新しい掟 ヨハネによる福音書13章31ー38節 2014年5月25日礼拝説教

以前に、愛するということに関しては結果がすべてであると申し上げました。愛し合っている交わりには、徐々に人が増し加えられていくものです。自分が愛されていないと感じる人は、その愛されていない場に集い続けることはありません。愛し合うことは、キリストの弟子であることの証明となります(35節)。愛に関しては結果がすべてであり、それはキリストの弟子であるかどうかの結果の違いになります。

ところで、その愛はどのようなものであるべきなのでしょうか。34節に「わたし(イエス)があなたがたを愛したように」とありますから、イエスが愛の模範となります。13章に記されていることで言えば、イエスが弟子たちに行った愛の行為とは足を洗うことです。それは主人が奴隷となることです(5節以下)。愛というものは、この世の秩序の逆転や反転です。人には支配欲があります。そして人には支配されたがる傾向もあります。支配と被支配の秩序に対して、イエスは愛を示しました。それは支配しようと思えばできる人が、あえて仕えるということです。それによって、この世の秩序が意味のないものになるのです。愛は、人の傲慢と卑下を打ち破ります。

仕えるという愛は、人間相互にできるものです。または、十字架と復活を経ていない時点の弟子たちにもできるものです。およそ教会に連なっている人は、少なくともこの仕えるということを努力しなくてはなりません。イエスが「あなたたちにもできる」と期待しつつ、「手本を示した通りに互いに愛し合いなさい」と命じているのですから、単純素朴にこの命令に従うことは良いことです。この意味で、すべての者はイエスの行く所について来ることができます(36節)。33節・36節の「イエスの行く所」というのは、具体的場所のことを指すのではありません。むしろ、「真理を生きる境地」とでも言うべきことです。主人が奴隷になるというかたちで地上に神の愛を行うということが、イエスの行く所に来るということです。〔英語や九州地方の言葉では、「来る」を「行く」の意味でも使います。東京地方ではこの聖句は「イエスの行く所に行く」の方が理解しやすいことでしょう。〕

こういうわけで人間(人の子)であるイエスが行った愛を、同じ人間であるわたしたちが、聖書を読んで真似をしながら行うことは可能です。それが求められていることも事実です。その上で、それだけでは「キリスト信仰」とは違うということも言わなくてはなりません。イエスに影響を受けてインドで非暴力抵抗運動を指導したガンディーが行った愛に倣うことと何が異なるのか分からなくなるからです。言い換えれば、イエスが救い主(神の子)である必要性がなくなります。イエスの唯一無比なところはどこにあるのか、そうでなければイエスをキリストと信じるという意義も薄くなるでしょう。

このような問題意識をもって、33節と36節は弟子たちがイエスの行く所に来ることが(今は)できないという言い方をしていることに注目していきましょう。素直に考えれば、弟子はイエスの真似をして愛し合うことができません。少なくとも、この時点の弟子たちは全員互いに愛し合うということができないと考えるべきです。ヨハネ福音書のこんにゃく問答がここにもあります。

そこで、イエスが弟子たちに行った愛について、さらに考えていきましょう。足を洗う以外にも、13章でイエスはユダとペトロにだけ特別な声掛けをしています。この両名に行った愛において、わたしたちに真似できない愛が示され、イエスを神の子であると信じる意義が表されます。

イエスがユダに行った愛の行為とは、自分を無実の罪で警察権力に引き渡すユダにも、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と言って(27節)、放置・黙認することです。この発言は、パン切れを渡しながらなされたものです(26-27節)。ほかの福音書であれば「取って、食べなさい。これはわたしのからだである」という発言と同時になされる、最後の晩餐におけるパンの手渡しが、ユダにだけ別の言葉でなされることにヨハネ福音書の特徴があります。ユダにもパンを与えたのではなく、ユダにだけパンを与えたということです。そしてイエスが直接手渡しするパンは永遠の命を表しています(6:11、35、48、51)。

イエスはユダを愛しています。敵を愛する愛で愛しています。晩餐の直後に自分を引渡し、権力者に拷問させ処刑させることになるユダを放置し、パンを分かち合う仲間であり続けて、ユダに行動の自由を与えるということに、イエスの愛があります。このような愛を通常の人はできません。この意味でイエスの行く所に来ることができる人はいません。相手の悪意を赦し、悪という罪を克服しているからです。

イエスがペトロに行った愛の行為とは、ペトロがイエスを否定し見棄てることを知りながら、そのことをとがめだてしないで放置・黙認したことです(38節)。ペトロが三回もイエスと自分の関係を否定したことは、すべての福音書に記されています。四福音書共通の記事は珍しく、たとえば(成人男性だけで)5000人の給食、宮清め、エルサレム入城、ユダの引き渡し、イエスの十字架など数えるほどしかありません。とても重要な主題がここにあることは確かです。重要な主題とは、イエスの愛とは何かという主題です。

ペトロは自信満々にイエスのために命を捨てると言います(37節)。しかしそれはただの強がりに過ぎませんでした。イエスはそれを知っています。鶏が三度鳴く前にイエスとの関係を三回も否定するということを知っています(38節)。原文は強い調子です。「あなたが三度わたしを知らないというまでは、鶏は決して鳴かない」というのが直訳です。ペトロの背信行為は運命的に定まっているとイエスは言いたいのです。

ペトロにはユダのような悪意はありません。悪気はないのですが結果として相手に失礼をしてしまうということが、ペトロのしでかしたことです。その原因は調子に乗ってしまう軽さと、危機の時には自己保身を図るという卑劣さにあります。ユダの場合は強い意志による悪意が問題となりました。それに対してペトロの場合は弱い意志による善意が問題となります。悪さという罪がユダの問題ですが、弱さという罪がペトロの問題です。

イエスはペトロを愛しています。一番弟子気取りで仲間の間では威張りたがり、仲間の前で背伸びをして強がるペトロ。そのくせ、いざとなるとまるで頼りにならず、自分の身を守ろうとするペトロ。イエスはそのペトロの弱さを知りながら放置し黙認します。「一緒に逮捕され、拷問を受け、裁判を受け、無実の罪で十字架刑を受けよう、あなたが自分の命を捨てても良いと言うのだから。自分の言ったことぐらい守ろう」という正論をペトロに言いません。十字架の道連れをつくろうとしません。ペトロの弱さをそのまま受け入れて赦しています。このイエスの愛は、わたしたちが通常ついていくことができない所に到達しています。

この二つの事例は、イエスの無条件の赦しという愛を示しています。「そこまで赦してしまったら悪さや弱さを抱える当人のためにならず、その人が駄目になってしまうのではないか」と思えるほどに、その人のあり方を放置し黙認するという愛です。7度を70倍するまで、つまり無制限に赦すという愛です。たとえば、ユダに対してイエスは引き留めてイエス殺害に責任を負わせなくすることもできます。ペトロに対しては、意志の弱さを利用して無理に十字架を負わせれば、イエスを否定する卑怯から逃れさせることもできたかもしれません。このような行動は、ユダとペトロに対する教育的な効果を持っています。およそしつけとは、悪さを正し、弱さを克服するように働きかけることだからです。イエスが行く所についていくことができるようにすることが、教育というものです。イエスはここで教育という人間の業を放棄したのです。

ここに信仰が必要です。信仰とは良い人になるための積み重ねではなく、飛躍であり跳躍であり新たな世界に飛び込むことです。イエスの十字架と復活を、悲惨な冤罪事件およびそれに抵抗する楽観的な空想としてのみとらえるのではなく、無条件の赦しが実現した唯一無比の救いの出来事・神の業と信じるという飛躍です。イエスは神の子でありキリスト・救い主であると信じることです。あの十字架と復活が栄光の出来事だと信じることです。神と神の子の共同作業の完成と信じることです(31-33節)。そこにおいて、神も神の子も最高の栄誉を受け取る出来事だと信じることです。

この飛躍をした人は、さかのぼってユダとペトロに対する放置と黙認の意味が分かるようになるのです。「イエスは、ユダとペトロに代表される、すべての人間の罪を無条件に赦しながら、進んで自分の命を奪われたのだ、そして神によってよみがえらされ、その永遠の命を無条件にすべての人間に配られたのだ、実はそのために誰にもできない仕方をあえて取って十字架で殺されていったのだ、すべての人のための犠牲となったのだ」と信じるからです。ユダの引き渡しもペトロの否定も、実はこの神の救いの計画の中に組み込まれているし、しかも両者は人間の罪がどのようなものであるかを教えるという効果を持っているのです。さらに両者の悪さと弱さは、すべての人が同じような特徴を持ち、すべての人が倒錯しながら生きているということを教えています。

ユダとペトロを本人たちが駄目になってしまうほどに放置し黙認し赦すことは、その本人たちに新しい命を与えるためのものです。「ついてこい」という命令とイエスの後ろをぴったりとついて歩く積み重ねではなく、「ついてこなくてよい・好きなようにせよ・悪いまま弱いままで構わない」という距離を保つこと。そして誰も到達できない愛の高みに一人登り、「ついてこなくて良いから、遠くからこの十字架を仰いで、無条件の赦しを受け入れて復活を信じなさい。あなたにも命のパンは配られている。素直に受け取れば永遠の命を生きることができる」とイエスは招いています。

これはしつけや教育の次元とは異なる、魂の領域、宗教的な次元の課題、全人格的ないのちの問題です。根本的に倒錯しているわたしであっても、根源的に肯定されているのだということを受け取ることです。イエス・キリストの十字架と復活によって、このわたしは救われていると信じることです。

今日の小さな生き方の提案は、人の子ナザレのイエスを神の子キリストと信じることです。言いかえれば、自分の存在をありのまま受け入れるということでもあります。自分がユダやペトロの悪さや弱さを抱えていることを認め、にもかかわらずそのわたしを愛しておられる方がいらっしゃる、目には見えないけれども復活され霊のかたちをとって今ここにいらっしゃると信じることです。この信仰によって、わたしたちに永遠のいのちが与えられ、新しい人生が始まります。足を洗う行為・仕えることも軽やかにでいるようになります。

無条件の赦しがあって、初めて新しい掟というしつけが生きてきます。赦しは当人を駄目にしません。何度失敗しても良いという「永遠」を知って初めて、わたしたちは自らの意思でイエスの行く所について来ることができるのです。イエスの愛を受け入れ、イエスの愛に倣って、互いに愛し合いましょう。