預言者ゼカリヤは預言者ハガイの同時代人であり、同時期に預言活動を開始しています(ハガイ書1章1節、ゼカリヤ書1章1節)。紀元前520年です。ゼカリヤはハガイと協力して第二神殿の建築を励ましました(エズラ記5章1節)。ハガイが建物として神殿の建築に話題を絞っていたのに対して、ゼカリヤはもう少し広い主題をもっていました。メシア(救い主)はどのような方かという主題です。
ゼカリヤは二人のメシアを思い描きます。政治指導者ゼルバベルと宗教指導者ヨシュアです(6章9-15節)。エルサレムの神殿建築と、ユダヤ人の民族自決はゼカリヤにとって一つの希望でした。しかしペルシャ帝国はユダヤの完全自治を認めませんでした。
9章からは筆致が変わります。おそらくゼカリヤの弟子たちが書いた部分です。9-14章を「第二ゼカリヤ」と呼びます。ペルシャ帝国がギリシャ(13節「ヤワン」)のマケドニアから来たアレクサンドロス大王に軍事侵攻されたころ、すなわち紀元前4世紀が9-14章の書かれた年代でしょう。9章1-8節の侵略された地名は、アレクサンドロス大王の行軍進路と重なります。前6世紀の預言者ゼカリヤの弟子たちは、ペルシャ帝国とアレクサンドロス大王の帝国との軍事衝突を目の前で見ています。
5 アシュケロンは見る。そして彼女は恐れた。ガザも。そして彼女は非常にわなないた。エクロンも。なぜなら彼が彼女の望みを辱めたからだ。そしてガザ出身の王は滅びた。そしてアシュケロンは住まない。 6 そしてアシュドドに非嫡出子が住んだ。「そして私はペリシテの誇りを断った。 7 そして私は彼の口から彼の血を取り除いた。また彼の歯の間から忌むべき物を(取り除いた)。」そして彼もまた私たちの神のために残された。そして彼はユダにおける首長のようになった。そしてエクロンはエブス人のように(なった)。 8 「そして私は、渡り続けまた戻り続ける護衛によって、私の家のために野営した。そして抑圧し続ける者は二度と彼らの上を渡らない。なぜなら今や私が私の目で見たからだ。」
アシュケロン、ガザ、エクロン(5節)、アシュドド(6節)は、すべてペリシテ人の都市国家です(巻末聖書地図4)。ペリシテ人は、サウル王以来イスラエルのライバルでした。ダビデとゴリアトの物語も、イスラエルとペリシテの軍事的葛藤を背景とした物語です(サムエル記上17章)。
大国間の戦争を前にして、小国間の紛争はかき消されています。イスラエルが滅ぼそうとしてもできないペリシテはあっけなくギリシャの軍勢に敗れます。「彼」(5節)はアレクサンドロス大王、または大王を道具として用いた神を指します。ペリシテの誇る四つの強力な都市国家はぺしゃんこに潰されます。ガザ出身の王は廃位させられます。アシュケロンは人が住めないくらいに破壊されます。アシュドドの住民は強制連行されたり、別の民を植民させられたりしたのでしょう。神はペリシテの誇り(王の権威、軍事力、純血主義)を切断します(6節)。高いところを低く削り取ります。
ところが、その後の展開は意外なものです。神はペリシテ人を清めます。ペリシテ人に対して報復をし、都市国家群を滅ぼすのではなく、ペリシテ人を神の民に合流させていきます。「彼〔ペリシテ〕もまた私たちの神のために残された。そして彼はユダにおける首長のようになった。そしてエクロンはエブス人のように(なった)。」(7節)。「残される」という言葉は、「裁かれながら救われる」という意味の、聖書的救いの専門用語です(イザヤ書10章22節等)。「エブス」はエルサレムの旧名です(サムエル記下5章)。ダビデはエブス人を神の民に合流させ、その都市国家をイスラエルの首都としました。ペリシテ人の町エクロンも、裁かれながら赦されてエルサレムのようになったというのです。つまりイスラエルの仇敵ペリシテ人が、ここで神の民となっています。
神は自らペリシテ人の神となったと語ります。8節前段「そして私は、渡り続けまた戻り続ける護衛によって、私の家のために野営した。」は、謎の一文です。「私の家」はエルサレム神殿のことを指します。前4世紀に書かれたとすれば、神殿はすでに建築完成しているので(前515年)、そのように考えることが自然です。神はエルサレム神殿に住まわれる方です。その神が、「私は・・・野営した」というのですから、エルサレム神殿の外に宿泊したという意味でしょう。それは神自らがペリシテ人を護衛するための野営です。
神はペリシテ人を「抑圧し続ける者」アレクサンドロスを見張ります。海を渡って二度とペリシテ人の上を踏みつけ蹂躙しないように、神が自らの目で見るのです。アシュケロンはアレクサンドロスを見て恐怖しました(5節)。しかし神はアレクサンドロスを見ることによって、ペリシテ都市国家群を守ります(8節)。神に見られるアレクサンドロスは、アシュケロンと同じように恐れを神に対して持つからです。
イスラエルの敵であったペリシテを愛するという、この意外な救いの知らせに有名な9-10節が続いています。しかも、8節までに用いられている諸単語が、9-10節に継続して用いられています。「王」(5・9節)、「断つ」(6・10節)、「エブス」(7節)≒「シオン」「エルサレム」(9節)です。アレクサンドロス大王の帝国が、より強い者としてペリシテ都市国家群を侵略することに、神は反対しています。力を濫用され、小さくされている者の側に聖書の神は立ちます。ペリシテとイスラエルの関係ではイスラエルがより弱く小さかったので、神は瞳のようにイスラエルを守られました。だから、巨大帝国の軍事侵略に虐げられているペリシテを、神は御自分の民として裁きながら救うのです。
9 貴女は非常に喜べ。シオンの娘。貴女は叫べ。エルサレムの娘。見よ、貴女の王が貴女のために来る。彼は義しくまた救われ続けている。(彼は)柔和でまたろばの上に乗り続けている。またろばたち〔女性〕の息子の子ろばの上に(乗り続けている)。 10 「そして私はエフライムから戦車を断った。またエルサレムから(軍)馬(を)。そして戦闘の弓は断たれた。」彼は平和(を)諸国のために語った。そして彼の支配は海から海まで、また河から地の果てまで。
この聖句はマタイ福音書21章とヨハネ福音書12章に引用されています。イエスのエルサレム入城の場面を指すと信じられている「メシア預言」の一つです。群衆から歓迎され子ろばに乗ってエルサレムに入る場面は、「主がお入り用なのです」(マタイ21章3節)という言葉と共に非常に有名です。8節と9節とを連続させ、アレクサンドロス大王の帝国による軍事侵略や、かつてのペリシテ人との軍事葛藤が7-8節で乗り越えられていることを背景に捉え直すと、有名な聖句にも別の風景が現れます。
平和は大国の武力によってではなく、踏みにじられている小さな民や個人が、神によってつなぎ合わされ、神の民に編み込まれることによって形づくられます。9-10節だけを読むと、ユダヤ民族主義が高まりそうな内容です。そこにペリシテ人がエブス人(娘シオン、娘エルサレム)になるという救いの出来事を編みこまなくてはなりません。ところで、このペリシテは現代語の「パレスチナ」の語源です。強大なイスラエル軍によってヨルダン川西岸やガザに押し込められているパレスチナ人を聖書の神はご自分の民となさる方です。なぜならば力の非対称、力の大小の差は明らかだからです。現代イスラエル国家と古代のイスラエル、ユダヤの民を安易に同一視してはいけないのです。
ゼカリヤ書の示すメシアは軍馬に乗らずにろばに乗ってエブスに来る方です。つまり軍事占領されているアシュケロン、エクロン、ガザ、アシュドドにも丸腰で来るかもしれないというメシアです。ここでは「戻る」という単語は使われていません。エルサレムから出て行った王軍がエルサレムに帰って来たという情景ではないのです。メシアは「来るべき方」です。そしてこのメシアは「王」(9節)でありながら、「戦車」「戦闘の弓」(10節)を断つ方です。軍事の天才ダビデと明確に異なる、「ダビデの子ではないメシア」です(マタイ22章45節)。
しかもそのメシアは、自分自身「救われ続けている」方です(9節)。これで直訳です。原文の受動分詞(ニファル語幹)の意味が理解しにくいので多くの翻訳は曖昧にしています。しかしそこまで理解困難ではありません。神によって救われ続けているメシアは、十字架で苦しめられた柔和な義人(9節)をぴたりと指し示していると思います。イザヤ書53章の「苦難の僕」です。彼は世界最強のローマ帝国軍によって殺されました。剣を棄てていたので自分自身を救うことはできませんでした。そのイエスを神は三日目に起こし、よみがえらせ、神の右に座らせました。イエスというキリストは、神によって救われ続けている救い主です。それだからこそわたしたちのどん底に共感できるメシアです。わたしたちを救い続けることができるキリストです。
「彼は平和(を)諸国のために語った」(10節)。十字架で殺された方だけが真に「あなたたちに平和があるように」と語ることができます。アッシリア帝国・新バビロニア帝国・ペルシャ帝国・アレクサンドロス大王の帝国・ローマ帝国、そして大日本帝国やアメリカ合衆国も、武力による平和を目指し、「世界帝国」を樹立しようとしました。「彼の支配は海から海まで、また河から地の果てまで」(10節)という言葉は、世界帝国の支配領域を意識した表現です。イエスは支配の意味を革命的に反転させました。支配とは、大きい者が小さい者を従わせることではなく、大きい者こそが小さい者に仕えること。これこそ神の支配、神の国のルールです。この逆転の交わりが、人を復活させることができる、新しい神の民です。ここには、ユダヤ人もペリシテ人もサマリア人もギリシャ人も居て良いし、編み込まれていくことが求められています。大人も子どもも、さまざまな性の人も、色々な職業の人も、神に国・力・栄光を帰して、互いに仕え合う。それが教会です。
今日の小さな生き方の提案は、受難節にあってイエス・キリストがどのようなメシアであるのかを覚えることです。エルサレム入城のイエスの姿と、サマリア人の譬え話の中で強盗に襲われた人の姿とを重ね合わせてみましょう。どちらもろばに乗っています。救われ続けている人が、実は他人を救うことができるメシアです。無力に殺された方は、実は自らの意志で力を棄てた方です。その方は今も復活の生命をもって、すべての圧し潰されている人々と同じ呻きをもって、その人の十字架を共に担い人生を軽くしてくださいます。わたしたちは仲間内でさえ襲い半殺しにし見棄てることがある罪人です。イエス・キリストはその罪を裁きながら赦し贖い救い、わたしたちを自由にします。力をまとい力んで生きることではなく、力を棄て支配欲を棄てる生き方へと解放します。十字架の主を信じ、この方に従いましょう。