21 (彼らは)その町でも福音宣教をして、そして相当数の人を(彼らは)弟子として、彼らはリストラへとまたイコニオンへとまたアンティオキアへと戻った。 22 弟子たちの精神を(彼らは)支えながら、信に留まることと、「多くの苦難を通して神の国へと私たちが入らなければならない」ということを(彼らは)勧めて、 23 さて、彼らのために教会ごとに長老たちを(手を広げて)選び、断食とともに祈って、彼らは彼らを、彼らが信じた主にゆだねた。 24 そしてピシディアを通過して、彼らはパンフィリアへと来た。 25 そしてペルゲにおいてその理を(彼らは)話して、アタリアへと彼らは下った。
いわゆる「第一回伝道旅行」(紀元後47-48年ごろ)の最後の場面です。先週の時点で、バルナバと、数名の信徒たちは、大けがを負ったパウロの両脇を支えながら、リストラからデルベへと100kmの道のりを歩きます。この道は、いわゆる「皇帝街道」と呼ばれる舗装された幹線道路ではありません。不便な細い道をゆっくりと逃げていくのです。
デルベは小さな町です。リストラで「失敗」したバルナバとパウロは伝道活動に慎重だったと思います。パウロの健康が回復するようにゆっくりと待ち、また、ギリシャ語での伝道が可能かどうかじっくりと調べ、正統ユダヤ教徒の反発を招かないように会堂に突然訪れないように等々、反省点を生かしていたのでしょう。こうしてデルベの町での伝道は「成功」します。「相当数の人を弟子とし」(21節)信徒にすることができたからです。
そこにはバルナバとパウロ以外の無名の信徒たちがいたことも大いに関係していたと思います。原文は一行を「彼ら」とだけ記し、決して「二人」に限定していません(新共同訳に反対)。パウロの生命を救ったピシディア・アンティオキアの信徒たちもデルベでの伝道を共に担ったと推測します。伝道の成否は雄弁な説教者がなす言葉だけによりません。むしろ、無名の信徒たちが相互に「精神(プシュケー)を支え」(22節)ることによるものです。教会の交わりの中で精神を支え合うことを「牧会」と呼びます。
この人々が同行していたから、一行は少なくともピシディア・アンティオキアまで戻らなくてはならなかったのでしょう。出発地点であるシリアのアンティオキアに帰るならば、デルベからタルソスを通る陸路で行くことが最短であり合理的です(巻末地図7参照)。パウロの故郷タルソスを通る道のりはパウロにとって慣れ親しんだ道でもあります。合理的なルートを採らない理由は、ピシディア・アンティオキアに戻らなくてはならない信徒たちがいたからだと思います。この人たちは少なくともピシディア・アンティオキアまで同行したと想定します。その先については後述します。
デルベというローマの植民市でもない「周縁」の町にバルナバとパウロは相当期間居て、相当数の教会員を得ました。家の教会が立ちあがりました。家の教会の礼拝場所を提供した信徒の家でパウロは静養します。そのような熱心な信徒の中に、ガイオ(20章4節)やテモテ(16章1節)が居たと推測します。テモテの出身地は曖昧ですが、オリゲネスの証言に従ってデルベ出身ととります。この二人は第二回以降の伝道旅行に同行していきます。なお第二回・第三回伝道旅行においては、パウロたちは陸路でシリアのアンティオキアからデルベに到達しています(巻末地図8参照)。デルベ教会は重要な拠点です。
パウロが完全に快復した後に、一行は来た道を途中まで戻ります。リストラ、イコニオン、ピシディア・アンティオキアと戻りつつ、そこで出会った人々(立つことができるようになった男性、ナザレ派に転向したユダヤ人、諸民族の信徒たち)に再会します。パウロが生きていることを立てるようになった男性は驚きながら喜びます。これら三つの町の信徒たちに向かって、一行はデルベの教会で実践したことを勧めます。
一つは、信に留まるようにという勧めです。どんなに苦難があっても「イエスは主である」と共に告白し、共に賛美し、この名によって祈ることに価値があるからです。キリスト教は交わりの宗教です。真の葡萄の木イエス・キリストを信じて、その幹に留まり続ける枝であり続けようとする交わり。それは各信徒が苦難を耐え忍ぶことができる交わりです。「多くの苦難を通して神の国へと私たちが入らなければならない」。苦難は神の国に入る条件ではありませんが、必然的なものです。ルカ文書に特徴的な「神の必然」という表現です(ルカ19章5節、同24章26節)。パウロはテモテ宅のベッドで治療中、また病床の周りでなされる礼拝中、神の国の交わりに精神(プシュケー)が支えられていると実感したはずです。ナザレ派の家の教会は、弱さで連帯する群れです。教会形成は各個人が弱さ(人生の壁、不条理な苦しみ、社会構造による抑圧)を正直に分かち合うことができるような仕方でなされるものです。
二つ目は教会ごとに長老たちを選出することです。わたしたちの用語でいえば執事のような教会の指導者です。先ほどのガイオやテモテはデルベ教会の長老であったのかもしれません。役職者の選び方は興味深いものです。断食を伴う祈りと手を置くことがシリアのアンティオキア教会の選任方式でした(13章3節)。エルサレム教会も手を置いて祈っています(6章6節)。これらは「按手礼」の根拠聖句です。デルベ教会では手を置いて祈るのではなく、手を広げて、あるいは手を上げて祈っていたようです。祝祷のポーズにも、個人の祈りのポーズにもさまざまあるように、任職の祈りの方式にもさまざまあったことが分かります。わたしたちも一つに絞らなくても良いのでしょう。
教会ごとに長老を立てるということも大きな特徴です。原文23節「彼らのために」を「彼らでもって」と解釈すれば、教会ごとにその教会の信徒たち自身が自分たちの代表を選任したとも解しえます。放浪の使徒たちが定住の信徒たちの代表を選ぶということは、あまり良いことと思えません。人事権という自治の根幹にかかわる事項は、教会ごとの主体性に委ねる方が良いでしょう。監督制を採らないバプテスト教会の伝統にもつながります。実際いつ訪問するか分からない使徒に代表選出まで頼ることは非現実的です。先ほどの「手を広げて」を、挙手の意味ととれば選挙で選んだとも解しえます。ギリシャの民主政・「民会(エクレシア)」ならば籤引きで選ぶところを、教会(エクレシア)は手を挙げて選ぶのです。もしそれが全会一致ならば6章5節の、あの七人を選び出した時と同じことがらとなります。このようにしてデルベ教会の自治に倣って、信徒たちは長老たちを信徒たち自身が信じた「主にゆだねた」のです。教会の自治は自治でありながら「主治」、民主でありながら「主主」です。主の御手の中で/主の傍らで行われる運営でなくてはなりません。
ピシディア・アンティオキアからは短い記事です。往路で訪れたペルゲでは福音宣教をしていません。マルコとの喧嘩別れがあったので伝道活動をする余裕がなかったのです(13章13節)。復路で初めてペルゲにおける福音宣教が報じられています。ペルゲでも、アタリアという別の港町に転じても支援者が与えられない。そこで、なけなしの船賃だけをもってバルナバとパウロ(と他の信徒たち?後述)は特記すべき逸話もなくシリアへと船出したのでしょう。
26 そこ〔アタリア〕から彼らはアンティオキアへと船出した、そこ〔アンティオキア〕から彼らは、彼らが満たした業へと、神の恵みに引き渡され続けていたのだが。 27 さて(彼らは)到着して、そして(彼らは)その教会を集めて、彼らと伴う神がなした全てを、また彼が諸民族に信の扉を開いたということを、彼らは報告し続けた。 28 さて彼らはその弟子たちと共に少なからぬ時間を過ごした。
バルナバとパウロは約一年間の旅を終えて、母なるアンティオキア教会に戻ってきました。古代のことです。二人は帰ってくることを予め知らせることはできません。到着してから、二人が「教会を集め」ます(27節)。「教会(エクレシア)」を場所的な意味ではなく交わりの意味で語っていることが印象的です。人々を集めたのです。日常生活の中ではアンティオキアの市民として個別に散らされ暮らしている信徒が、集まったその時に「教会(エクレシア)」が出現します。世から呼び出されるのです。
アンティオキア教会はバルサバ、シメオン、ルキオ、マナエンたち指導者たち(13章1節)を初めとして、集まれる信徒が二人を喜び迎え、その労を労います。教会は、バルナバとパウロとマルコを「神の恵みに引き渡」しました(26節)。「引き渡す」(パラディドミ)は、イエスを裏切る時の術語です。この伝道旅行が苦難に満ちたものになることを教会は覚悟して送り出したのでした。三人に十字架を負わせるということです。傷を負って帰ってきたパウロや、マルコがいないことなどから、信徒たちは旅の苦労を推察します。その十字架の傷跡を見ながら恵みに感謝します。三人の苦難は、自分たちの代わりの苦難なのです。痛い恵みに共感しつつ、教会は感謝をします。
教会員たちはバルナバとパウロの報告をじっと聞きます。キプロス島から小アジア半島のいくつかの町で神が教会を起こしたということ、そして、その教会の構成員は諸民族から成るということが報告されました。報告に対して誰も何も応答していません。アフリカ系のシメオンやルキオにとっては当たり前の結果でしょう。アンティオキア教会がすでに諸民族から成っていたからです。マナエンのような苦労を知らない者にとっては言葉を失う感動の結果だったことでしょう。ギリシャ語を用いる伝道固有の苦労とやりがいを知ったからです。「小アジア半島にもすでにナザレ派の人が少数ながらいた」という報告にはバルサバは納得したことでしょう。そのような形で自分たち無名の信徒がアンティオキア教会を創設したからです。
28節に「その弟子たち」が登場します。先週の20節「その弟子たち」をピシディア・アンティオキアの信徒たちと解しました(13章52節)。今回も定冠詞が付いているので同一人物である可能性があります。この人々はシリアのアンティオキア教会まで同行したかもしれません。こう考えると28節の主語「彼らは」はアンティオキア教会の信徒たちと考えられます。両アンティオキア教会の交わりが、少なからぬ時間あったということになります。伝道された当事者による報告であれば、より真に迫るものとなったことでしょう。またマルコはいなくなったけれども、別の仕方で新しい友が与えられたということにもなりましょう。復活というものは別方角から与えられるものだからです。
今日の小さな生き方の提案は、デルベ教会に倣うことです。弱さにおける連帯とも言えます。大けがを負った指導者の看病から教会が設立されていきました。それが原点にあるので信徒たちの自治が成熟し、使徒に頼らない教会形成が発展します。また一人ひとりに人生の苦難を耐え忍ぶ霊性が備わっていきます。十字架と復活を個人でも、また教会(キリストの体)でも体験していくのです。その良い実例が母教会に還元され、苦難の交わりが広がっていきます。シリア地域と小アジア半島内陸部で、アンティオキア教会系列の「地方連合」Associationが形成されていきます。この歩みに倣いましょう。