クリスマスは光の祭りと呼ばれます。わたしたちがイエスの誕生を闇の世界に与えられた、神からの贈り物と信じているからです。イエス・キリストこそ絶望に包まれた世界に、与えられた希望の光です。
ところで、イエス・キリストを「言(ことば)」と呼ぶ場合があります。ギリシャ語でロゴスという単語ですが、ロゴスという言葉はヘブライ語ダバルの翻訳です。ダバルの意味は「出来事」です。ユダヤ人たちは、言葉が発せられると、その言葉と同じ出来事が起こると考えていました。だから、「ことば」と「できごと」を区別せずに、同じ単語で表していたのです。そのように考えると創世記一章の天地創造の記事も納得できます。神が「光あれ」と言われると、そのようになったのです。「ことば即できごと」ということです。
イエス・キリストという「ことば=できごと」は、世界に与えられた希望の光です。聖書の中には、イエスの発した言葉が多数残されています。そしてイエスは自分の発したことばどおりに生き抜いたのでした。言行一致があります。それは大まとめに言えば「愛」です。イエスは愛の教えを説き、愛の実践をなしたのでした。それは愛の無い世界にあって、闇の中の光に似ています。利己的に生きることが常識の世界にあって、イエスは利他的な生き方を徹底されたのでした。信者はそれを十字架の虐殺に見るのです。
わたしは希望というものは、外から与えられるものであると思います。それがクリスマスの使信です。神が世界の外から、神の子のいのちを世界に向けて与えたのですから。さきほどの「ことば即できごと」に照らした場合、人間が発したことばがその通りに起こったら大変なことになります。「アイスクリームを食べたい」と言って、実際にアイスが出てくるというのは、自分の期待が実現するだけのことです。そのような祈りは神を自動販売機にしてしまうでしょう。つかのまの期待と真の希望は異なるものです。
聖書の言葉を「外からのことば即できごと」とわたしたちは信じています。なぜかと言えば、聖書の中にイエス・キリストの言葉と行いが書かれているからです。神の引き起こした愛の出来事が書かれているからです。しかもその聖書の言葉は常に良い意味の「違和感」に満ちています。確かに誰か人間が書いた文書です。しかし、いつも読むたびに「おや」と思う引っ掛かりがあるのです。自分では思いつかない「良い知らせ」があるのです。聖書を外からの希望のことばと信じて読んでみてはどうでしょうか。クリスマスはそのような信仰を持つようにと、すべての人に促しています。