正義の実行と神への愛 ルカによる福音書11章37-44節 2017年7月30日 礼拝説教

当時のユダヤ教の一派であるファリサイ派とはどのような人々だったのでしょうか。歴史的に確定することは非常に困難です。ルカ福音書は、ファリサイ派と「律法の専門家(法学者)」を区別しています(37節と45節)。この記述は正しいと思います。両者は異なるのでしょう。律法の専門家については来週取り上げるとして、今週はファリサイ派について分かる範囲の説明を加えて、イエスが何ゆえに彼らと厳しく対峙し論争をしたのかについて考えていきます。その際に、わたしたちは自分をファリサイ派の一人だと思っておくと安全です。何事も自己浄化作用、内側を清めることが大切だからです(39節)。

「ファリサイ派」と翻訳されている言葉はファリサイオイというギリシャ語です。多くの誤解にも関わらず、現在のユダヤ教正統派の直接の先祖ではないと考えられます。しばしばユダヤ人差別は、イエスのファリサイ派に対する厳しい態度を根拠になされます。それは良くないものです。

ファリサイオイはペルーシームというヘブライ語の音写です。その意味は、「分離」または「解釈」です。紀元前1世紀ごろ民衆の中から生まれ、律法を生活の中に生かす解釈を施し、その解釈を実際に実践した宗教者たちでした。大変に尊敬されていました。そして、議会にも代表者を送るまでになっていました。ユダヤ教正統派の一部だったのです。

ところが現存するユダヤ教正統派の文章の中では、彼らは自分たちのことを一度もペルーシームとは呼びません。それどころか、ペルーシームを激しく非難することすらあります。まるで福音書のイエスのように。だから、ユダヤ教正統派はペルーシームの直接の子孫とはみなしえないのです。

ここから類推されることは、おそらく当初正統派の一翼を担っていたペルーシームが、次第に極端な聖書解釈に偏っていき正統派から外されていったという経緯です。極端な聖書解釈という意味は、律法の文言を極度に拡大して規律を厳しくするということです。イエスが生きていた時代は正にその過渡期にあったのでしょう。彼らは議会の三分の一の議席を占めるという政治的権力も持っていました。それと同時に、町でも極端な聖書解釈を人々に教える学問的権威も持っていました。そしてそれらのゆえに宗教者として尊敬されていました。それがイエスの対決した相手です。

とあるファリサイ派の人がイエスを食事に招きました(37節)。ルカ福音書において、ファリサイ派の家での食事は二回目です(736節)。ベルゼブル論争(14-23節)等々を聞いているうちに、イエスの聖書解釈に興味を覚えたのだと思います。その興味というのは、罠にかけようという悪意に基づくものでした。浄・不浄の論争を起こして、律法違反の現行犯で締め上げようとしたのでしょう。意地悪な興味の持ち方です。もしこの招きをイエスが拒んだ場合は、「イエスは論争から逃げた」と吹聴してまわる予定だったのかもしれません。

イエスはこの招きに応じます。さらりと書いていますが、論敵の自宅に向かうということは結構苦労の多いことです。弟子たちも一緒に招かれていたのかは不明です。ただ一人だったのかもしれません。完全にアウェー、相手の土俵で相撲を取ることになりました。おそらく、イエスは論争をするために乗り込んで行ったのでしょう。ファリサイ派から見咎められる・律法違反を指摘されると知っていて、あえて普段通りの振る舞いを貫きます。

38節は少し変わった表現です。「その人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った」。「身を清める」(バプティゾー)とあります。ご存知バプテスマの語源である「全身を水に浸す」という単語です。全身を水槽の中に浸すか、川に頭まで浸かるという行為です。食事の前に手を洗うことは、正統派ユダヤ教もファリサイ派も行っていました。しかし、全身を浸すことまでは求められていません。

ユダヤ人の習慣をよく知らないギリシャ人著者ルカの筆が滑ったのか、それとも、そのような極端な解釈を解き実践するファリサイ派の人が実際にいたのか、よく分かりません。わたしには「バプテスマをしないと主の晩餐にあずかれない」と主張するキリスト者に対する皮肉のようにも読めます。

ともかくイエスはいつもと同じように手も全身も洗いません。家の主人であるファリサイ派の人の「してやったり」という顔を見て、イエスは論争の口火を切ります。なぜ、招かれた客イエスが、無礼千万にも招いた人を激しく批判するのかという理由は、やはり、招いた人が罠にかけようとしていたからだと思います。その悪意に対する義憤がイエスの激しい口調の動機でしょう。

イエスは食卓の上に置かれている杯と皿(平たい板のようなもの)を見ながら、ファリサイ派批判を始めます。「あなたたちは外側だけをきれいに洗っているけれども、内側をなぜ洗わないのですか(39節)。人間の体の外側が汚いというのなら、外も内も汚いと考えなくてはいけません。考えのない人たちだ。わたしが洗わないのは人間の外も内も清いと考えるからです。神は神の似姿に人間を創り、内も外も清いものとしています。神が清いと判断しているものを人間が汚いと言ってはいけません」(40節。使徒言行録1015節も参照)。

「愚かな者たち」は「考え(横隔膜)が無い者たち」という意味合いです。ギリシャ語話者は、人間の思考・感覚は横隔膜が司ると考えていたようです。声楽家はよくものを考えているということでしょうか。確かに深い思考のためには深呼吸が必要です。拙速の判断ではなく、深く息を吸ってことがらについて熟慮すべきです。手や全身を洗わないことが、そんなに大罪なのか、よく考えなくてはいけません。バプテスマを受けないで、主の晩餐のパンとぶどう酒を取ることがそんなに大罪なのか、よく考えなくてはいけません。

41節にある「ただ、器の中にある物を人に施せ」を、田川建三は「むしろ、できるものを慈善として与えよ」と翻訳します。新共同訳よりも田川訳に説得力があります。器の中に盛られた食事と、今までの話題は関係ないからです。対話は盛られる前の杯と皿をめぐってなされているし、器の内側と外側をきれいにするかどうかという話だったからです。「論敵に対する罠(強欲と悪意)をたくらむよりも、律法を守りたくても貧乏のために守れず困っている人に、あなたのできる限りの親切をしなさい。つまりあなたの内側を汚す行為をするのではなく、外側が汚いとあなたがみなしている人を、サマリア人のようになって助けなさい。そうすれば、すべてはあなたにとって清くなる。元々すべての被造物は清いということが分かるでしょう(41節)」。

田川訳の方がすっきりとします。そしてその方が、「正義の実行と神への愛」を行えという教えに直結します(42節)。もし器の中にある物を人に施すと解釈すれば、それは「強欲と悪意」(39節)を施すことが勧められているようにも読めてしまいます。

ここから「不幸だ」(ウーアイ)という言葉が三回くりかえされます(424344節)。この言葉群は、624-26節に四回繰り返される「不幸だ」と、呼応しています。「富んでおり・今満腹しており・今笑っており・すべての人にほめられるあなたがたは、不幸である」。今から思えば、6章で挙げられている不幸な人々は、ファリサイ派の人のことを指していたのです。そして、この不幸の列挙はルカ福音書にしか無い部分でもあります。有名なマタイ福音書の「山上の説教」には、「幸いなるかな」しか列挙されていません。

6章と11章とを併せて読むと、一体何が問題なのかが立体的に浮かび上がってきます。ファリサイ派の人々は、全収入の十分の一の宗教的な奉献をしていたようです(42節、1812節も参照)。それ自体は敬虔な行為ですが、それを他者との比較の中で行うと嫌らしくなります。つまり地位・名誉・財産・権力を持っているファリサイ派の場合、十分の一の奉献は富んでいるからできるのです。例えば年収200万円の人の20万円と、2000万円の人の200万円は、同じ十分の一でも意味が異なります。残り生活費が180万円と1800万円となるからです。実に後者の献金は前者の全収入です。富んでいるからできることを、すべての人に向けて自慢するのは嫌らしいのです。

今満腹しているから「あらゆる野菜の十分の一」を献げることができます。しかし貧しい人は他人の麦畑でも摘み食いをして空腹を紛らわしたいほどなのです(61-5節)。年収200万円の現実から考えると、ファリサイ派の自慢は欺瞞に満ちています。だから不幸です。

すべての人にほめられ、高笑いをしている人とは、「会堂では上席に着く」ファリサイ派の人、「広場では(他人からへいこら)挨拶されることを好む」ファリサイ派の人のことです(43節)。この行為は、支配欲をむき出しにし、人々を跪かせているから不幸です。驕れる者も久しからず。必ずしっぺ返しが起こり、泣き喚く日が来る。だから不幸です。

さらに皮肉な言い方でイエスは追い詰めます。ファリサイ派の人たちは「人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない」(44節)。人々を誤った道に教え導いているから不幸だと言うのです。墓は汚れたものとみなされていました。宗教的に敬虔で浄い道を教えているつもりが、実は不浄の道だとイエスは言っています。ファリサイ派を尊敬し、その聖書解釈に従う人々は気づかずに正しい道を歩けなくなるというのです。

そこで、イエスが考える正しい道、内も外も清いという生き方が何であるのかが問題になります。それはファリサイ派の人も、また貧しい人も歩き進めることができる真っ直ぐな道、平らな道でなくてはならないでしょう。

抽象的な一言で言えば「正義の実行と神への愛」です(42節)。より具体的な一言で言えば「できるものを慈善として与える」ということです(41節)。その具体例は、「ユダヤ人の隣人となったサマリア人」という例え話に詳しく掲載されています(1025-37節)。「正義(公正)の実行」とは、「できるものを慈善として与える」行為であり、困っている人の隣人となることです。そのことは同時に「神への愛」を示します。なぜなら、誠実に神を愛することと、隣人を自分のように愛することは、二つで一つのことだからです(同27節)。

サマリア人は、その時できる親切を、自分の仕事の隙間のできる範囲で誠実に行いました。ファリサイ派の人にそれが足りません。自分の持つ大きな力を用いて他人を見下し・支配し・罠にかけようとする行為は公正ではありません。できるのにしないからです。福音を信じて悔い改める必要があります。

今日わたしたちの罪がファリサイ派の人を通じて教えられています。このような罪の集合が、イエスを十字架に磔にし、処刑したのでした。しかしイエスは罪を指摘し裁きながら、同時に罪を赦し、「二度と同じ罪を犯さないように」と悔い改めの道を勧めています。貧富にかかわらず誰でもできる行為です。

今日の小さな生き方の提案は、できる範囲の慈善を身の回りで行うことです。公正に基づく、小さな愛の行いです。十字架によって罪を示され告白し、十字架によって贖われ、方向転換を促されているわたしたちは、悔い改めの実を結びましょう。社会全体のことをよく考え「公正」が何かを見抜き、自分の身の回りでできる親切を、困っている人のために、神の前で行いましょう。