ヨハネ福音書は旧約聖書を直接引用することが比較的少ない福音書です。パウロの手紙(ロマ書が典型)やヘブライ人への手紙やマタイ福音書に比べて、特に元々の著者ヨハネは旧約聖書を自分の主張の根拠に用いたがりません。ただしかし、旧約聖書の精神を尊重して、そこはかとなく旧約と新約の連続を醸し出します。通奏低音のように旧約が響いています。たとえばヨハネ福音書の冒頭は、創世記1章の天地創造を思わせる書き出しです。「はじめに言があった」は、「はじめに神が天地を創造した」という出来事と通底しています。
今日の聖句においても、そのような響きがあります。ヨハネ福音書のイエスは、長大な遺言を最後の晩餐の席上語り続けます(13-17章)。遺言のしめくくりが祈りの言葉です(17章)。このことは、イスラエル民族の始祖であるヤコブという人物においても、そしてユダヤ教の開祖であるモーセという人物においても同じです。創世記の最後にヤコブの遺言(創47:27-49:33)、五書の最後にモーセの遺言があり(申命記全体)、それぞれ祈り(祝福)によって締めくくられています(創49章、申33章)。直接の引用ではありませんが、ヨハネ教会の人々は教会を新しいイスラエルととらえ、イエスを新しいモーセととらえています。このようなかたちで、旧約と新約を貫く「聖書の民」の連続性を言い表しています。現在の正典の順番からも、新約のヨハネ福音書は旧約の申命記の位置によく似ています。モーセを主人公とする五書の最後と、イエスを主人公とする四福音書の最後であるからです。そしてモーセの弟子であるヨシュアの活躍が続くことは(ヨシュア記)、イエスの弟子であるペトロやパウロが活躍することに似ています(使徒言行録)。
この旧約と新約との連続という観点から、今日は「栄光」という言葉について考えたいと思います。それが「永遠のいのち」とは何かを考える入口となるからです。
新共同訳聖書はイエスが主語の場合に「栄光を現す」と訳し、神が主語の場合に「栄光を与える」と訳し分けます(1・4・5節)。しかし、ギリシャ語においては、同じドクサゾーという動詞です。英語は同じ単語glorifyで訳語を統一しています。「栄光化する」(田川訳)が直訳です。福音書がここで言いたいことは、神とイエスの相互行為です。お互いに同じ行為をしているということを読み取る必要があります。神も神の子を栄光化し、神の子も神を栄光化しているという関係が重要なのです。
では名詞の「栄光」(5節末尾)や「栄光化する」(1・4・5節)ということが何を意味するのかが問われなくてはなりません。「栄光」と日本語で訳される、ギリシャ語のドクサという名詞は、ヘブライ語のカボードkbdの訳語です。エゼキエル書に登場し、出エジプト記では火の柱となってイスラエルの民を導く「主の栄光」もこのカボードです(エゼ1:28他、出40:38他)。
そこから推測すると「栄光化する(ドクサゾー)」は「重んずる(カベドkbd)」の訳語です。たとえば「あなたの父と母を敬え」(出20:12)とあります。ここに動詞カベドが用いられています。元々の意味は「重くなる」であり、対象がある場合には「重んじる/尊重する/敬う」という意味になる動詞です。そこで、神や親に対しても用いられるのです。「栄光化する」という言葉は、ヨハネ福音書において「尊重する」という意味合いで使われていると、わたしは考えます。
ヨハネ教会の人々のギリシャ語力は元々の著者ヨハネ以下と評されます。彼ら彼女らはヘブライ語(ないしはアラム語)で物を考え、頭の中でギリシャ語に組み替えて福音書に付け加えています。この事情を考えると、わたしの推測・解釈も一理あると思うのです。
今日の聖句によれば、イエスは地上における活動で、神を栄光化し尊重しました(4節)。愛の神が地上に降り立てば、イエスのように振る舞うはずです。イエスは神の愛を行うようにと派遣された神の子なのです。神からいただいた使命を忠実に果たして愛を行うことで、イエスは自分を遣わした神を尊重しました。この世界でつまはじきにされがちな人々を率先して愛する愛において、イエスは神を敬い重んじたのです。
その延長線上に十字架刑死があります。十字架は、愛の神を示す究極のかたちなので、やはり神を栄光化する行為・神を尊重する行為なのです。そうでなくては、1節で「(将来)あなたを栄光化するために」と重ねて言う必要はありません。最後の晩餐まで既に十分、地上で神を栄光化してきているのですから(4節)。イエスは愛の神の意志に従って、この世界で小さくされている人々を愛し、十字架で殺されるに至りました。それはこの世界全体を愛する愛を示すという、愛の神の意志に従うことでもありました。全世界分の罪(権威主義に代表される悪さと弱さ)をすべて背負って身代わりとして殺される、自分のいのちを差し出して複雑に絡み合う被害者と加害者のいのちを救おうとした、それが神の意志なので、イエスは神を尊重し自ら殺されていったのでした。
2節は「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために…」と訳されています。直訳は、「あなたがすべての肉の権威を子に与えたように」です。このことは十字架の意味を教えています。イエスの十字架は、全世界に充満している肉的/世俗的な権威主義=罪をすべて磔にして滅ぼし去る神の子の業だったということです。罪というものは、人間の根本的な倒錯であり「的外れ」なありようです。権威主義を身にまとうと偉くもないただの人が威張り始め自己肥大を起こし隣人を貶めます。権威主義に膝をかがめると誰かの権威の影で威張ったり、逆にただの人として平等なはずの自分を卑下したりし始めます。罪とは「肉の権威」です。これこそイエスを十字架に追いやったものですし、これこそイエスが十字架で取り除こうとしたものです(1:29)。
もしもイエスの十字架が自分の中にある罪を滅ぼすための身代わりと信じるならば、どんな人にも復活の永遠のいのちが与えられます。そのことが、2節後半の聖句の意味でしょう。「あなたが子に与えたすべてのものに…子が永遠の命を与えるため」(田川訳)の十字架刑死です。権威主義を捨て去ると肩の力が抜けます。ただの人として生きることができます。威張る必要もないし、卑下する必要もありません。人間を崇める必要もないし、人間を差別する必要もありません。イエスの十字架は権威主義による加害者である自分や、被害者である自分をあぶり出します。そして加害者であれ被害者であれ、すべての人は罪に囚われている生き方から解放されるべきであると教えます。
神は十字架と復活においてイエスを栄光化し尊重し敬いました。わが子を突き放し見殺しにしたことで「子離れ」という尊重の一形態を示しました。パターナリズム(庇護主義)の語源は、ギリシャ語パーテル(父の意)にあります。一見、神の意志を尊重した子に寄り添い、自分も隣を歩くことが神に求められているようにも思えます。しかし逆なのだと聖書は語ります。真に尊重し信頼している時に、相手と距離を取ることができるからです。神はイエスを見ながら棄てる=見棄てるということにおいて、十字架のイエスを尊重しました。
その同じ神が、非業の死を遂げて惨殺されたイエスをよみがえらせることで、神の子を尊重しました。神が、もっとも低いところに落とされたわが子を、もっとも高いところに引き上げ、再び自分の懐に入れたからです(5節)。あの神の国の祝宴が実現したのです。ラザロの復活です(12:2、ルカ16:22)。一度殺されたいのちを、イエスは神に与えられました。これこそ永遠のいのちです。神はイエスを喜びの食卓に招くことによって尊重し敬い仕えたのです。
このようにイエスは十字架に至る生き方において神を尊重し、神は十字架と復活においてイエスを尊重しました。相互に栄光化することが、神と神の子の業であり、それはすべて世界を救い出すための計画だったのです。すべての人に永遠のいのちを配るために、神と神の子が協力して汗をかいたということです。この三位一体神の救いの計画を知ることが、永遠のいのちを生きることです(3節)。「知る」ということは「人格的な交わりによって良く知る」という意味です。「信じる」「信頼する」とも言い換えられます。あるいは「身をもって知る」(本田哲郎訳)ということでもあります。知識として知るということではなく、自分の生き方として身に着けるということです。
今日の小さな生き方の提案は三位一体の神の織りなす救いの歴史を信じて、その中に参与することです。
第一に自分の罪を知ることです。世俗的な権威主義がわたしたちの良心をむしばんでいます。わたしたちは今も無数のイエスをむさぼり殺している加害者としての罪を、十字架によって知ります。
第二に自分を取り巻く罪を知ることです。権威をふりかざし・力を濫用する世界はわたしたちを抑圧し貶めています。わたしたちは、小さくされた者たちの弁護者であるイエスの十字架によって、罪にあふれる世間によって自分たちも被害者とされていることを知ります。
第三に十字架と復活が世界と自分に変革をもたらす逆転装置だと知ることです。身代わりの犠牲として殺されたイエスと、イエスをよみがえらせた神、この両者の目的は、わたしたち/世界の生まれ変わりにあると知ることです。十字架によって知らされた罪が復活によって反転されます。被害者には立ち上がる力が与えられ、加害者には悔い改める勇気が与えられます。
第四に生まれ変わりはお互いの尊重にあるということを知ることです。その典型例は神と神の子にあります。呼びかけ合うことや(アッバ⇔愛する子)、相手の意志を最大限尊重することや、過度に手を出して予め守らないことや、どん底からの回復を手助けすることなどによって、神と神の子はお互いを栄光化し重んじていました。この生き方こそ、「肉の権威」の反転です。
第五に三位一体の神の交わりを地上でも不完全ながら実現できるということを知り、そこに参与することです。それが教会という交わりです。礼拝を中心とするときに、尊重し合う交わりが形作られていきます。わたしたちの目指す最もひまな教会とは、最も礼拝のみに集中する教会ということです。礼拝で用いる言葉は暴力的ではありません。基本的には座って(威圧的ではない)互いに適度な距離を保っています。それと同時にあらゆる人を招く平等の食卓が表現されています。礼拝中の教会こそ暫定的な神の国です。
第六に神が先におられるということを知ることです。イエス・キリストによる尊重の文化を広めることが伝道です。伝道とは組織としての教会の拡大再生産ではありません。そうであれば能力主義・効率主義が幅を利かせ、またもや「肉の権威」に逆戻りです。わたしたちが福音を持ち運ぶのではなく、霊である神がすでに先に働いているその場に、月曜日から遣わされるのです。そこで非信者の中にも働くイエスの霊に出会い聖霊の起こす出来事に遭遇するのです。そうして相手を否定せず尊重し、礼拝を紹介し招くことが伝道です。
この第一から第六までの循環に永遠のいのちがあります。主の晩餐を守りながら天国の祝宴と世の終わりの食卓を望み見て、永遠のいのちを生きましょう。