杖も袋もパンも金も ルカによる福音書9章1-6節 2017年2月26日礼拝説教

今までの旅を受けて、イエスは十二人を呼び寄せ、十二人だけで旅をするようにと派遣します(1-2節)。イエスが弟子を「遣わす」(アポステロー)ということは、ルカにとって非常に重要なことがらです。ルカとその教会は福音書だけではなく使徒言行録を共有しています。紀元後1世紀当時、使徒言行録を持っている教会はルカ共同体だけです。だから、しばしばルカ福音書は、「弟子」と言うべきところを「使徒」(アポストロス)と言い換えます(9章13節・11章49節ほか9箇所。マルコ2箇所、マタイ・ヨハネは皆無)。使徒言行録を強烈に意識した読み替えです。「使徒」は動詞「遣わす」から派生した「遣わされた者」という意味の言葉なのです。

当然の事実ですがイエスの活動していた時代には教会は存在せず、教会の指導者という意味の「使徒」は存在していません。だから、時代錯誤の呼び方ですが、それでもルカは構いません。なぜかと言えばそこに込めた主張があるからです。弟子を使徒と呼ぶことは、客観事実としては間違えですが、解釈としてはありえます。事実をそのまま書くことができない(筆者の主観が必ず混じる)という意味で、すべて歴史というものは、解釈された過去なのです。

ルカ共同体のこだわりは、「イエスの弟子たる者は、すべてイエスから派遣され、イエスから委託された権力を持っている」ところにあります。「力」(デュナミス)と「権能」(エクスーシア)を合わせれば「権力」です(1節)。この権力は正しい目的のために用いられるべきものです。目的ははっきりと示されています。「そして彼は、神の国を宣べ伝えるために、いやすために、彼らを遣わした」(2節私訳)。しかも「病気をいやす」(1節)と「いやすために」(2節)は、マルコ福音書に対してルカ共同体が付け加えたもので、特別のこだわりがいやしという目的にはあります(マルコ6章7節参照)。

イエスの弟子には一種の自負が必要です。自己肯定感と言っても良いし、自分の尊厳と言っても良いものです。「イエス・キリストがわたしを認めてくれて遣わしておられる」という自負です。日本社会が一人一人に自己肯定感を与えない傾向が強いので、この「権力の委託」「遣わされること」そのものが福音です。わたしたちは非常に同調圧力の強い社会に暮らしています。自分に権力があること、自分が主権を持っているということを意識することは、ほとんどないままに日々を過ごしています。不幸なことだと思います。無力と、無資格と、無能を嘆き、うなだれがちなわたしたちを、イエス・キリストは励ましておられます。「世では無であるあなたたちを、わたしは名前を呼んで弟子として、世に向かって派遣している」と(Ⅰコリント1章26-31節)。

ところがその一方で、自負を持ちすぎて傲慢になることも厳しく戒められています。目的がはっきりと書かれ、わたしたちは目的の範囲に権力を制限されているからです。人間は必ず社会をつくります。ヒトという動物は、この世界に一人で放り出されたら生きていけないものです。あまりにも弱いからです。自立するために他の動物よりも極めて長い期間を必要とするために、ヒトは「人間」という組織・社会を形成します。そしてすべての組織は、誰かに権力を委託します。上下関係を利用した人権侵害の温床はここにあります。権力を委ねられた者によって権力が濫用されないために、組織の意思決定を透明にすべきですし、委託内容を限定すべきです。イエスの使徒たちは、権力を「神の国の宣教」と「いやし」に限定して用いなくてはいけません。そのためにだけ遣わされているからです。

しかも、神の国はこの世の上下関係が逆さまになる世界です。威張りたい人が仕えなくてはいけませんし(22章24-30節)、この世界で最も偉大な人が最も小さくなる社会です(7章28節)。宣べ伝える内容が、信徒の生き様を規定します。神の国の宣教をすればするほど、遣わされた者は低い姿勢になっていきます。だから上下関係を悪用して力を濫用できないのです。使徒は誰の人権も侵害しないはずです。

そのような宣教の内容と方法が、「いやし」という行為でもあります。世界は多くの傷つけられた人々・痛めつけられた人々で満ちています。単に病気からのいやしというだけではありません。先ほどの「自己肯定感が持てないという苦しみと嘆き」もいやしを必要とする痛みです。同調圧力だけが圧力でもありません。もっと露骨に上下関係を悪用する人々で世界は満ちています。「見下されること」「さまざまな形で暴力を受けること」も、心や体に傷を与えます。これらは現代において理由がかなりわかってきた傷・痛みです。

あるいは、理由の分からない苦しみもあります。古代人が、「悪霊のせいで病気にかかる」と考えていたことは(1節)、要するに病気というものは理由が分からない苦しみなのだということを表現しています。病気も不条理の苦しみです。さらに、天災によって苦難に遭うことも不条理の苦しみです。誰も何も悪くないのに、ある特定の人に苦しみが起こってしまうことは理不尽です。慰めを受けることも拒否するほどの心や体に対する傷が、災難によっても引き起こされます。病気の原因と予防についての解明は進んでいますが、なぜあの人にこの特定の病気が襲いかかったのかという問いに対する答えはありません。ましてや天災の結果の傷・痛みについては、理由不明と言わざるをえません。

いやしは、それらの傷を治すことです。それは、もともとの状態に直すことでもあります。聖書の世界では、「健全」な状態は「円満」、つまり「360度へこみのない球体」のような状態として捉えられます。これをシャロームと呼びます。シャロームは世界の「平和」や、個人の「平安」としばしば翻訳されます。それだけではありません。「戦争のない状態」や「心穏やかな状態」というだけではないからです。むしろ、欠けが無い状態と考えたほうが良いでしょう。シャロームを創り出す行為は、泥団子をこねる行為にたとえられます。なるべくきれいなまん丸になるように手作業を続けることです。

世界という球体は、人間に理由が分かる傷も受け、神にしか理由を知りえない傷も受けて、「至るところで」(6節)へこみが起こっています。世界はいやしを必要としている状態です。個人においてもそうです。人はいやしを必要としています。自分は身も心もどのようにして円満となり、世界はどのようにして円満になるのでしょうか。

不思議な出で立ちの「遣わされた者」に出会い、福音を告げ知らされる時、わたしたちにいやしが起こります。そして神の国の交わりから、わたしたちが遣わされ、不思議な出で立ちで福音を告げ知らせる時、世界にいやしが起こります。

不思議な出で立ちとは、杖も袋もパンも金も持たず、下着は一枚だけという装いです。マルコ福音書においては、杖一本を持つことが許可されていましたが(マルコ6章8節)、ルカ福音書では一本も許されなくなっています。杖は護身の道具ですから、これでは「駆け付け警護」も「自衛」もできません。「袋」は寄付された物を保管するためのものです。托鉢すら否定されています。パンと金はそのものずばりですから説明不要です。二枚目の下着の携帯禁止は着替えの否定です。そしておそらく裸足も命じられています(マルコ福音書6章9節参照)。

このようにあえて不思議な外見を作出することを、「象徴行為」や「行為による預言」と言います。旧約聖書の時代の預言者たちには、自分の主張を服装や外見などに託すことがよくありました。預言者エレミヤは、二頭の牛をつなぐための道具である軛を自分の首にはめて、王に警告しました。軛は王がバビロンに連れて行かれることの預言だったのです(エレミヤ書27-28章)。預言者エゼキエルは、髪の毛を剃って、3分の1を燃やし、3分の1を剣で打ち、3分の1を風に散らしました。それは首都エルサレムが崩壊する様子を表した預言だったのです(エゼキエル書5章)。

イエスの弟子たちがいつも不思議な格好をしなくてはいけないというわけではありません。神の国を宣べ伝えるためには、その内容と深く関係した出で立ち・外見が求められたのです。だから、まったくお金も持たず、食料も持たず、衣服も着ない、履物もはかないという格好を、常に続けていたのではないと思います。家々にノックをして挨拶する時に、何も持っていない旅人という装いで、福音を告げ知らせるということが義務付けられたということでしょう。

この出で立ちで何を預言しているのでしょうか。世界の常識をひっくり返すことです。わたしたちが頼っているものは、そんなに頼りにならないということを言いたいのです。簡単に言えば、「富」です。人は裸で生まれて裸で死ぬものです。富を、自分の神として拝み、それを自分の武器として装備するなということです。余った富は、しばしば濫用され、隣人に対しての力となりえます。「そこそこ生きていければ良いじゃないか」という主張です。

「貧しい人々は幸いだ。神の国はあなたたがのものだから。今飢え・今泣いているあなたがたは幸いだ、満たされ・笑うから。富んでいるあなたがたは、不幸だ、もう慰めを受けているから。今満腹し・笑っているあなたがたは、不幸だ、飢え・泣くから」(6章20-25節)。この言葉を福音として、遣わされた者たちは住人に面と向かって戸口で語っていたのだと思います。彼らは貧しい身なりをしていますが寄付を求めません。ただ伝言を告げ知らせるだけです。そして彼らの格好が、伝言内容に説得力を与えています。

貧しい人も富んでいる人も、そして両者の中間の人も、不思議な出で立ちの旅人に対する態度が問われました。彼らを迎え入れ仕え合うという交わりに参与するかどうかは、自分の富に対する態度で決まります。実に「拝金主義」こそ、わたしたちの持っている病の最も深刻なものだからです。富を拝むことは隣人を痛めつける力になりやすいものです。自分の富を再配分し、そこそこ生きるお互いをつくるかどうかが問題です。再分配こそ円満な球体を手でこねる行為なのです。

不思議な出で立ちの旅人を受け入れる家は、多分町に一軒あるかないかです(4-5節)。この現実的な見積もりは、この方法での福音宣教に、そもそも数を効率的に増やそうという意図がないことを示しています。また、著者ルカの体験も色濃く反映しているように思えます(使徒言行録13章51節、18章6節参照)。自身富んでいる人だった医者ルカも、一人の「使徒」として時に不思議な出で立ちをしながら福音を告げ知らせたことがあり、足の塵を払って町を退去することもあったのだと推測します。爆発的に増えなくても地道に福音を告げ知らせ、相手の信じない自由も尊重しつつ、めげずに続けよという慰めと励ましが、遣わされた者に与えられています。

今日の小さな生き方の提案は、そこそこ生きるという決断を持つことです。わたしたちは今、不思議な出で立ちの旅人イエス、下着一枚で十字架に磔されているキリストに出会って、福音を告げ知らされました。再配分という恵みによっていやされましょう。共に仕え合いシャロームを創り出しましょう。