枝部分です。だから葦の棒よりも短い素材です。弟子たちとの最後の会話も、やはり十字架のイエスと距離が近くなくては成り立ちません(25-27節)。わたしたちが考えるよりも十字架は低い処刑台だったかもしれません。マルコと異なり、イエスはぶどう酒を飲みます。喉が渇いたとすれば飲むのが自然です。
ヨハネ福音書は過越祭の前日である安息日の前の日と報告しています(31節)。安息日であろうがなかろうが、木にかけられた死体は日没までに処分しなくてはいけませんでした(申21:22-23)。ただ死体に触れると、次の日没まで汚れてしまうので過越祭の食事を食べることができなくなる事態を、ユダヤ人権力者たち・祭司たちは嫌がったのでしょう(レビ22:4-6)。
ヨハネ福音書では処刑時間が短いので、足を折ってそのショックで死期を早めるという当時の風習が記録されています(31-32節)。十字架刑は本当に残虐な処刑法です。この風習もいかにもありそうな話です。にもかかわらずイエスの足の骨は折られませんでした。明らかにすでに死んでいたことがわかっていたからです。その死体に向かって、ローマ兵は槍を脇腹に突き刺しました。これもヨハネ福音書だけに記されています。この行為は死んだかどうかを知るためではありません。死体からは水と血が分かれて流れる、だから死んだかどうかを確かめたのだという説もあります。医学的にはそんなことは無いのだそうです。死体からも血しか出てきません。古代人の方がこの類の経験則には強いものです。死んでいるかどうかを知るためではなく、死者を侮辱するために脇腹を槍で刺したのです。
以上、史実としては、イエスは「渇く」と言ってぶどう酒を飲み、極めて短時間で殺され、骨を折られなかったけれども死後槍で脇腹を刺されたのでしょう。この十字架刑死を著者ヨハネはどのような出来事と信じたのでしょうか。
ヨハネはこの十字架を復活とセットにしながら、イエス・キリストによる救いが成し遂げられた完成の出来事と信じています。ひとつぶの麦への信仰です(12:24)。28節・30節の「成し遂げられた」は、この福音書の鍵語の一つです(5回登場)。「成し遂げる」(テレイオー)は、イエスを遣わした神からの任務を行うことに結びついています(4:34、5:36)。口語訳聖書は、「すべては終わった」と否定的に訳しましたが、ここは新共同訳聖書のように肯定的に「成し遂げられた」がより良いと思います。目的を果たし目標に到達したという意味合いです。
神が神の子イエスを特殊な任務を与えて派遣したということが、著者ヨハネの最初からの強調点でした(1章)。その任務とは愛を行うことです。サマリア人女性の友となり、瀕死の病人を治し、飢えている者に食べ物をふるまい、権力者を時に批判し・時に諭し、弟子の足を洗うイエス。もし神が地上に降り立ったならば、イエスのように愛を行うものです。神の愛を体で教えるためにイエスは派遣されたのでした。
十字架は愛の極限であると著者は信じています。イエスが世界中の人々の代わりに殺され、神によってよみがえらされ、その永遠のいのちを信じる人すべてに配ったと信じているからです(3:14-16)。この愛はあまりにも徹底的に無条件なので、地上では不条理の苦しみを受けている人が優先されて愛されます。しかし原理的には、イエスを殺した者でさえこの愛の傘の下に入っています。あの死体を刺したローマ兵でさえも、またこのわたしでさえも入るということです。誰もが無条件に愛されているということを、ただ「アーメン(その通り)」と受け入れるだけで良いのです。ここに救いがあります。口で告白できない人や動植物などは、神への信頼を存在で示しているのですでに救われているとわたしは考えます。赤ちゃん・空の烏・野の花はわたしたちの模範です。
この救いという任務遂行のためだから、イエスは積極的に自らの意思で十字架へと堂々と進んでいきます。そのように著者は描きたいのです。
たとえば、ヨハネ福音書では「アッバからの苦い杯」(残虐な十字架刑死)をイエスは進んで飲もうとします(18:11)。このことを十字架上でヒソプに浸されたぶどう酒を飲んだという史実と、著者は結びつけます(30節)。「息を引き取られた」という言葉も、直訳したほうが良いでしょう。「彼(イエス)はその霊(プネウマ)を引き渡した(パラディドミ)」が直訳です。ここでもイエスが、積極的に自分の自由な生き方の源であり(3:8)、いのちそのものである霊を神に引き渡した行為が強調されています。十字架は、人から人へのイエスの身柄引き渡しだけで完成しません。神の子が神へその霊を引き渡すことで成し遂げられるのです。
さらに著者はもう一つの鍵語を用います。「取り降ろす」(31節・38節)は、15節「殺せ」と同じ単語アイローです。直訳は「上げる」「起こす」、そこから派生して「取り除く」という意味になります。ここには人々がイエスを十字架に上げ、さらにイエスを十字架から上げたという、二重の上昇が書かれています。つまり、実は神がイエスを十字架に上げ、さらによみの淵から起こしたのだという信仰告白があるということです。
この信仰の目で、著者はイエスの脇腹から流れた血に、復活者の与える永遠のいのちの水をも見たのです(34節)。この「水(フドール)」も鍵語です。ヨハネだけに書かれている「イエスの体内から流れ出た水」は、4章と7章にある、信者に与えられた永遠のいのちを指します。4:13-15はサマリア人女性とイエスとの対話の場面です。自分の人生に渇きを覚え苦労している人に、イエスは「このように対面してわたしを礼拝し続けるなら永遠に渇かない」と約束しました。7:37-39はエルサレム神殿における仮庵祭での演説の場面です。イエスは「渇いている者はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と招きます。そして「わたしを信じる人は、その人の内臓から生きた水が川となって流れ出る」とも約束します。
わたしの代わりに渇いた方のおかげで、わたしは渇かなくなる、毎週の礼拝で十字架のイエスを見上げるときに人生の渇きが癒されていく、ここに十字架への信仰があります。ぶどう酒はその象徴です。すべての人はこの礼拝に招かれています。疑う者も礼拝に居ても良いでしょう。その人は復活者に会って脇腹の傷を毎週の礼拝で確認し、信じる者になるからです(20:20・27)。
この永遠のいのちは自分の渇きの癒しにとどまるのでもありません。わたしたちの脇腹・内臓からも愛という水が泉のようにこんこんと溢れ出るものなのです。愛された者は愛する者へと変換されるからです。隣人の渇きを癒す存在へとわたしたちは新生します。すべての人は愛するために愛されたのです。そうでなくては十字架の犠牲は安っぽくなり、信仰はアヘンとなります。
先程のテレイオーが「成し遂げられる」と訳されていない箇所が一つあります。17:23では「完全に~になる」と訳されています。この文脈は、信者とイエスが一つへと成し遂げられる(完成される)ことを、イエスが神に祈るという場面です。愛を行ったイエスにならって、イエスのように愛を行うことが求められています。
17章はⅠヨハネの著者たちの筆による付け加え部分です。ヨハネ福音書を読んだⅠヨハネの著者たちは、読後の応答行為として書き加えていきます。またヨハネという名前を用いて自分たちの教会用文書を創作していきます。決して悪い行為ではありません。このような仕方で正典は増えていったからです。わたしたちにとって有益であれば、付け加え行為・名の盗用があるとしても用いていくべきでしょう。Ⅰヨハネが信者の隣人愛を強調しているので有益であると考えます(Ⅰヨハ4:7以下)。また思考の流れが追えるので、付け加えを意識することそのものも有益なのです。Ⅰヨハネ2:1-6を読みます(441頁)。
イエスの十字架が全世界の罪を償ういけにえと告白されています。「世の罪を取り除く神の小羊」への説明です。この愛の傘に入らないいのちは無いのです。ところで、この広い神の愛を信じている・愛の神を知っていると言いながら、神の言葉を守らない人がいるというのはどういうことかと、Ⅰヨハネの著者たちは訴えます。イエスが行った愛を行わない信者というものは自己矛盾しています。その人の内には真理がない。一方、「愛せよ」という命令を守る者の内には、神の愛が「成し遂げられ」(テレイオー)ています(新共同訳「実現しています」)。ここでは完全に神と一つになる約束が書かれています。
思考の流れはこうです。神の愛を行うイエス、イエスの愛を行う信者、愛を行う限りにおいて神・イエス・信者は一つです。またもう一つの流れもあります。神から派遣されたイエス、イエスから派遣された信者、任務はただ一つ・愛を行うことです。これらの愛の原動力が聖霊という神です。
今日の小さな生き方の提案は、十字架の愛を受け入れることです。自分がすでに神の子とされ・愛されていたと知ることです。そして復活を体験して隣人を愛することです。この人のためにもキリストは苦い杯を飲んだのです。広い心・寛容を身につけて生きる、これが永遠のいのちを生きるということです。