母の会礼拝説教 ヨハネの手紙一 4章19節 2013年5月7日

今日の聖書は(5月の暗唱聖句)、先月申し上げた神からの肯定を別の言い方で語ります。それは愛です。すべての人は神から愛されていると言うのです。神から愛された者同士として人間は平等です。いわゆる「天賦人権説」です。神から愛された者同士なのだから互いに愛し合いましょうと聖書は勧めます。よりよい社会をつくるための普遍的な教えがここにあると思います。

マザー・テレサという人は、愛の反対語を「無関心」と言いました。隣人に無関心ならば誰も(キリスト者であっても)免責されないということです。隣人への愛の第一歩は関心を持つことでしょう。さらに第二歩目があるのではないかと思います。それは共感を持つということです。共感というのは同情や憐憫ではありません。上からの見方ではないのです。そうではなく共感とは同じことがわたしにもありうると考えることです。それによって時代の苦しみを共に背負うことです。

具体的に申し上げましょう。「ある母親が自分の子どもを無視し食事を与えずに衰弱死させた」というワイドショー報道があったとします。わたしたちはどう思うでしょうか。亡くなった子どもへの同情はありうるでしょう。またはとんでもなく無関心な母親というワイドショーのコメンテーターの発言にうなずくこともあるでしょう。しかし、ここで立ち止まることが必要です。興味本位で関心を持つならば多数派に煽られてしまうことがあるからです。自分の頭で考えて、この母親に共感する必要があるのではないでしょうか。

なぜ彼女は子どもに無関心となったのでしょうか。もしかすると精神的な病になるほどに追い詰められていたのかもしれません。出産直後の不安定な時期と重なっていたのかもしれません。父親がほとんど子育てに参与していなかったのかもしれません。父親がいないのかもしれません。実家の両親に頼れない環境だったのかもしれません。もしかしたら毎日24時間子どもと一体一の状況になっていたのかもしれません。

もしそうだったならばわたしにもこの事例は起こりうると考えることが共感です。逆にいかにも「最近の母親は子育てに責任感を持っていない」などと煽る報道に同調すること、「あんなひどい母親でなくて良かった」と突き放すことが、関心を持っているけれども共感をしない=愛するということをしていないことになるのです。自分にもあるなあと考えるなら、それは社会全体の課題となります。個人の個性という「自己責任」ではなく、多くの女性たちに同じようなしわ寄せを与える世の中に課題や責任があるということです。

いづみの保育はキリスト教主義です。それは狭い意味で子どもや保護者に改宗を強要するものではありません。そうではなく、神からの愛を「アーメン」と受け取って、さまざまなことに関心を持ち、貶められている人に共感する人になっていくことを、おとなもこどもも目指すことに、その趣旨があります。