【はじめに】
一般にイスラエルの「十二部族」と言い慣わします。十二という数字は、約束の地において嗣業の土地が与えられた部族の数です。実は相続地が与えられなかった十三部族目の部族があります。レビ部族です。「イスラエルの息子たちの真ん中で彼らに嗣業が与えられなかった」(62節)とある通りです。始祖ヤコブ(イスラエルという名前も持つ民族の祖)には十二人の息子と、一人以上の娘がいました。レビ部族の始祖レビという男性は、ヤコブの三男です。三男レビの子孫に嗣業が無いということを、十一男ヨセフの二人の息子(マナセとエフライム)が補います。ヨセフだけは他の兄弟の二倍の分け前を取り、ヤコブの孫でありながらマナセ部族・エフライム部族の設置が許されるのです。息子ではなく、孫を数えて十二という数字を成立させています。
レビ部族については、「イスラエルの息子たちの真ん中で彼らは自身を数えなかった」(62節)と言われます。なぜレビ部族は、他の部族たちと肩を並べることをしなかったのでしょうか。なぜレビ部族は、他の部族と同じように土地の割り当てを決める籤を引かなかったのでしょうか(53-56節)。社会における教会の役割と、レビ部族とを重ね合わせながら考えていきましょう。
57 そしてこれらが彼らの諸氏族に応じたレビ人たちの数えられている者たち。ゲルションに属するそのゲルション人の氏族。ケハトに属するそのケハト人の氏族。メラリに属するそのメラリ人の氏族。 58 これらはレビの諸氏族。そのリブニ人の氏族、そのヘブロン人の氏族、そのマフリ人の氏族、そのムシ人の氏族、そのコラ人の氏族。そしてケハトはアムラムをもうけた。 59 そしてアムラムの妻の名前はヨケベド、レビの娘。その彼女が彼女をレビのためにエジプトで生んだのだが。そして彼女はアムラムのためにアロンを、またモーセを、またミリアム・彼らの姉妹を生んだ。 60 そして彼がアロンのために生まれた。ナダブと共に、またアビフと共に、またエルアザルと共に、またイタマルと共に。 61 そしてナダブとアビフは、異なる火を彼らが近づけた時に死んだ。 62 彼らの数えられている者たちは二万三千。一か月とそれ以上の息子のうち全ての雄。なぜならイスラエルの息子たちの真ん中で彼らは自身を数えなかったからだ。なぜならイスラエルの息子たちの真ん中で彼らに嗣業が与えられなかったからだ。
【レビの子孫】
ヤコブの三男レビには三人の息子と一人の娘がいました。「ゲルション」「ケハト」「メラリ」という息子たちと(57節)、「ヨケベド」という娘です(59節)。次男ケハトの息子「アムラム」(58節)は、叔母にあたるヨケベドと結婚します(出エジプト記6章20節)。ヨケベドとは「ヤハウェは重い/尊重されるべき」というような意味の名前です。
ヨケベドが「レビの娘」であるとすれば、「その彼女(ヨケベド)が彼女(ミリアム)をレビのためにエジプトで生んだ」(59節)ということになります。ギリシャ語訳は「ヨケベドがレビのためにこれらの者たちをエジプトで生んだ」と修正しています。その修正は不要です。ヤハウェを尊重し礼拝するヨケベドが、志を同じくする「ミリアム」(59節)をレビ部族のために生んだのです。
ミリアムには二人の弟がいました。「アロン」と「モーセ」です。この三人が出エジプトの旅を指揮する指導者たちです。相続地が無いレビ部族が出エジプトを導いたことを基本的なこととして覚えておかなければなりません。
アロンに四人の息子が生まれました。60節は直訳すると私訳のように五人の息子がいたかのように読めますが(「彼が」とある男性が誰であるのかが不明)、これは「ナダブ」という人名の前に余計な前置詞が一つ付け加わっているからです。文法間違えです。ギリシャ語訳はその間違えを修正しています。それを継承すれば新共同訳のように「ナダブ」「アビフ」「エルアザル」「イタマル」の四人が生まれたこととなります。
アロンの長男ナダブと次男アビフは、叔父モーセによって粛清され殺されています(レビ記10章)。この出来事によって三男エルアザルがアロンの跡を継いで大祭司となります(63節)。「ナダブとアビフは、異なる火を彼らが近づけた」(61節)とは、二人が異なる礼拝様式を導入したということと推測されています。それはケハトの孫にあたる「コラ」(58節)の反乱と同種のものです(16章参照)。
遡れば、モーセは兄アロンが金の子牛をヤハウェ神とみなして礼拝したことも批判しています(出エジプト記32章)。つまりレビの子孫たちは、ヤハウェをどのように礼拝するかについて深刻な葛藤を経験し、常に何が最善の礼拝かを考え続けています。それがイスラエルという「祭司の国」にとっての宿命です。出エジプトが、ヤハウェを礼拝するための旅であったからです。そのためにレビ部族の三人の姉弟が指導者団として立てられたからです。軍事指導者である「王」ではなく、複数の宗教者たちが率いる民であることにイスラエルの独自性があります。預言者バラムが言い抜いた通りです。「何と、孤高の民が宿る。そしてその諸国の中に彼は自身を認識しない」(23章9節後半)。
教会が一所懸命になるべきことは礼拝の仕方なのだと思います。イエスをキリストと賛美し告白し、共に聖書とパンを分かち合い、イエスの名前によって祈るために、互いに祝福し合うために、どのような礼拝が求められているのかを教会は真剣に追求する交わりです。他の活動やプログラムに増して、礼拝の内容こそが重要です。わたしたちがレビ人・祭司だからです。
【レビ人の数え方】
「彼らの数えられている者たちは二万三千」(62節)という表現は、他の部族たちと同じ表現です。二万三千という数は第一回目の人口調査よりも千人増えていますが、ほとんど変わらない数字です(3章39節)。これだけを見ると比較的人数の少ない部族ということしか特徴がありません(14節、シメオン部族とほぼ同数)。
しかし、レビ部族の特異性は、別のところにあります。他の部族は二十歳以上の兵役につける男性だけを数えました(2節)。それに対して「一か月とそれ以上の息子のうち全ての雄」(62節)を、レビ部族は数えています。月齢一か月以上で二十歳未満の男性たちも数に算入されているのです。
二割増し三割増しでも二万二千人ということは、シメオン部族よりももっと少ないということが言えます。最も少なく小さい部族が、正にそれゆえに全体イスラエルの指導者なのです。またレビ部族だけは兵役と関係ない基準で数えられているということが分かります。一か月の子どもは戦うことができません。戦争と関係ない部族が、正にその理由でイスラエル全体の指導者なのです。レビ部族の三十歳以上五十歳以下の男性たちは、軍務ではなく会見の幕屋(至聖所)の作業に従事します(4章)。
もちろんレビ部族も、他の部族と同様に女性たちを数えないのですから、この女性差別は今日厳しく批判されるべきです。とは言え、レビ部族が乳幼児たちを一人前として数えていることは古代にあって画期的なことです。子どもの人権という発想が無かった時代のことだからです。
教会は男性以外の人々も0歳の時から数えます。また誰でも何歳でも自分の望む時点から、教会の礼拝奉仕を担うことができます。神の国はこのような者たちのものだからです。また教会がレビ人・祭司の発展形だからです。正にその理由で教会は、およそ戦うことをしません。二度と戦争のことを学びません。武力をとることはもちろんのこと、言葉においても態度においても暴力を使わず、力を濫用しません。教会がこのような高い倫理を保つ時に、教会は「主のもの」であり、世界において名誉ある地位を授けられるのだと思います(3章40-51節)。
63 これらはモーセとその祭司エルアザルの数えられている者たち。その彼らがイスラエルの息子たちをヨルダン・エリコに接するモアブの平野で数えたのだが。 64 そしてこれらの中にはモーセとその祭司アロンの数えられている者たちからの男性はいなかった。その彼らがイスラエルの息子たちをシナイの荒野において数えたのだが。 65 なぜならヤハウェが彼らに言ったからだ。彼らは必ずその荒野で死ぬ。そして男性は彼らのうちから残されなかった。エフネの息子カレブとヌンの息子ヨシュア以外には。
【第一回目と第二回目の人口調査の違い】
64節にある第一回目人口調査の時にいた二十歳以上の男性たちは、63節にある第二回目人口調査のときには誰もいなかったとあります。荒れ野の四十年間で一世代が全員滅びなければならないという神の裁きがあったからです(65節)。例外はカナンの地を偵察してすぐにそこに入るべきと主張した「カレブ」と「ヨシュア」のみだというのです(65節。14章参照)。しかしよく考えてみると、「エルアザル」(63節)も例外です。つまりこの滅ぶべき一世代にはレビ部族は数えられていません。カナンの地の偵察にもレビ部族は関与していません。また、「二十歳以上の男性は約束の地に入ることはできない」(14章29-30節)とある通り、月齢一か月以上から人間を数えるレビ部族とは別の基準の人々が裁きの対象なのです。相続地を与えられないレビ人は、決して滅ぼされません。だからレビ部族だけは誰も滅びず全世代で約束の地に入ることが許されました。教会もまた全世代の交わりです。
【今日の小さな生き方の提案】
レビ人をキリスト者の原形とする時に、幸せな生き方とは何かを考えさせられます。品位の低い人々によって数えられない人を、必ず数える人は幸いです。世の中は進んでいます。今やすべての人を神の像として数えるべきです。それと同時に品位の低い人々と同列に、自らを数えない人は幸いです。自分の生きている時代の常識よりも少し高い良識で生きることです。良識とは逆説も頭の中に入れながら生きることです。自分の物を貪欲に握りしめる時に、誰かと手をつなぐことを失うかもしれません。得た時に失うという逆説です。籤を引かないレビ部族は48の町を与えられイスラエルの中に点在します(35章)。誰とも群れない時に、逆に群れの真ん中に置かれることがありえます。無力である時に、逆に神の力が働くことがあります。わたしたちは神を得たのではなく神に獲得されたのです。戦いのためには最小最弱のレビ部族の三人の姉弟を神は大いに用いました。わたしたちは神の逆説を信じるので数えられなくても絶望せず、あえて数えない生き方を選ぶのです。