今日の話の要点は「主の晩餐式」のイメージをふくらまそうということです。それを縦糸として、いくつかのことがらを説明いたします。
わたしたちの教会では月に一度主の晩餐式を行っています。みなさんはこの儀式をどのようなイメージでとらえているでしょうか。どちらかというと、固い・冷たい・暗いイメージがあるように思えます。そのイメージは最後の晩餐の悲壮感と重なります。今日の聖句は、そのようなイメージに対する挑戦です。主の晩餐式は結婚披露宴の食卓のイメージを持っているからです。なぜなら、主の晩餐式は世の終わりに開かれる、花婿であるイエスと花嫁である教会との結婚披露宴が早く実現するようにと希望するための食事だからです(マタイ25:1-13)。
たとえば毎回読み上げるⅠコリント11:26には、「主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」とあります。花婿イエスが来るときに祝宴が開かれます。そのことを先取りしてわたしたちは主の晩餐式を行っているのです。主の晩餐式は堅苦しいものではありません。楽しいものです。
イエスはユダヤ地方のベタニアという町から(1:28)、おそらくカナ出身のナタナエルに連れられて(1:43-51)、三日の道のりを旅してガリラヤ地方のカナの結婚披露宴に出席します。先週までで、弟子はアンデレ・匿名の一名(福音書記者ヨハネ?)・ペトロ・フィリポ・ナタナエルの五人に増えています。この五人の弟子と、さらに自分の母親・兄弟と一緒に結婚披露宴にいました(2:1、12)。この物語の最後には、母親も兄弟たちも弟子となっているように読めます。一日ずつ一人ずつだんだん増えていくという文脈を押さえておきましょう。
ユダヤ人たちの結婚披露宴は一週間ほど続くお祝いだったと言われます。この結婚式はイエスの母親が主催者の一員だったようです。母親は何日も結婚披露宴のために裏方で働いていたのでしょう(1・5節)。そして母親を通じて、またナタナエルをも通じてイエスとその兄弟と五人の弟子たちが披露宴に参加します。見ず知らず(知り合いの息子の知り合い程度)の弟子たちにまで開かれていることがここで大切なことです。彼ら彼女らの結婚披露宴は、どんな人も招かれている食卓だったからです。
マタイによる福音書22章1-14節を開きましょう(42ページ)。ここには天の国が「ある王の開いた王子のための婚宴」と似ているというたとえが書いてあります。そしてそれは、当初招かれていた人たちが集まらないので、道に歩いている人を強引にでも招くことまでする、奇妙な結婚披露宴です(22:8-10)。世の終わりの食卓は、このたとえにあるような開放的な結婚披露宴です。主の晩餐式は、この開放性をまねしなくてはいけません。というのも、最後の晩餐の模倣だけではなく、世の終わりの婚宴も地上で先取りしなくてはいけないからです。
カナの婚宴ではハプニングが起こります。みながぶどう酒を飲みすぎて、足りなくなってしまったというのです。食事やお祝いごとにこの類のハプニングは起こるものです。その際に、イエスはどのような対応をされたのかが大切です。イエスは喜びの祝宴を継続するために働いたのです。おそらく母親が勧めようが勧めまいが(3節)、イエスは結婚披露宴のぶどう酒を何らかのかたちで準備しようとしていました。それが、冷たい一言「婦人よ、わたしとあなたとの間に何があるのですか」(直訳風)に表されています(4節)。一参加者として、結婚披露宴を盛り上げたまま終わらせたいという願いがイエスにはあります。
他の奇跡行為に比べて、結婚披露宴の盛り上がりを保つためにぶどう酒を増やす行為は、重要性が低いようにも思えます。誰かの病気・死は緊急であり重大な事件です。その人たちを治すことは、結婚披露宴の盛り上がりよりも価値が高そうです。実際、他の福音書はガリラヤの活動を多くの病人を治す行為(奇跡=しるし)から書き始めています。ヨハネ福音書が「最初のしるし=奇跡」としてカナの結婚式を取り上げていることは際立って変わっています。ここにヨハネの優先順位があります。
ヨハネ福音書の描くイエスの目には結婚披露宴の盛り上がりの持続は価値の高いのです。楽しいことを楽しむことにはそれ自体で価値があるからです。案外泣く者と共に泣くほうが簡単かもしれません。わたしたちへの挑戦は、本気で喜ぶ者と共に喜べるか、そういう礼拝となっているかということです。
喜ぶ者と共に喜ぶという構えがハプニングの際の基本的な原則となります。主の晩餐式を子どもと一緒の礼拝で行うと、子どもが喜んでパンと杯を取るという(当然の)ハプニングに出逢います。その時どのように考えるべきでしょうか。喜んでいる者と共に喜ぶという方向で考えなくてはいけません。子どもたちは厳粛な儀式に水を差しているのではありません。祝宴を素直に喜んでいるのです。当初招かれていなかった子ども/数に数えられない子どもが、主の食卓に招かれそれを喜ぶことは、主の晩餐式が結婚披露宴であるということに合致しています。
イエスは水がめ六杯の水(一杯が80-120リットル)をぶどう酒に変えました。平均100リットルとすると600リットルの大量のワインが出来たということになります。この飲みきれないぐらいの大量のぶどう酒によって結婚披露宴は楽しい酒宴のまま続けられます。この後、何日続いたかは分かりませんがかなり良質のワインをごちそうと共に楽しめたはずです。
この話は、成人男性だけで5000人の人に魚とパンをふるまった話に似ています。あの話も奇跡的に食べ物が増えて最終的には余りものが12籠にいっぱいになったのでした。そしてあの話も初代教会において、主の晩餐式と関連のある物語と解されていました。二匹の魚と五つのパンの絵は、主の晩餐式のシンボルとして用いられていたからです。
主の晩餐式における教会の者たちの役割は何だろうかと考えます。「召し使い」という言葉が何回も登場します(5・7・8・9節)。これはギリシャ語のディアコノスという言葉です。文脈次第では「執事」「弟子」と訳されます。主の晩餐と愛餐に従事するものとして、ディアコノスが初代教会に立てられたことは使徒言行録6章にあります。だからおそらくこの「召し使い」が、今日の教会の者たちの役割です。それは水がめに水をいっぱい入れて、宴会の世話役のところに運ぶという仕事をした人です。
主の晩餐式の準備や進行(や後片付け)などを教会は責任もって行います。それは、この水をいっぱいに入れて運ぶという行為です。この行為なしには結婚披露宴は楽しく続けられないので、わたしたちは前日までに買い物したり、当日にパンを切ったり、ぶどうジュースを注いだり、終わったあとには一つ一つを丁寧に洗い・ふき・片付けたりいたします。しかしそこには自己限定/謙虚さが必要でしょう。
主イエスが命じたから行なっているに過ぎないという限定(5節)、奇跡を起こすのは主イエスなのであって召し使いはあくまで運んだだけ・配付しただけに過ぎないという限定です(8節)。「今日の晩餐は良かったね」と集まった一人ひとりに思わせるのは、わたしたちの行いによるのではなく、ただ主イエスの恵みのみによるということです。わたしたちは自分の手で運んだから、主が食卓の主であることを知っているに過ぎないのです。喜ぶ者と共に喜ぶ食卓を創り出してくださった方はイエスであって、わたしたちではありません。
もう少し突っ込んで考えていきましょう。それは食卓の主であるイエスの位置です。成人男性5000人の供食記事では、イエスは正に食卓の主人です。「宴会の世話役」(8-9節)ないしは「家長(花婿)」としてふるまっています。食前の祈りをしているからです(6:11)。しかし、この結婚披露宴においては、ただの一参加者です。ただし善意に満ちた一参加者です。なんとかしてこの結婚披露宴を楽しいままに終わらせ、結婚する二人をお祝いし、主催者たちの面目を保たせたいと願い、さらには自分も楽しいお酒を飲み続けたいと願う参列者の一人です。この匿名の参加者が実は大きな奇跡を起こす食卓の主です。主催者や裏方の責任者でさえ気づかないところで、結婚披露宴を成り立たせたのはイエスただ一人だからです。
この事実はわたしたちの主の晩餐式のありようを揺さぶります。それは進行役(多くの場合は牧師)に対する批判となります。5000人の供食や最後の晩餐を根拠にすると、牧師はイエスの位置と重なります。しかしカナの結婚披露宴を根拠にするなら、会衆の一人がイエスです。特に主催する側ともっとも遠くに位置する参加者こそが、イエスの位置と重なります。
会衆がイエスであるならば、できる限り進行役が目立たないようにする方法が主の晩餐式には望ましいでしょう。その人に権威があるかのように錯覚をさせないためです。さらに晩餐が堅苦しくなる理由のひとつは宗教家然とした人の進行による場合もありうるからです。
会衆がイエスであるならば、主の晩餐式から非キリスト者を締め出す理由はなくなります。それはイエスを締め出す行為だからです。主催する側から見て 最も遠い位置にいる人こそが真ん中にいて大歓迎されるべきです。なぜなら、その人こそがわたしたち全員に喜びの祝宴を続けさせてくれる食卓の主なのです。この逆説に生きられるかどうか、それがわたしたちへの挑戦です。
このように考えていくと、主の晩餐式のあり方が方向づけられていきます。主の晩餐は第一に牧師がいないとできない儀式ではありません。ましてや按手礼を受けた牧師がいないとできない儀式ではありません。権威はイエスにのみあるからです。第二に喜びや歓迎が基調になくてはいけません。楽しい酒宴であり、大酒飲みの大飯喰らいの集まりです。第三に教会の運営主体から締め出されている人、またこの世界の権力からもっとも遠くにいる人・世界から締め出されている人が真ん中にすえられていなくてはいけません。
そのような晩餐を礼拝の中で行うことにより、第四に結果としてイエスの弟子が一人ずつ増えていく食卓共同体が形づくられていくのです(11-12節)。多くのプロテスタント教会は第一日曜日にのみ非キリスト者を排除した形で主の晩餐式を礼拝の中で行います。月に一度だけ礼拝の最後に自分が排除されるという教会に誰が通いたいでしょうか。普通の人は第一日曜日には行きたくなくなります。カトリック教会が礼拝の必須要素として毎週晩餐を行なっていることは良いヒントです。それはすべての教会で1600年続いた伝統です。また大人と子どもを分ける礼拝もここ200年程度の現象で、1800年ぐらいはみな一緒にひとつの礼拝をしていました。この伝統に現代の宣教課題、人権・平和を混ぜ合わせれば良いでしょう。一つの礼拝で全員集まって交わりと教育も行う、そこに世界で小さくされている人をはじめ、あらゆるいのちを招いていく、そうして一人ずつ喜びの交わりに加わる人が与えられる、カナの結婚披露宴をわたしたちの主の晩餐式や教会形成のイメージとして取り入れたいと願います。